2005年06月
2005年06月11日
スウィングガールズ
朝寝坊したけれど、なんとなく調子が出ない。歯医者さんへ行ったり、買物したり、本屋を覗いたり、電気店さんへ行ったり、身体を動かして調子を取り戻そうとする。
夕方になってもシャッキリしないので、仕方なく寝そべって、DVDで、これも評判になりながら見損ねていた「スウィングガールズ」を観る。はじめ、テンポが悪くてなかなか乗ってこない。ところが映画の中のヒロインたちが乗ってくると、全体のリズムが良くなって、あれよあれよという間に盛り上がっていく。
そのままぐいぐい引っ張って、ラストの演奏三連発で完璧のクライマックス。ストーリーは単純極まりないし、ユーモアのセンスも少し泥臭くて、お世辞にも脚本がいいとか言えないけれども、最後を富士山のスバシリを一気に駆け下りるみたいにダーッと持って行って、感動させてしまう手腕は並々ではない。
それにはまずキャスト。DVDに収められた付録で、監督の矢口史靖がオーディションについて、監督の名を出さずに募集したと言い、「だって『ウォーター・ボーイズ』の矢口史靖が監督して映画を撮るって言ったら、事務所がみんな一番手しか送ってこないでしょ。こちらはそうじゃなくて、まだあまり知られていないけど、これだっていう人をみつけたいわけだから」と語っている。それが功を奏した。
見つけたのが「オレンジ・ロード」でたしか成宮君の妹役かなにかで出ていた、上野樹里。彼女はその付録のキャスト座談会みたいなので喋っているのを聞くと、まったくの「テンネン」ギャル。撮影時はたぶん中3か高1で、DVD収録の座談会時点でまだ高校生だから、コドモといえばコドモだから、と言ってもいいのだけれど、ほんとうに天衣無縫。
・・・というより、こういうの、いまおいらの周りにいくらでも居るよなぁ、と思いながら観ていた(笑)。聴いていると彼女はどうも兵庫県の加古川あたりの子らしい。あれは関西人のノリだ。そして、「コドモ」はコドモかもしれないが、兵庫県人らしいシタタカサをすでに三つ子の魂のように備えたコドモだ。
ラストの吹奏楽による三曲のジャズ演奏は、音だけは吹き替えだろうと思っていたら、すべて彼女たち俳優の演奏なのだそうだ。これには驚いた。1年やそこらであそこまでいけるものなのか。しかしこの映画の成否はどう少なく見積もっても半分は、あのラストの演奏会シーンにかかっているので、そのトレーニングの過程が映画製作の過程だったのかもしれない。
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2005年06月03日
曽根崎心中
吉田玉男の文楽(宮川一夫撮影)は何度見てもすごいと思うし、鴈治郎の歌舞伎もいいけれど、増村保造監督が梶芽衣子で撮った映画の「曽根崎心中」がまた素晴らしい。天満屋とそれにつづく道行のシーンを見ていると、梶芽衣子の熱演に、何度見てもつい泣けてしまう。
近松の作品自体が奇蹟だと思うけれど、この映画も、「女囚さそり」みたいな役をやっていた梶芽衣子がこんなに輝いたというだけでも奇蹟のような作品だと思う。彼女の人形のようなつるりとした表情や、硬い体の動きが、人形浄瑠璃がもとになったこの映画にはぴったりだ。もうこれ以上の映画化は無理ではないか。
橋本功の九平次の熱演も光る。普通のリアリズムの映画なら大仰な演技になるところが、文楽→歌舞伎→演劇→映画という経路をたどってきたこの映画に関する限り、役者の持てる演技力を出し尽くした感があって、ぴったりはまっている。
学生たちも、これを紹介するときだけは息を呑んで見ている。私のほかの授業では「今度しゃべったら教室を出ていってもらうぞ!」と、イエローカードがレッドになりかかっているような学生たちが、だ。
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いい歳をして、どうしてもこのまま同じ仕事を続けていられない、という切迫した気持ちになって2年間浪人していた時期がある。下の子はまだ幼稚園だった。私は毎朝彼の手をひいて、歩いて二、三十分の距離にある幼稚園へ通った。
高野川に沿って川端を上がり、馬橋を渡って工芸繊維大学の正門前を折れ、住宅街を抜けて大きなお屋敷の門前から、畑へひく水の流れる狭い抜け道を通って、すぐき用のかぶら畑の横をとおり・・・と複雑な抜け道を通っていく。住宅の垣根にツキヌキニンドウが這っていれば、それを手にとり、小川のきらきら光る水に手をつけ、美しい小石をひろい、季節によってはおたまじゃくしをみつけ、菜の花に触れ、さんざん寄り道しながらいくので、15分くらいの行程が最小限30分にはなる。
朝のこの散歩で、私はそれまで何年もの会社づとめのあいだ、春の花の装いも、新緑のみずみずしい輝きも、夏の小川のせせらぎの清さも、秋の柿の葉の美しい彩りも、みな見えていながら見ていなかったことに気づいた。何を見ても新鮮で、美しく感じられた。
次男を幼稚園に送り届けると、その足で府立総合資料館まで歩く。そしてそこで来る日も来る日も小説を書いてすごした。疲れると書棚の間を歩いて、面白そうな本を見つけては拾い読みするのが楽しみだった。
しかし、ある日、開架式書架に近松全集があるのをみつけて、一冊手にとって読み始めてから図書館通いの目的が変わってしまった。それまでは文庫本でいくつかの作品を拾い読みした程度でしかなかった近松の作品を、このとき初めて身を入れて読んだ。
どれを読んでも面白い。よく日本のシェークスピアなどといわれるけれど、なるほど登場人物の関係を鮮やかに掘り出して、矛盾をつきつめていくときの一気呵成の迫力には似たところがあると感じた。これは心中へ追い詰められていく世話物であろうと、軍記物であろうと変わらない。
自分の「小説」は無理やり形をつけただけで、結局モノにならなかったけれど、何の用意もないまま手にとった近松が貧しい魂を不意打ちした。失敗作がひとつもないと私には感じられた近松の作品群の中でも、「曽根崎心中」は特別な位置を占めている。
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