2005年09月
2005年09月26日
新書2冊
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」(山田真哉)は会計学の解説なのだけれど、とても面白い。売れているようにも見えない「さおだけ屋」がなぜ潰れないのか、という疑問から、利益、売上、仕入値といった概念を説明していく手際は鮮やか。著者は「女子大生会計士の事件簿」シリーズというベストセラーもあるようだ。学生さんもこういう本から入ると会計学のみならず、消費者経済学なんかの導入にもいいかもしれない。
「食の精神病理」(大平健)は、「豊かさの精神病理」「やさしさの精神病理」で語り口のうまさ、文章の魅力、内容の新鮮さで舌を巻いたことのある精神医学を専門とする著者で、今回もとても面白い。私も子供に読ませてなじんだことのある絵本に描かれた「食」の意味を切り出して見せる手際は鮮やか。
いずれも光文社新書。
「食の精神病理」(大平健)は、「豊かさの精神病理」「やさしさの精神病理」で語り口のうまさ、文章の魅力、内容の新鮮さで舌を巻いたことのある精神医学を専門とする著者で、今回もとても面白い。私も子供に読ませてなじんだことのある絵本に描かれた「食」の意味を切り出して見せる手際は鮮やか。
いずれも光文社新書。
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2005年09月21日
東京奇譚
久しぶりに良い小説を読んだ。
いろいろ読んできたけれど、やっぱりいま日本の現役作家で、忙しい中、新作を追っかけてでもぜひ読みたいし、読んで決して期待を裏切られないのは、村上春樹しかない、という思いが強い。
もちろん世に多い読書家に較べれば私などが手にする小説は浜辺の砂粒ひとつのようなものだけれど、それにしても最近鳴り物入りで売り出している若い世代の作家の作品は、現代日本の文学の病理みたいなもののサンプルとしては興味がないわけではないけれど、作品としてもう一度読みたいと思うようなものはほとんど皆無だ。
しかし村上春樹の今回の新作は、往きの電車の中で一気に読みきって、心から満足し、帰りにまた読みたくなって、好きな3作は一日のうちに2回読んでしまった。こういう経験は面倒くさがりやの私としては珍しい。
冒頭の「偶然の旅人」は一番好きな作品。いくつかの、メモしておきなくなるような殺し文句もある。こんなに短編なのに、人生の珠玉がさりげなく埋め込まれている。
「ハナレイ・ベイ」も哀しい、とてもいい物語だ。
それから、冒頭の作品と同じくらい好きなのが「日々移動する腎臓のかたちをした石」。これは本当にステキな話だ。
この三作品だけで、私には十分だ。「どこであれそれが見つかりそうな場所で」はそれほど心惹かれなかった。「品川猿」は違和感を感じた。
*
新学期初の授業で少々疲れる。また初年度に戻ったような多少の違和感とテレがあって、自分でうまくいってないことを感じると、よけいまずくなる。いつまでも慣れることができない。
ゼミ紹介の文章を4年生が数人共同で書いてくれる。なるほどそんなふうに見えているんだな、と思う。好意的な表現のところでも、あ、自分の思いとは違うな、という違和感がある。なかなか分かり合うことは難しいものだ。
ゼミの合間に休学&留学の相談。ご両親は諸手を挙げて賛成とのこと。私は、自分の息子なら反対する、と否定的なことばかり喋る。学生さんは、私が賛成してむしろプッシュして激励してくれると思ってきたのだろう。少し不満げだった。
現状が袋小路のようにみえ、行けば何か得られると幻想をいだくのは、自分の若いころもいまの若い人も同じ。だからもっと若ければ、無責任に、そりゃぁいいなぁ、なにごとも経験だから行って来い行って来い、とけしかけたかも(笑)。
しかし、自分の子と同じように相手のことを考えれば、いまではそれがベストだとは思えない。目的を明確にして、もっと調べて、リスクも心得た上で、と結果的には若い人からみて物分りの悪いオトナの口吻と同じことになっている。正反対のことをしてきた俺がな、と内心苦笑するけれど、その程度の言い草を自身の中で突破できなければ、行っても本当に危なっかしい。
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2005年09月17日
メゾン・ド・ヒミコ
犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」は良かった。ゲイのホスピスを扱うというと、重い映画と敬遠する人もあるだろうけれど、その手の<傾向映画>ではない。
こういう映画では、社会的正義を独占したつもりのパターン化されたメッセージ映画からどれだけ抜け出ているかが、最小限の評価ラインになる。それは軽くクリアしている。
観客も、はじめは柴咲コウ演じる「ブス」で「根性ワル」の目に寄り添いながら、このホームの光景に、けがらわしいものでも見るような「なにこれ!」という視線を注ぐかもしれない。そして、差別はいけない、とかさんざん聞かされた建て前は彼女と同様に頭の中に持っていながら、その光景の中で頑なに心を閉じているかもしれない。
ところが、ホームの塀に子供が落書きするのが出てくるあたり(オダギリジョーの表情がとてもいい)から、少しずつ心が融けてくるのが分かる。ヒロインの心が融けてくるにしたがって、私たちの心も融けてくる。徐々に「十把一からげのゲイの老人たち」が、ひとりひとり、人間として見えてくる。そして、いつの間にか彼らと一緒に怒ったり、笑ったり、傷ついたりしている。
汚れもし、傷つきもし、他者に対しても、死に対してもおびえ、限りなく孤独でもあるが、そんなかつかつ生きているかのような日々にも、喜びがあり、愛があり、いたわりがあり、豊かな人生があることを見せてくれる。
映画を観終わり、突き放して振り返ってみると、やっぱり映画は脚本とキャストが決定的だよなぁ、と思う。同じ監督でも「タッチ」を観ようとは思わないけれど、オダギリジョー+柴咲コウ+田中民(サンズイがつきます)が出ているとなったら、やっぱり行こうか、となり、実際、行ってみると肩透かしはない。
オダギリジョーはこういう陰のある青年をやらしたらぴったりだし、柴咲コウも見事に「ブス」女になりきっている。バス停へ向かうところで顔をクシャクシャにして泣き出す表情なんか、あきれるほどうまい。田中ミンも、存在感があるし、西島秀俊もいい。歌澤、青山、柳澤等々の脇を固めている人たちがみなベテランならではの味を出している。
ラストも良かった。ただ、途中で少しかったるいところはある。テンポがゆるくなる。もっと切り詰めてもよかった。
*
ティム・バートンの「チャーリーとチョコレート工場」は風変わりなファンタジーだ。ジョニー・デップの一作ごとに全然違う顔になれる天才的な演技力には感心するが、この作品は評価しない。
子供の(も?)楽しめるファンタジーでも、リングやハリポタには、ストーリー展開のワクワクさせる面白さや、映像技術の革新が実感できたが、この映画にはそういう新鮮味がない。凝りに凝って作ったのであろうチョコレート工場も、サンリオのピューロランドとTDLを見た目には、平凡な遊園地のアトラクションに見えてしまう。
子供たちをいい子、わるい子に分けて、わるい子に罰を与えるスタンスも、私などは鼻持ちならない。
基本的につくりが古い。語り口、笑い、音楽がみな古めかしい。
しかし、この映画にはとびきりステキなシーンがあって、それは沢山のリスたちが「労働者」としてマシンから落ちてくる胡桃を割っているシーンだ。これは特撮やCGではなくて、リスを調教して撮影したとのこと。このアイディアとこのシーンは、この幾分古めかしい映画の中で特別に光っている。主演俳優賞は間違いなく可愛いリスたちだ。
*
久しぶりに新京極と寺町を歩いて、どちらもすっかりアメリカ村化してしまったことを実感する。ローティーン相手の安手の店が沢山できて、悪趣味な商品が路上に露出し、騒音と化した音楽がアーケードに溢れている。途中の空き地などは、まさに三角公園そのものだ。
こういう最悪のマネッコをして、東京や大阪にかなうわけはない。現代社会の表層を化粧のように次々に塗り替えていくスピードで、これらの都市に京都がかなうわけはなく、中途半端な後追いになることは目にみえている。それで京都の固有性を見失ってしまえば、元も子もない。
京都の中心街をこんなにつまらない通りにしてしまったことには、目先のことしか考えられない商店街も商店街だが、私たち市民にも責任の一端はあるだろう。経済原則には勝てないのだろうけれど、いまの経済原則は明日のゴミでしかない。いずれ、ほんとうの京都が必要になることがあるだろう。
パリのパサージュなどは、まさにそういうものだった。一度は衰退し、さびれてしまわないと分からないのかもしれない。どうしようもなくなったときに、いま誰も人のはいらない、地味なことこの上ない老舗の古い佇まいの店々が、お洒落な通りに欠かせない貴重な要素として見直されるときがくるのだろう。
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午前中も午後も遊んでしまったので、夕方からは仕事に精出す。
at 19:09|Permalink│
2005年09月10日
手塚治虫記念館
一度行って見なくては、とずいぶん以前から想っていながら、行きそびれていた手塚治虫記念館へ行ってきました。
幹線道路に表示がなく、駐車場側からのアプローチも案内表示がなくて分かり難いのは欠点ですが、お洒落な文化施設です。裏から行くと、まず English Garden を見てから行くことになります。
花の少ない季節ですが、池には蓮の花が美しく咲き、畔には大きなすすきが美しい穂をなびかせています。庭園には薔薇やラヴェンダーが咲き、白、黒、紫、まだらなど色・形・模様の対比もみごとな観葉植物が豊富で、一見、生い茂るがままに放置されているかのようにみえて実に洗練されているEnglish Garden らしい庭園で、私たちがロンドンで訪れた教会附属のGarden Museum よりもよくできています。
入場料に600円必要ですが、きっと手入れの大変さを思えば高いとはいえないでしょう。
手塚治虫記念館に地階から入ると、奥のほうにディプレイがずらりと並んでいて、その前に座った少年少女たちが、2人のアシスタントのお姉さんに教わりながら、画面上でなにやら一心に製作に励む様子。これはアニメ工房です。
1階へ上がると、メインの展示場で、パリのラ・ヴィレット科学産業博物館で見たような、未来技術の雰囲気を持ったガラスのチューブに手塚治虫の小学生、中学生時代のマンガの原画などが回転しながら展示されています。
マンガも基本の形は書物なので、この記念館も全国の文学館と同じ悩み、つまり読んで初めて楽しめる、書物というものの魅力をいかに「見せる」ことがメインの展示で伝えるか、という難問を抱えています。
それでも、50人ばかり坐れるホールで上映される手塚治虫の伝記はとてもよくできているし、3階には手塚の全作品が読めるように棚に並べてあり、手塚作品をベースにしたゲームのできるコーナーもあるなど、多角的に楽しめる工夫があります。
ミュージアムショップもこの種の小さなミュージアムにしては品揃えが豊富で、お洒落なものを置いていて、ついつい買ってしまいます。
昆虫採集の大好きだった手塚少年が描いた、図鑑用のプロの絵師のような見事な蝶やコガネムシなどの細密な写生画や、のちの手塚作品のメインキャストの一人であるひげおやじが早くも少年時代の作品に描かれているなど、興味深い展示がありました。
さらに、伝記映像のナレーションで、60年の生涯で描いた原画が15万枚、というのを聞いて、やっぱり天才のエネルギーは凡人の想像を絶するなぁと思いました。10歳から60歳まで50年間、年に300日、毎日10枚の絵を描きつづけたことになります。
ノルウェイのヴィーゲラントの彫刻で構成された広場と、その広場に面して建つヴィーゲラント・ミュージアムを訪れたとき、一人のアーティストが生涯に作る作品の厖大な量を目の当たりに見せられて圧倒された記憶がありますが、天才というのは質の高い物を作るだけでなく、想像を絶するような厖大な量を創りだす、常人に隔絶したエネルギーを持っているのだなぁと、あらためて感じさせられます。
敗戦直後のマンガ刊行の成功から鉄腕アトムで不動の名声を確立した手塚治虫が、自ら冬の時代と呼ぶ時期には深いスランプに陥り、自信を失い、絵が描けなくなり、人気も凋落して、手塚はもうだめだと言われ、プロダクションも倒産の憂き目を見るのですが、そこから這い上がって、「ブラックジャック」で再び甦る、それは本当にドラマのような人生です。
才能のある人ほどまた自分の欠点もよく見え、自信を失って落ち込むときも深い傷を負って苦しみ悶えるのでしょう。自分の絵を変え、身を削って思想を変え、別の自分に生まれ変わって甦ってくる、奇蹟のようなことが生じているのです。そういう目でみると、「ブラックジャック」や「ブッダ」や「火の鳥」が、すさまじい作品に見えてきます。
さて、帰りには、キュー・ガーデンの大温室に似た建物の中にあるお洒落なカフェで、昼食代わりのホットサンドイッチとアイスティーを注文。窓からは庭園の花木越しに、いま出てきた記念館が見えます。
この建物の中には、ほかに観葉植物や園芸用品、お茶、ハーブ、アロマ等々のnaturalist好みの商品を売るショップがあります。イギリスのナショナル・トラストと提携しているそうで、イギリス人好みのシックなデザインの日用品、小物の品揃えも豊富で、ここでもガラス製の熊さんの形をした胡椒入れと食卓塩入れのセット(なんと390円)やら、庭用のお洒落なツッカケや、紅茶や・・・と敬老の日の義母へのプレゼントも合わせて、あれこれ買い込んでしまいました。
駐車場へ戻ると、その一角にはペットショップがあります。そのお隣は、自然食をメインにしたレストランがあって、ちょうど犬をつれた老人が出てくるところでした。ペットショップの隣に犬を連れて入れるレストランがあるというのもなかなかいいものです。
メニューを見ると、500円前後で軽食が食べられ、1000円前後でグリルが食べられます。自然食といっても、高くてまずいゴリゴリの自然主義者の食べ物とは違って、ずいぶんメニューも豊富で、お洒落で、おいしそうです。
阪急グループの経営不振で、ファミリーランドも消えた宝塚ですが、手塚治虫記念館からEnglish Garden、National Trust 提携のショップとお洒落なカフェ、ペットショップに自然食レストランと、この一帯はなかなかいい雰囲気を持つ場所になっています。
関西の日帰りデートコースとしてオススメです。
at 01:05|Permalink│
2005年09月08日
サマータイムマシンブルース
京都シネマで「サマータイムマシンブルース」を観ました。原作・脚本が劇団・ヨーロッパ企画の上田誠で、キャストが面白いというので行きました。監督は「踊る大捜査線」や「交渉人真下正義」で邦画エンターテインメント系ヒットメーカー・本広克行。
前半三分の一?くらいまではテンポが悪くて、監督と登場人物だけが面白がっているけど、観客はシーンとして全然のれず、ひでぇ映画つくりやがって!と段々腹を立て、もう出て行こうか、と思い始めます。
しょうもないギャグ・マンガが原作の、人気監督とジャリタレを使っていっとき稼げればいい、っていう映画じゃないかと思ったのです。
ところが、タイムマシンで行ったり来たり、登場人物もこちらも頭が混乱しはじめるあたりから俄然テンポが良くなって、悪ノリにこっちまでいつの間にか心地よく乗せられて、気がついてみると自分も周囲の観客も声立てて笑っています。
そして、ラストもなかなか後味の良いオチがついて、ハッピーな気持ちで映画館を出ることができました。大丸地下の「イノダ」で、二人でサンドイッチ食べながら、いま見た映画の話をあれこれするのも楽しかった。
成功の第一因は、やはり脚本の面白さでしょう。荒唐無稽を臆面もなくどんどん自己回帰的に悪乗りして冪乗していくうちに、何が何だか、話の糸はこんがらがってアタマは大混乱だけど、そのぶんハートがワクワク♪ どんどんテンション高くなって、気がついたら秋の空、みたいなカタルシスを感じている、という印象です。
成功の第二因は、キャスト。とくに、「オレンジデイズ」も「スウィングガールズ」もすごく良かった上野樹里、同じく「オレンジデイズ」の瑛太。上野樹里の自然体の演技は、これからもとても楽しみ。
それからヨーロッパ企画の縁で参加している、同志社大学の劇団系の本多力、永野宗典がそれぞれユニークな存在感があってすごくいい。
あと、ベテランだけれど劇団「惑星ピスタチオ」からおなじみの佐々木蔵之介がいい味出しています。
マンガを原作にした映画は最近やたら多くて、それはマンガの質が非常に高くなっているということもあるし、マンガでヒットした作品を映画化すれば、映画市場としても一定のベースが見込めるから採算上カタイということもあるので、益々増えることでしょう。
この映画はマンガが原作ではないけれど、表現の意識と技法は完全にマンガそのものです。それは小説であれ映画であれ演劇であれ美術であれ、あらゆる表現にマンガ的感性と表現の技法が浸透していることを感じさせるものでした。
「NANA」を梅田で観てきた次男のパートナーによれば、チケットブースには長い行列ができて、館内は「お臍出しルックのギャルたちで満員」だったそうです。[映画は観たいけど、そういう映画館にはオジサンとしてはすごく入りにくい(^^; なんとかならん?]
そういえば、長男の本棚には、学者たちの小難しい本の傍らに、「ご近所物語」と「天使なんかじゃない」が全巻積み上げてありました。
いまや老人世代の私たちが本当に入れ込んでマンガを読んだのは、白土三平が「影丸伝」や「カムイ伝」を、つげ義春が「ねじ式」、「紅い花」、「ゲンセンカン主人」、「もっきり屋の少女」などを現役で描いていた、自分が学生のころです。少し後の上村一夫なども好きでした。
もちろん、それ以前の子供のころは、伯父の家にあった「のらくろ」を読み、「こぐまのコロすけ」や「サザエさん」、さらに「鉄腕アトム」から「赤銅鈴之助」等々と続いていく少年漫画・劇画のはじまりの時代を、マンガ世代のハシリとして生き、また学生時代以降も世間で評判になった「あしたのジョー」だの「タッチ」だのは読んできたけれど、のちに巨大な市場を形成する少女マンガのジャンルは苦手でした。
「ベルサイユのばら」のようにジャンルを突破して社会現象となるほどのメガヒット作品が出てきて、一応は目を通しておこうか、と何度も思って手にとるのですが、やっぱりなじめずに放り出してしまいます。
そんなわけで、少女マンガが既成の文芸ジャンルの作品を凌駕する質を持つようになってからも、ほとんどフォローできずにいます。「NANA」を映画でみて面白かったら、矢沢あいあたりからもう一度横はいりして、少女マンガの世界を覗いてみたいと思っています。
そういえば「タッチ」が映画化される(た?)そうです。でもキャストを聞いただけで、それはないんじゃないの?、と思って、観に行く気にはなれません。みなさんはどうでしょう?マンガの3人のイメージを損ないたくない思いのほうが強いです。
今日行った映画館で、ホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」の日本版リメイク作品の予告編をやっていました。本編を観ないで悪口は言いたくないけど、予告映像の何カットかを観ただけで、とうていオリジナルを越えるような作品ではないことが、直ちに分かってしまいます。
せっかくステキなオリジナルがあるのに、なぜ、それを損なうような映画を、大金をかけてわざわざ作るのか・・・・
信じられないけれど、やっぱり費やされる大金よりさらに大きなお金が入ってくるのでしょうね。オリジナルの成功にあやかって、その名前の力だけで、柳の下の二匹目の泥鰌を狙うという・・・そのさもしさ・・・
日本の映画観客というのはこんなにも商業映画人たちに舐められているのでしょうか。
at 15:57|Permalink│