2006年06月

2006年06月15日

Death Note, da Vinci Code & Tokyo Tower

梅田の阪急を降りていく動く歩道の壁にデカデカと藤原竜也演じる月(ライト)の暗い顔が張り出され、本屋にA4の黒いノートが積み上げられると、つい手を出してしまうのがミーハーたる所以か。ついでに原作まで買ってしまった。いい歳して少々恥ずかしい(*^o^*)

 死神やら悪魔やらと取引する話は昔からあって、その名を挙げるのも気恥ずかしいほどの古典から現代文学のすぐれた作品まであるけれど、Death Noteの面白いのは、やっぱり同時代に同じ空気を吸い、同じ苛立ちを感じている私たちの暗い部分に触れてくるところがあるからだ。

 昔から永井豪の「デビルマン」のファンだ、というと大体友人からは「デビルマンねぇ」と馬鹿にされたものだけれど、そういう連中は、あの手の少年マンガを評価するとそれだけで幼稚だと思う偏見からどうしても自分を解き放つことができないのだ。

 あのデビルマンのやり場のない憤怒に若いころ素直に共感したし、いまも(たぶん今度は作者の意図に反して)Death Note のライトの、正義という悪に共感する。自分の中にそういう暴力性があることに鈍感であることのほうが怖いと思っているので、作者や詩織に共感しない。ライトにはなるべく頑張ってほしい(笑)と思うのは、昔、大河内傳次郎や進藤栄太郎のようなすばらしい悪役になるべく生き延びてもらって、正義面したヒーローを叩き切ってほしい、と思ったのと通じるところがある(笑)。

 しかし、ライトの最大の敵である(らしい)Lの性格設定には魅力を感じる。松山ケンイチの表情はステキだ。この映画はパートナーはつきあってくれないだろう。こっそり一人で仕事帰りにでも観にいくか・・

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 「ダ・ヴィンチ コード」も、映画のほうは観ないでいるうちに、若い人がどんどん観て、「評判はよくないけど、結構面白かったよ」、という声を聞くようになった。ただ、こちらのほうは必ずしも観たい、という気があまり起きてこない。やっぱりあの面白さは小説のものだろう、という気が、読んだときからしていたせいだろうか。
 部屋の書棚においてあった上・中・下の文庫本は学生さんが次々に借りっぱなしで、まだかえってこんの?と不満顔の人が毎日のようにやってくる。読むのが遅いんだよ、おめえ、日本語力が弱いんだから、鍛えたほうがええよ。課題のコラム出せよ!

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 リリー・フランキーの真っ白な本が本屋にベストセラーとして並んでからもう半年以上になるけれど、いまだによく売れているらしい。とてもすなおな、どちらかといえば古風な作品だし、なぜいまこれだけ若い人の間で売れているのか、とても興味深い現象だと思う。

 はじめのうちは、江国香織の「東京タワー」と間違えて買っているんじゃないか(笑)とさえ思った。あちらは「岡田クン」で映画化されたから、若い人はみんな映画から入っている。

 でも、それはとんだ見当違いだったようだ。確かに、リリーの作品はいい作品だと思う。いい作品かどうかの、私なりの一番単純で直観的な判定は、耳を澄ましたときに、その作品の底から「祈り」が聞こえてくるかどうか、ということだ。この作品からはそれが聞こえてきた。

 きっと「純文学」の評論家の多くは取り上げようともしないだろう。気恥ずかしくなるようなセンチメンタルな文章だっていたるところにある。けれども、ここにはほんものの祈りがあることが感じられる。小細工のない、ほとんど無防備に喜怒哀楽を生きる素の人間が居る。

 "オトンの人生は大きく見えるけど、オカンの人生は十八のボクから見ても、小さく見えてしまう。それは、ボクに自分の人生を切り分けてくれたからなのだ。" 

 いまになれば、こんなセリフが身に染みて分かる。取り返しのつかない悲しみとともにだけれど。
 

 
 

 

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