2006年11月

2006年11月25日

『水曜の朝、午前三時』

 蓮見圭一の『水曜の朝、午前三時』を読む。単行本でベストセラー、いまは文庫本がどこの書店でも平積みしてある。気にはなっていたが、あまりベストセラーに手を出す気がせずにいたのだが、電車の往き復りに硬い本ばかり鞄に入れていって、結局居眠りばかりして何も読めない日がつづいて嫌気がさしたので、たまに小説でも、ということになって手にとった。

 ヒロインの年齢が近いので、まったく同時代を生きてきたわけで、おまけに重要な舞台として京都が出てくるので、まず背景に親近感が持てる。描かれたヒロインのような女性は苦手だけれど、こういう女性の突っ張った生き方の芯にあるひたむきさみたいなものは、なかなかよく描かれている。

 非常に能力が高くて周囲がバカに見えて仕方ない人なのに、凡庸な人生を強いられて、それに抗いつづけることと、許婚を棄てて好きな男に入れあげることとが重ねあわされている。

 語り口は適度に情緒的で透明感があり、滑らかで巧み。中間小説風のなめらかさがある。いまどきの女性の先駆のようなヒロインで、女性たちの共感も呼ぶだろう。ベストセラーになったのもわかる。 

 ただ、このヒロインの考え方や行動は、時代の制約もあって、意外に保守的なものだ。そして、抜群の能力を持ち、いまでいえばチョーカッコイイ相手の男が朝鮮人であるとわかると「こわくなって」逃げ出してしまう、というところも、時代の枠組みの中でのこととはいえ、いま読めば違和感をおぼえる。差別意識がどうこうという違和感ではなく、いま書かれる小説のドラマを成り立たせる核心のところにそれを持ってくる必然性についての違和感だ。

 

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2006年11月05日

小川洋子『海』、村上春樹『街と、その不確かな壁』

 土曜が休みのところだと3連休で、街や電車・バスは人で一杯だが、昨日につづいて出勤。午後から夕方やや遅めまで、みっちり仕事をする。ふだんは通勤に時間がかかるので、授業や学校から命じられる仕事をしたら、残る時間はごく僅かだ。せめてその時間くらいは学生さんとつきあうことにしようと思ってきたので、平生はゼミやクラスやそれ以外の学生さんが自由に出入りして、こちらも話が長いほうなので、ときに話し込んで気がついたら外は真っ暗、ということもしばしば。

 このところ日が落ちるのが早いから、おおむねあいている5時間目などは、ちょっとゆったりしていると、もう外は真っ暗ということが多い。
 今日は入試の真っ最中で、学生の出入りが禁止されているために、校舎内は昼間からひっそりしている。
 あれこれとたまった仕事を片付け、最後に授業準備の大量印刷などしていたら、もう同じフロアの明かりは全部消えてしまっていた。

 電車の行き帰りに、小川洋子の『海』を読む。『博士の愛した数式』の作者で、同僚らと一緒に食事をした折にあのベストセラーのことを昔からの友人でもある同僚が「良かったやろ」、というので、一応うなづいたものの、「川上弘美のほうが好きだけど」と答えた。彼はすかさず(?)「○○は×××やさかい」(誤解する向きがあるといけないので敢えて伏字)というような訳の分からんことを言っていた。

 川上弘美⇒センセイの鞄⇒×××、という連想は分からなくはないけれど、超短絡的でその想像力の貧困はお話にならない。それに、あの作品は×××でも何でもなくて、作品としてほんとに良かった。ほかに彼女にはいい短編がたくさんある。

 小川洋子の『海』も短編集で、『博士の愛した数式』ほど面白くはなかったけれど、この作家の一風変わった味わいは短編でも味わえる。中でも「バタフライ和文タイプ事務所」が良かった、というとまた件の友人にして同僚から、「○○は・・・」とあらぬ疑いをかけられるのだろうか。

 和文タイプの活字の文字と字義が絡んで不思議な一種のeroticismのようなものさえ立ち上がってくるのは心憎い技だ。この作品で文字の発散する強い色や匂いのようなものを生き物の色や匂いのように感じることのできる特異な感受性がこの作家のユニークな持ち味であることは『博士・・・』の場合も共通している。

 ただ、私自身は、その実に微妙な感覚を巧みに構成したその作品が、結果的に理知の作為した人工的な構築物のようで、技に舌を巻きはするが、好きかと言われれば好きにはなれそうもない。そのクールさ、透明さは、いまふうだし、それゆえ多くの読者に愛されるのかもしれないのだけれど・・。

 もう一つ、村上春樹の『街と、その不確かな壁』を古い掲載誌(『文学界』1980)のコピーで読んだ。これは、春樹ファンの長男が、前々回帰省した折に、これ読んだ?と訊いて、読んでないというと置いていってくれたコピーだ。

 雑誌掲載作品を単行本化するときや、版を新たにする機会に、作者が大幅に加筆・修整することは少なくないけれど、この作品は作者が単行本に収録することを拒んで、雑誌掲載のままいわばお蔵入りさせてしまった作品だ。

 作者自身がもはや自分の生み出した作品として読まれたくないと考えている作品まで掘り返して読みたいというのはファン特有の心理だろう。私自身は現存作家では彼がもっとも優れた作家だと思って、新刊が出れば必ず読むけれど、ファンというわけではないので、作者自身が自信をもって送り出した、すぐれた作品だけ読めば満足だ。

 でも今回はそういういきさつで、偶々作者自身が刊行を拒んでいるらしい若書きの作品を読むことになった。54ページほどの中篇小説。

 「語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。
  おまけにことばは死ぬ。
  一秒ごとにことばは死んでいく。路地で、屋根裏で、荒野で、そして駅の待合室で、コートの襟を立てたまま、ことばは死んでいく。
  お客さん、列車が来ましたよ!
  そして次の瞬間、ことばは死んでいる。
  可哀そうに、ことばには墓石さえもない。ことばは土に戻り、その上に雑草が茂るだけだ。・・・(略)」

 いきなりこんなふうに始まる。私はなぜか横光利一のごく初期の小説(「頭、または腹」)を読んだときの印象を思い出した。「ことば」が擬人化されて主語のように書かれているのが、「列車が沿線の駅を小石のように黙殺した」というような文体(うろおぼえ・・)を連想させたからかもしれない。

 そして、同時に、庄野潤三の『プールサイド小景』の冒頭の雰囲気を思い出した。それは、描写ではなくて、ちょっと理屈っぽい、悟ったような作者のご託宣で始まっているところが似ているからかもしれない。そう言えば村上春樹と庄野潤三はこの関西の豊かな中産階級という共通の基盤がある。さらに私が彼のベストの作品と思っている『静物』を、村上春樹も若い読者向けの短編の紹介を装った評論で、詳細に論じていた。

 ただ、今回読んだこの作品は作者自身がみずから葬った作品なので、ここでどうこう言っても仕方がないし、フェアでもない。村上春樹は先日「カフカ賞」を受賞したそうだけれど、この小品に登場する「壁」や「門番」にカフカの「掟」や「城」の影を見ることは容易だろうし、ファンなら作者本人の意志に反してでも、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をはじめ、ここにも既にムラカミ・ワールドに通じる小道がいたるところについていることを指摘できるだろう。

 ただ、ごく普通のサラリーマンや主婦のような大人の社会人の読者が読むとき、ここには作者が永遠に封印した、ある種の気恥ずかさを感じざるをえない部分があることは否定できない。
 私はそれを、学生映画や、あえて「自主制作」を強調したがる映画などに、しばしば見るので、前にそのことについては触れたおぼえがある。
 そのときには、その気恥ずかしさを、ある種の幼稚さだと見ていたけれども、正確に言えば、幼稚さそのものというよりは、幼稚さを客観視できないことが問題なのだろうと今回思った。
 
 つまり、書いている(作っている)本人は大真面目なのだけれど、それが不特定多数の読者(観客)にどう見えるか、という自分(の作品)を客観視できる複眼がないということなのだろう。そこで、本人の大真面目な熱演が客席のクールな目には、滑稽であったり、しらけさせるものであったり、失笑を買うようなものになってしまうらしい。

 だから、結局のところ、客観視とか複眼とは他人の目、ということになるのだろう。そう考えると、クールが売り物のような村上春樹に珍しい、本人だけが大真面目で熱い言葉を書き付けた痕跡の見られるこの作品は、普通の作品を読むのとはまた違った楽しみがあると言うべきか。
 

 

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