2006年08月

2006年08月22日

「時をかける少女」

 仕事は午前中で終わったので、京都シネマでパートナーと待ち合わせ、2時50分からの「時をかける少女」を見る。チケットを2時間前に買ったのに、それでも整理番号は27?28番。
 
 下のレストランで昼食を済ませ、大丸をぶらついて、20分くらい前に戻ってみると、狭いロビーは若い人たちで溢れている。「揺れる」と同じ時刻の始まりなので、どちらもすごい人気で、もう「時を・・」のほうは満席だとアナウンスしている。

 どちらもあまり宣伝費をかけていない、どちらかと言えばマイナーな映画なのに、いい目を持った若い人のあいだではそんなこと関係なく、いい映画の評判はすぐに口コミで広がるのだろう。10分ほど前から入場させたが、狭いホールは最前列まで1席も余さず満席で、両脇の通路は立ち見が10人ばかり。

 肝心の映画だが、とても好感の持てる作品だった。鳴り物入りで宣伝しているゲド戦記などより、はるかにいい。

 たしかに、ゲド戦記にはジブリの技術的な水準は反映されているから、アニメのプロダクションとしての組織的な技術力は、「時を・・・」よりもずっと充実している。しかし、製品を生み出す組織の生産力ではなく、芸術作品を生み出す個性の創造力はどうか、と問えば、「時を・・」に軍配が上がる。

 大林宣彦の実写版もいい作品だったけれど、今回のアニメ版は、それとはまったく別の作品として、明るく、無限の青空を見るように透明で美しい、ハートがキュンとなる、志の高い佳品。

 脚本がいい。設定がいい。真琴をはじめ、主要なキャラクターたちの声もいい。展開のテンポがいい。しかも間合いが絶妙。ときおり挿入される、学校の日常の、何でもない風景の静止画が懐かしく、ほっと心やすらぐ。
 
 典型的な青春まっただなかのキャラクターの初々しさとちぐはぐさ、未熟さと純粋さ、どこにでもある平凡さといまここにしかないかけがえのなさ。
 ここにはそれらすべてがあり、きちんと表現されている。

 一枚一枚の絵は、湯水のように金をかけて高度な技術力を見せ付けるような絵ではない。歩いたり走ったりするヒロインたちの姿や動きに、ときに不自然さも感じる。
 それでも、その単純であかるい線と色から、志の高さは確実に伝わってくる。
 
 異次元の未来と現在の往還というSF的なシチュエーションが、アニメという表現形態によく合っている。
 大林の映画はどれも好きだけれど、「時を・・」に関しては、こちらのほうを採る。
 

at 02:28|Permalink

2006年08月02日

ゲド戦記 & ハチクロ

 昼前から東宝公楽で「ゲド戦記」、終わってから京都シネマで「ハチミツとクローバー」を観る。

 「ゲド戦記」はもともと世界的な人気ファンタジー(未読)が原作の上、宮崎吾朗が初監督のジブリ作品、さらにテレビ、雑誌などマスメディアを挙げて鳴り物入りの宣伝をしているので、冷静に観ることが難しいほどだけれど、プロダクションの基盤的技術を別とすれば、どうみても新人監督の文科省推薦映画的に素直なファンタジー(思春期の傷ついた心の回復・再生を描く)という以上の評価を下しようがない。音楽も耳に残らない。そっとしておいてあげないのも気の毒な気がして、偉大な父親をもつと大変だなぁと思う。

 「ハチクロ」のほうは原作のマンガが私の苦手なタッチで読みにくいので、ちらちら眺めた程度で、よく分からないまま映画のほうを偶然先に見ることになったのだけれど、<竹本>→<はぐ>の片想いを軸に整理して単純化してあるとみえて、分かりやすかった。

 映画としてはB級青春ものだけれど、キャストの若者たちはとても良かった。とくに真山役の加瀬亮とあゆ役の関めぐみがとても良かった。蒼井優も存在感があったし、櫻井翔もまぁまぁ頑張っていた。
 
 ただ、森田役の伊勢谷友介には登場するだけで惹きつけられるような魅力がほしかった。堺雅人は新撰組のとき、いい役者がいるなぁと感心した若手の成長株だけれど、この映画の花本先生には彼本来の魅力が引き出されていない。

 マンガの原作を映画にするときは、マンガ固有のハチャメチャなところ、「ありえない」面白さをどう映像的に処理するかが、決定的に重要だと思う。「原作のキャラを役者がそのまま演じればいい」などと錯覚すれば、べったりと重く暑苦しい映像になるに決まっている。

 「下妻物語」などは実にうまくそのへんを処理していたけれど、「ハチクロ」はそこが全然わかっていないような気がした。「NANA」のときも同じ印象を持ったけれど、これだけの初々しい役者を使って、もったいないな、と思った。けれど、「NANA」よりはマシだった。

 同じ時間帯に先日観た「ゆれる」が上映されていて、入るときに、平日なのに向こうはものすごい数の人がロビーで待っていて、どんどんホールへ吸い込まれていった。

 「ゆれる」は私も先日書いたように、とてもいい作品だった。メディアでも好評のようだし、なによりも観た人のクチコミですばらしいというのが伝わり、観客層がひろがってきたのだろう。「ハチクロ」のほうは京都シネマの小さなホールでも空席が多かった。

 帰り道、「ゆれる」と、今日みた二つの作品、鐘と太鼓で宣伝している人気プロダクションの大作と、マンガ人気プラス旬の若手俳優人気に乗っかった映画を反芻しながら、創造(creation)と製造(production)、作品と製品、アートと商品、というような「対語」を思い浮かべた。
 

at 01:51|Permalink
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