2007年01月
2007年01月14日
『小泉官邸秘録』、『奇跡と呼ばれた学校』『それでボクはやってない』
小泉前首相の主席総理秘書官をしていた飯島勲という人の小泉政権を楽屋を書いた本。この種の本はめったに読まないけれど、小泉前首相のやったことに対して、身近に多い旧左翼的心情をひきずった友人たちと違って、私は多くの庶民とともに共感を感じていたので、珍しく電車の中で最初から最後まで読みきって、とても面白かった。
もちろん小泉に惚れ込んで彼を支えた人の書いたものだから、小泉のことを悪く書いてあるはずはないが、それをうんと割り引いて読んでも、従来の首相とは異質な小泉独特の一貫した姿勢や考え方、決断力の卓抜さ、人を動かす力などが、具体的な局面の中で発揮される生々しい様相で描かれていて、やっぱりな、と確認させられるようなところがたくさんあった。
だいたい学生時代から私たちの周囲の友人たちは、私自身も含めて、政治家、とりわけ首相なんてものは、少なくとも在任中は権力の権化で、批判の的としか考えてないから、良い面は視野の外へ吹っ飛んでしまっていることが多いのだけれど、小泉はほとんど唯一の例外だった。
そして安倍政権になり、振り返る眼差しになると、益々小泉の特異さ、優秀さが際立って見えてくるような気がする。いまごろ、あとになって、格差を広げた小泉はけしからんとか、色々評論家めいた連中が悪口を言うけれど、じゃぁどうすりゃ良かったの?と反問して答えられる人はそういう中にはあまりいないのではないか。
彼がいなければもっとずっとひどいことになっていたろう。既得権にしがみついている構造的権力というのは、あれくらいの荒療治をやらないと、ひっぱがす端緒さえつかめないに違いない。
*
堀川高校では、国公立大学の現役合格者が6人から106人になったというので、奇跡を起こした、と評判になっているらしい。朝日選書で、その立役者とされている校長さん(荒瀬克己氏)が顛末を書いているので、これも電車の中で読んだ。
生徒の尻をたたく新しい受験教育の方法など編み出して、大学の合格者数が何倍になった、とかいうような話だったらつまらないな、と思って手にとったが、そうではなかった。
読んでみると至極まっとうな考え方の持ち主で、やってこられたことも至極まっとうなことばかり。つまり、それがこれまでできなかった堀川高校も含めて京都の公立高校って何だったの?というようにさえ思える。
でも、これはコロンブスの卵なのだ。偉大なことというのはたいてい、そんなふうにあとになってみると、あたりまえに思えてしまう。
第一、この先生自身が書いている。自分たちは、あたりまえのことをするように心がけてきたんだ、と。つまりあれか、これか、と選択肢があったら、いつもどっちがあたりまえに思えるか、と考えて、いつも誰にとっても当たり前に思えるほうを選択してきた、と。
それがすごいことだと思う。つまり、いまの高校というのは指導要領などの制度的な縛りからも、また大学入試とゆとり教育でもみくちゃになった中学との間にはさまれた実質的なありようとしても、さらに戦後は進歩的な役割を果たしてきた日教組の(ほかの労働組合と軌を一にする)内部崩壊と教員の質の低下、生徒の家庭のほうの崩壊など、どんなマイナス要因を挙げてもいいけれども、とにかくまともな教育がなされるような場所ではないのだ。
だから、そのなかで、「あたりまえのことをする」ことは、全然「あたりまえ」ではなくて、ほとんど「奇跡」に等しい。
具体的な教育のスキルにあたるような部分には職業柄、とくに興味を持って読んだが、彼がやっていることは大学で私たちが学生の自主性を生かしたゼミを工夫したいと考えてきたことと多くの共通点を持っている。
彼が知識習得型と課題探求型と分けて、両方が必要だと言い、とくにこれまでの高校教育で弱かった後者に力を入れ、課題探求型を進めるために必要な基本的なスキルを計画的な手順を踏んで身にすけさせ、あとは生徒の自発的な探究心と行動力を引き出して彼らに委ねる、というのは、まったく私などがゼミで描いている理想と変わらない。
何かテーマをみつけてプロジェクトとして企画のアルファから成果を出して振り返るオメガまで、全工程を経験する、その経験を通してしか本当に知識や思考力やコミュニケーション力のようなものが身に付くことはない、というのが私の切実な思いだけれど、堀川高校の実践の中に幾つも共通する姿勢を見出してわが意を得たりの感があった。
かつて次男を含む数人の中学・高校生相手に6年間、会社づとめのあいだに、ほとんど休まず週一度の土曜塾を続けてきたときも、既成の中学・高校教育にきわめて大きな不信感をもっていたので、自分流のやり方でつきあってきた。
あのころに考えていたようなことが、既成の高校でもごく一部の学校や教員の間でのことかもしれないけれど、ようやく行われるような時代になってきたのかな、と思った。
もっとも、これまでにも部分的にはいい芽があって、長男が洛北高校に通っていたときも、数学の教員にとても柔かな頭を持った人がいて、既成の学校のつまらなさから生徒たちを守っていてくれたようだ。おかげで子供たちが既成の教育システムの弊害を最小限にしか蒙らずに、ある意味で自由を享受しながら通り過ぎることができた。そのことには今でも感謝している。京都の府立高校には、ほかに比べると、まだそういう自由な気風の名残があったのかもしれない。
*
最後に、『シナリオ』2月号所収の周防正行監督の最新作の脚本「それでもボクはやってない」を読んだ。この映画は「Shall we dance?」のような爆発的ヒットとはいくまい。ずいぶんしんどい話だ。
11年もかけて調べに調べ、考えに考えてつくった映画で、映画的演出に妥協せずに現実の裁判がこうだ、というのをどうしても描かずにはいられないという使命感で作ったと脚本家にして監督である周防自らが言うのだから、いまの裁判というのはこういうひどい状況にあるのだろう。
もちろんここに描かれた現実の裁判の恐ろしさに震え上がったり、憤ったりというのは周防の望むところなのかもしれないが、やっぱり映画ってそういうものか、という疑問を禁じえない。
私は基本的にメッセージ性の強い映画は苦手だ。はっきりいうと嫌いだ。
裁判の現実がこうだ、というなら、小説でもシナリオでも映画でもなく、よく調べて、資料とともにその主張を論文かジャーナリズムの記事でか、書けばいい。映画や小説のほうが見てくれる人が多い?そういう多い少ないに映画や小説の機能があるんですか、周防さん?
映画を観る前にシナリオを読んでしまったから、この映画はちょっと観る気が萎えてしまった。読んでかえって観たくなる映画もあるが、この映画は反対のようだ。
もちろん小泉に惚れ込んで彼を支えた人の書いたものだから、小泉のことを悪く書いてあるはずはないが、それをうんと割り引いて読んでも、従来の首相とは異質な小泉独特の一貫した姿勢や考え方、決断力の卓抜さ、人を動かす力などが、具体的な局面の中で発揮される生々しい様相で描かれていて、やっぱりな、と確認させられるようなところがたくさんあった。
だいたい学生時代から私たちの周囲の友人たちは、私自身も含めて、政治家、とりわけ首相なんてものは、少なくとも在任中は権力の権化で、批判の的としか考えてないから、良い面は視野の外へ吹っ飛んでしまっていることが多いのだけれど、小泉はほとんど唯一の例外だった。
そして安倍政権になり、振り返る眼差しになると、益々小泉の特異さ、優秀さが際立って見えてくるような気がする。いまごろ、あとになって、格差を広げた小泉はけしからんとか、色々評論家めいた連中が悪口を言うけれど、じゃぁどうすりゃ良かったの?と反問して答えられる人はそういう中にはあまりいないのではないか。
彼がいなければもっとずっとひどいことになっていたろう。既得権にしがみついている構造的権力というのは、あれくらいの荒療治をやらないと、ひっぱがす端緒さえつかめないに違いない。
*
堀川高校では、国公立大学の現役合格者が6人から106人になったというので、奇跡を起こした、と評判になっているらしい。朝日選書で、その立役者とされている校長さん(荒瀬克己氏)が顛末を書いているので、これも電車の中で読んだ。
生徒の尻をたたく新しい受験教育の方法など編み出して、大学の合格者数が何倍になった、とかいうような話だったらつまらないな、と思って手にとったが、そうではなかった。
読んでみると至極まっとうな考え方の持ち主で、やってこられたことも至極まっとうなことばかり。つまり、それがこれまでできなかった堀川高校も含めて京都の公立高校って何だったの?というようにさえ思える。
でも、これはコロンブスの卵なのだ。偉大なことというのはたいてい、そんなふうにあとになってみると、あたりまえに思えてしまう。
第一、この先生自身が書いている。自分たちは、あたりまえのことをするように心がけてきたんだ、と。つまりあれか、これか、と選択肢があったら、いつもどっちがあたりまえに思えるか、と考えて、いつも誰にとっても当たり前に思えるほうを選択してきた、と。
それがすごいことだと思う。つまり、いまの高校というのは指導要領などの制度的な縛りからも、また大学入試とゆとり教育でもみくちゃになった中学との間にはさまれた実質的なありようとしても、さらに戦後は進歩的な役割を果たしてきた日教組の(ほかの労働組合と軌を一にする)内部崩壊と教員の質の低下、生徒の家庭のほうの崩壊など、どんなマイナス要因を挙げてもいいけれども、とにかくまともな教育がなされるような場所ではないのだ。
だから、そのなかで、「あたりまえのことをする」ことは、全然「あたりまえ」ではなくて、ほとんど「奇跡」に等しい。
具体的な教育のスキルにあたるような部分には職業柄、とくに興味を持って読んだが、彼がやっていることは大学で私たちが学生の自主性を生かしたゼミを工夫したいと考えてきたことと多くの共通点を持っている。
彼が知識習得型と課題探求型と分けて、両方が必要だと言い、とくにこれまでの高校教育で弱かった後者に力を入れ、課題探求型を進めるために必要な基本的なスキルを計画的な手順を踏んで身にすけさせ、あとは生徒の自発的な探究心と行動力を引き出して彼らに委ねる、というのは、まったく私などがゼミで描いている理想と変わらない。
何かテーマをみつけてプロジェクトとして企画のアルファから成果を出して振り返るオメガまで、全工程を経験する、その経験を通してしか本当に知識や思考力やコミュニケーション力のようなものが身に付くことはない、というのが私の切実な思いだけれど、堀川高校の実践の中に幾つも共通する姿勢を見出してわが意を得たりの感があった。
かつて次男を含む数人の中学・高校生相手に6年間、会社づとめのあいだに、ほとんど休まず週一度の土曜塾を続けてきたときも、既成の中学・高校教育にきわめて大きな不信感をもっていたので、自分流のやり方でつきあってきた。
あのころに考えていたようなことが、既成の高校でもごく一部の学校や教員の間でのことかもしれないけれど、ようやく行われるような時代になってきたのかな、と思った。
もっとも、これまでにも部分的にはいい芽があって、長男が洛北高校に通っていたときも、数学の教員にとても柔かな頭を持った人がいて、既成の学校のつまらなさから生徒たちを守っていてくれたようだ。おかげで子供たちが既成の教育システムの弊害を最小限にしか蒙らずに、ある意味で自由を享受しながら通り過ぎることができた。そのことには今でも感謝している。京都の府立高校には、ほかに比べると、まだそういう自由な気風の名残があったのかもしれない。
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最後に、『シナリオ』2月号所収の周防正行監督の最新作の脚本「それでもボクはやってない」を読んだ。この映画は「Shall we dance?」のような爆発的ヒットとはいくまい。ずいぶんしんどい話だ。
11年もかけて調べに調べ、考えに考えてつくった映画で、映画的演出に妥協せずに現実の裁判がこうだ、というのをどうしても描かずにはいられないという使命感で作ったと脚本家にして監督である周防自らが言うのだから、いまの裁判というのはこういうひどい状況にあるのだろう。
もちろんここに描かれた現実の裁判の恐ろしさに震え上がったり、憤ったりというのは周防の望むところなのかもしれないが、やっぱり映画ってそういうものか、という疑問を禁じえない。
私は基本的にメッセージ性の強い映画は苦手だ。はっきりいうと嫌いだ。
裁判の現実がこうだ、というなら、小説でもシナリオでも映画でもなく、よく調べて、資料とともにその主張を論文かジャーナリズムの記事でか、書けばいい。映画や小説のほうが見てくれる人が多い?そういう多い少ないに映画や小説の機能があるんですか、周防さん?
映画を観る前にシナリオを読んでしまったから、この映画はちょっと観る気が萎えてしまった。読んでかえって観たくなる映画もあるが、この映画は反対のようだ。
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