2006年12月

2006年12月23日

「使命と魂のリミット」「赤い指」

 最近は電車の中で小難しい本が読めなくなって(すぐ居眠りが出るので)、小説くらいしか読めなくなってしまった。
 ここ数日は、少し前に「手紙」を読んで面白かったので、東野圭吾を続けて読んだ。この作家のは全部読んでいる、という学生さんも多いくらい、熱烈なファンが多いらしい。
 私自身はそういう追っかけ方をしている作家は、故人と作家ではない現存の書き手が一人居るだけで、まずまず人の読む程度の作品はほぼ全部、というのが現存作家では村上春樹くらいしかない。

 東野圭吾は、なにか学園もの?みたいなのを以前ちょっと読んで、あと読み続けなかったが、テレビの「白夜行」を福田麻由子の表情の演技に驚嘆して連続してみるはめになり、そのストーリーが結構面白かったので「白夜行」を読んだ。そして「容疑者Xの献身」「手紙」と読んで今回の2作。

 「使命と魂のリミット」は、私には、いままで読んだ東野の作品の中で一番良かったし、一番面白かった。いつものように文章もいいし、丁寧に書き込んであり、専門的な医学の世界にもよく切り込んでいて、構成もうまい。犯罪ものとして犯人に視座を置いた展開の部分と、主人公の研修医の日々にひそむ内面の疑惑や迷い、職業意識といったものの系列とがバランスよく描かれて、それぞれの章が心憎いところでカットされては次のカットに移行し、絶妙のテンポで進行する。どんでん返しもいいし、読後感もさわやか。きわめて上質のエンターテインメントだ。ただ、犯人の動機付けについてはやっぱり弱い印象で、そこは「小説」ではなく「犯罪小説」になっている。

              *

 「赤い指」は「使命と魂のリミット」に比べると荒っぽい作品という印象だ。サラリーマン家庭の日常的な暮らしが舞台なので、作者にとっては手馴れた世界なのだろうか。なんでもないサラリーマンが、自分でも思っても見ないシチュエーションに突如置かれて、ぐいぐい巻き込まれていってしまう、そのあれよ、あれよ、という感じはある意味でリアルだけれど、そのあれよ、あれよに重点が置かれているせいか、夫も妻も誇張されたパターンで描かれていて、人間としてみれば、いくらなんでも、それくらいは考えるよね、それくらいはどんなにうかつでも気づくよね、といった違和感を覚えるところはいくらでもある。

 ここでは、見るべきものを見たくなくて全部妻に委ねてきた夫と、姑と向き合うことを避けてただただ息子を甘やかしてその奴隷になって、やはり見るべきものを見たくない妻と、母親に甘やかされて図体と年齢だけ大きくなった幼児の化け物みたいな息子という、はじめから戯画的に誇張された、犯罪小説向きのうすっぺらなキャラクターしか存在しない。
 
 だから、「犯罪小説」の核心をなしている、夫の思いつきや、最後のどんでん返しは、それなりに面白いけれど、「小説」としてはうすっぺらになっている。夫が最後に気持ちを変える理由はきわめて人間的なものなのだが、東野のほかの「小説」のようにそれが必ずしも心に響いてこず、単に「犯罪小説」の仕掛けの一要素のようにしか感じられないのは、そのためだと思う。



at 14:31|Permalink

2006年12月03日

東野圭吾『手紙』

推理小説とかSFといったジャンル名を付した言い方がある。それでいうと犯罪小説に括られる内容の小説だけれど、この作品にはジャンル名は不要。掛け値なしにいい作品だと思った。

一言でいえば、強盗殺人を犯した兄を持つ弟が遭遇する「世間」を弟の目で描いているのだけれど、その「世間」は読者である私(たち)そのものであるかのように、じわじわと感じさせるような仕掛けになっている。

 犯罪小説と銘打たなければ成立しないような作品との違いは、その「世間」に心憎いまでのリアリティがあるところに端的にあらわれる。犯罪小説や安物の犯罪ドラマにありがちな、単純な差別やそれに耐えて戦う主人公やそれを義憤のまなざしで擁護する作者といったものは、この作品には見られない。

 「社長」平野のような人物が語る言葉のように、ところどころ違和感を感じずにはいられないところはある。しかし、作者は登場人物のどの立場に対しても、簡単に肯定も否定もしない。かといって、曖昧なわけでも、作者が迷っているわけでもない。それぞれの人物がそれぞれの生き方と考え方に即して語っている。その中に確かに自分が居る、と感じさせる。

 また、もしこのような事件が起こり、このような立場に立たされた人物がいたとすれば、ここに描かれたように事態は進行するだろうと感じさせる。ことがそれこそ何の罪もない弟の子供にまで及ぶとき、じわじわと追い詰められてきた読者は底知れぬ恐怖を感じる。しかし、この作品は子供に影響の及ぶ直接の原因をつくった(と思われる)町谷夫妻をけしからぬ、と指弾するメッセージを発してはいない。さらにさかのぼって、最初の原因である兄の剛志をも指弾してはいない。むしろ彼は単に不運であったかのようにさえ描かれる。殺人はほとんど偶然のいたずらだったかのようだ。

 しかし、その「偶然」の、「不運」な犯罪が、いったん現実に起きたときに、どれだけの波紋を周囲に広げていくものか、それがどれほど重いものであるのか、それについて、当事者でさえもいかに徹底的に目をそらそうとするものであるか・・・そうしたことが私たち自身のこととしてここに描かれている。

               * 

 再びわが家は次男たちの映画づくりに巻き込まれることになった。次男宅にはスタッフの中核数名が泊まりこみ、深夜も作業して出入りするため、次男のパートナーと赤ちゃん(私の孫)はわが家へ避難し、一方私のパートナーはケータリングその他で直接に製作への協力を依頼され、それやこれやで急にあわただしくなってきた。

 この時期になると授業は遅れ気味で押し詰まってくるし、レポートなどの採点はたまりにたまるし、試験問題はつくらなくてはならないし、卒論の指導のほうも本来ならもう最終局面のはずが全然進捗がみられないので焦らなくてはならないだろうし、忘年会も二度三度ではないから、まさに「師走」、師は老体に鞭打って走らざるを得ない最終月です。

at 02:10|Permalink
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