2005年10月
2005年10月29日
NANA
遅ればせながら、映画「NANA」を観に京極東宝へ行く。土曜日だというのに、そして、まだ封切されてそんなに時間もたってないだろうに、もはや観客激減か、場内は数人。
この映画、キャストは花マル◎、映画はバッテン×。
これだけ若くてイキのいい、存在感のある俳優を使いながら、その役者がうまく生きていない。音楽に生きる若者たちが主役で、バックに常に音楽があるのに、映画の進行そのものに全然リズム感がない。テンポが悪く、役者どうしの息が合わないまま、学芸会みたいな演出がまかり通っている。セリフもかなりひどい。
要は、金にあかせて、いま最もイキのいい、魅力のある若手俳優を使いながら、脚本と演出がひどいものだから、魅力的な青春映画になりそこねた。
ナナの中島美嘉も、ハチの宮崎あおいも、レンの松田龍平も、ノヴの成宮寛貴も、章司の平岡祐太も、ヤスもタクミも、みんな存在感があって良かった。キャストはみんな○。ナナ、ハチ、レンは花マル。
ケータイに向かって「ムチャクチャな英語で」歌うナナの歌は、もっとガンガンボリュームをあげて、すばらしい熱唱を聴かせるべきだった。肝腎のところで聞かせない。馬鹿げたリアリズム。逆に新幹線の出会いのシーンはノイズが入ってリアリズムでやればいいのに、二人の会話しか聞こえない。
レンとナナが老後を語り合ったりする。ありえない。脚本がひどい。
青春映画でも「セント・エルモスの火」のように、とてもいい作品があって、そこに登場した役者がみなそれぞれ後にいい役者になっていったような模範があるのに・・・・
青春音楽映画だって、「青春デンデケデケデケ」みたいにいいモデルがあるのに・・・・
この監督、センスない。キャストがもったいない。
マンガがベストセラーで、映画も観客動員できることがわかっているから、いくらでも金が使えるというので、いいキャストを使いたい放題にしたのだろうけれど、本当にもったいない使い方をするものだ。
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2005年10月07日
蝉しぐれ
染五郎の「蝉しぐれ」を二条TOHOまで見に行った。
子連れの日とかで赤ちゃんをつれたお母さんがたが3人。館内の明かりはつけたまま、音量も赤ちゃんを驚かさないように、低く抑えているという。チケットを買うときに、それでよろしいですね、と確認されるのだが、この映画を観るためにここまで来て、じゃぁやめますという人があるだろうか。
母子に罪はない。映画館側の偽善的な態度がいけない。本当に母子のためを思うなら、きちんと防音の効いた母子室を設けるべきだ。そうすれば母子は気兼ねなくその部屋にはいり、母親は子をあやしながら、ゆっくり観ることができる。
実際に演劇の劇場ではそういう例は既にある。母子室も最後部だけでなく、舞台に近い席で側壁から張り出すような位置に設けられたものもあるという。技術的にできないはずがない。
また、照明を煌々とつけているのも、目に直接天井から光が差し込んで、スクリーンが非常に見にくい。関西空港のように、天井にテフロンでも張って、明かりを天井に向けて放ち、やらわらかな反射の光を館内へ降ろせば、居間の明かりをつけて家族でテレビを見ているような雰囲気ではあっても、少なくとも目に直接光源からの光が入ることはなく、眩しくはない。
その程度の工夫もせずに、ただただ○○デーなどと名づけて、いかにも母子に優しい映画館という顔をして、その実、母子に気兼ねさせ、大多数の観客には劣悪な観賞環境を提供しているのは偽善的に思われる。
しかし、今日の映画はその点にめくじらを立てるほどに、よい映画ではなかった。
染五郎も木村佳乃も、或る意味で綺麗すぎて、まったくミスキャストだ。染五郎には、内野聖陽のような無骨さがない。武蔵に敗れる吉岡清十郎のような、育ちのいい京都の名門の御曹司なら似合うかもしれないけれど、不器用にふくへの秘めた愛を胸に抱き続け、主君の手つきとなった女を命を捨てても守ろうという純情無骨な武士を演じる役者ではない。
木村佳乃もはじめから上級武士の屋敷で、きちんとしたしつけをされ、愛されかしづかれて育った気品ある美しい女性という印象で、とても隣へ米や味噌を借りに使い走りさせられていた娘には見えない。これもある種田舎くささを残した庶民的な丸顔の水野真紀のほうがずっと適役だった。
少年時代の文四郎を演じた石田卓也や、ふくを演じる佐津川愛美のほうは、どちらかというと適役だった。ことに石田卓也は良かった。切腹させられる父に最後の面会をしたあと、親友の逸平に、父に言いたかった言うべきだったのに言えなかったことを吐露する場面は秀逸で、この作品で唯一評価できるシーンだった。
ふくをけやき御殿で守る磯貝主計役の柄本明はテレビドラマでは横山元筆頭家老役だったが、いずれも存在感があり、今回、文四郎の父親が切腹させられるときに同じ連座で息子を切腹させられる関口晋助役の大滝秀治などもチョイ役でも違う。
しかし、肝腎の敵役里村左内役の加藤武などはどうかと思うし、監督の利重がやっていた剣道場の師範だとか、文四郎の友人与之助などはどうにかならんのか、と思う。与之助などはテレビドラマでは宮藤官九郎がやって、なかなかいい味を出していた。
それに、テレビでは重要な役回りだった鈴木杏樹が演じる矢田淑江や、義弟布施鶴之助(海部剛史)は、この映画では重要な意味を持たないか、まったく登場しない。
ふくがお手つきになったことを、わざわざ昔の知り合いのおばさんから聞くような無意味な場面があるかと思えば、最後の決戦に参戦する布施鶴之助のような人物が登場しないのは合点がいかない。
また、文四郎が午前試合で犬飼兵馬に敗れて、剣の師が文四郎に教える場面も、能衣装で舞ったり、変なゲテモノ趣向で、本当に品のない映画だ。兵馬に敗れてへたり込んだ文四郎が、落ち込んで土いじり(?)をしている姿などは、ひ弱なお坊ちゃまが負けていじけてしまっているようで滑稽きわまりなく、まったくこの監督、なにを考えているのかと思う。
俳優はそれぞれ一所懸命演じているのだが、なにしろ脚本と演出が悪すぎる上に、キャスティングがまるでなっていない。これだけの俳優を、こんなにミスキャストばかりで使ってしまってはかわいそうだ。
テレビドラマが余り良かったので、配役をあらかじめ見たとき、おおかた映画はこんなことになるのでは、と予想しないでもなかったけれど、案の定、できのよいテレビドラマの二番煎じで作った凡庸な才の手になる映画という印象になってしまった。
最後に、それでも老人の私は、藤沢周平の原作のよさと、テレビドラマのシーンをこの映画を見ながら思い出して、その記憶の映像に涙腺を刺激されて泣いてしまったことを付け加えておかないと不公平かもしれない。
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夕方、いつもの友人がボランティア仲間と、また貰ったと言って、美山の天然鮎を15?16尾も持ってきてくれた。釣ったばかりのように新鮮ですばらしい色合いだ。
さっそく焼いて宴会。
今日は遅れて次男夫婦も加わり、次々に焼いて、持ってきてもらった鮎はぺロリ。
サシミやおでんをつつくうちに、この前で味をしめた「あゆめし」が炊けてきた。
これがうまいのはこの前に実証済みだったが、今回もやっぱりうまかった。季節が終わりに近づき、油が乗ったせいか、ご飯を食べるとこの前よりも味も香りも濃い。しかし、おいしいことにはいささかも変わりない。
映画の投資ファンドの話からライブドアの日本テレビ買占め騒動のときの話、ヘッジファンドの話と、今日は幼いころから父親のビジネス特訓を受けてきた友人の独壇場。息子たちも私たちも楽しく聞きながら舌鼓をうつ。
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映画館を出てから、卒論のプレサーベイに市役所へ行ったゼミ4回生よりメールが届く。どうもいきなりぶつかっていったようで、行動力は買うが、手順が少し違う。このままでは忙しいお役所の係の人に拒まれて、せっかくの出鼻をくじかれてしまいそうなので、まずは自分で資料室ででもできるだけのことを調べ、質問を明確にしてからアプローチするようにアドバイスする。
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夜、ひさしぶりにNさんからメールで、学生さんたちが楽しめそうな情報を伝えてくれる。早速掲示板で知らせる。いつも色々な人に助けられながら、なんとか日々をやりくりしていることをあらためて実感する。
at 00:10|Permalink│