2005年04月
2005年04月28日
『ナラタージュ』
ただ、危惧はある。高校生や高校を出たばかりの女の子の視点から一回りも年上の男性への恋愛を描くとき、どんなに主人公が大人ぶっても見えない相手のずるさやしたたかさが、語り手や作者の視点からきちんと押さえられていないと、作品の世界そのものが未熟な少女の世界にとどまってしまう。離婚していないことを黙っていた男の裏切りを描いても、少女の視点から描く限り、男の像は甘くなる。
もう一つ陥りやすい罠は、同年齢の友人たちとの、いかにもいまふうの若者らしいつきあいかたや会話が、ほんとうにその辺の若者が言いそうな言葉、やりとりであればあるほど、文体としては上滑りしていく危険だ。現実の若者どうしのやりとりであれば、気のきいた言葉としてその場を盛り上げ、面白い!といういまの若者の最高の褒め言葉が与えられるようなことであっても、作品の中では、読者をしらけさせ、うわすべりに滑っていく印象を与えることがある。
この二つの罠に対して、この作品は、ときどき危ないところはあるけれど、あやういバランスをとりながらきわどいところで踏みとどまり、なんとか終わりまで引っ張って行ったと思う。
ただ、どちらの罠からも自由ではなく、ときどき、主人公の少女が相手の男の孤独を語り、彼が自分を必要としていると語るとき、少女の認識の限界を感じることが同時に作品世界の限界を感じることと重なるように思えたり、友人とのやりとりの部分の通俗性が退屈に感じられたりするところはある。
しかしそれ以外では、登場人物たちのふるまいや感じ方が、微細に、丁寧に書き込まれていて、納得しながら引き込まれていく。
ところで、同じ年長の男性との「恋愛」(?)を女性の視点から描いた川上弘美の長編では、上記のような二つの罠を巧みな仕掛けで、鮮やかに免れている。女性の年齢自体がもう一回り以上高く設定され、成熟した大人の視点が与えられている。と同時に、相手を高齢者に設定して飄々とした風のような透明な存在にして、全体をメルヘン的な語り口にしてしまう。
それにしても、この種の作品は、私の立場では学生に読め読めとは薦めにくい。もともと読書などというのは自分で手当たり次第に読んで、自分なりの読み筋を発見していけばいいと思っているので、こちらから薦めることはめったにないが、訊かれれば自分なりの感想は言う。
そのとき、これらの作品を薦めるのは、相手が小説を読みなれているかどうかを確かめてからでないと危ない。フィリップ・ロスの近作や谷崎の名作や、悪名高い(?)ナボコフの古典の名を簡単に口にしてはならない(笑)。
女性の側から描かれた作品はロマンチックなオブラートがかかっているけれど、これらの男性作家の作品は身も蓋もないところがある。かといって、作品としてできが悪いかといえば、そうではない。世俗の取り上げ方がどんなに誤解に満ちたものであれ、谷崎もナボコフも古典の名にふさわしい。
母の世代は源氏物語のような古典でも、親に隠れて読んだらしい。そういえば、授業で近松の「曽根崎心中」を紹介して感想文を書かせたときも、「心中というようなことはよくないと思う」というふうな道徳的裁断を書いた学生が一人二人いた。
また、若い映像作家たちに来てもらって上映会をした中で、幼児虐待に反対するメッセージをこめたアニメや、人型の手足が人形のようにポロポロとれていく、私たちの普通の感覚に持続的な軽い異和感を与えながらハイスピードで展開していく短編アニメを見せたときも、「こういう残酷な映像は見たくありません」的な感想を書いた学生が何人かあった。
芸術作品に接し馴れない若い人に作品を紹介していると、しばしばこの種の硬い「道徳的」拒否反応に出会う。現実の人間関係の世界とは異なる、表現の世界だということを、そういう人に実感的に納得させるのはそう簡単ではない。
マグリットの「これはパイプではない」という絵を見せて、ここにフランス語でそう書いてあるのだけど、なぜこれはパイプではないの?と訊くと、一クラス数十人の受講生がいても、「だってそれはパイプじゃなくて、絵じゃないですか」というふうな応えが返って来ることはめったにない。人間は観念的なので、絵をみるより、ありもしない絵の向こう側を見てしまう。
そこに描かれたものと現実との固い結びつきを疑わず、それを媒介する作者の意図を疑わない。
考えてみると、これはとても恐ろしいことだ。
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2005年04月18日
『野ブタをプロデュース』
白岩玄『野ブタをプロデュース』を読む。モテモテでいい気な語り手である高校生「桐谷修二」が、「デブ」で「キモイ」新入生をクラスの中で市民権を得るように「プロデュース」して成功したとたんに、自分がちょっとした偶然から足元をすくわれて市民権を失うという他愛もない話。
誇張といまふうの駄洒落の語り口で、ある意味で面白おかしく描いて、最後のどんでん返しで主人公をどん底に落として一応の自己批評がある、というわけだが、この種の「面白おかし」さはあまり愉快ではない。語り手がおもしろがったり、作者が語り手に気の利いた会話をさせて読者が面白がるはずだと思っているらしいまさにその部分で、読者がしらけてしまうようなところがある。
しかし、典型的なイジメの対象を同級生が「プロデュース」して、集団に適応させるプロセスの面白さが、この小説の語りをひっぱっていることは確かで、そこは荒っぽいけれど力量を感じさせる。この仕掛けは面白い。
モテモテ男で、「野ブタ」を成功裡に「プロデュース」していい気になっている修二が、所詮は「桐野修二」というキャラを演じていただけで、それがあえなくひきはがされたとき、孤独の底へまっしぐら、というあたりの高校生の純情も初々しくなくはない。帯を書いて激賞(?)している高橋源一郎や角田光代や斎藤美奈子のようなおじさん、おばさんたちは、みんなそのウブに泣いたのだろう。
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今日は全学共通のまだ始まっていない科目の授業がもう開始されていると錯覚して、早々と出かけた。「今日はあるんですかぁ」と電話があって、「あるだろう、いまこちらも行くところだから」なんて言って,着いてみたら、授業は20日からとのこと。4階のカフェへ行くと電話の二人がいて声かけてくれる。知った顔がないと一人では座っていられない学生ばかりのカフェ。1時間目だったので、私に電話する前に大学に来ていた由。やれやれ私のせいで無駄足踏んだと非難されずに済んで良かった。
でもおかげで「ゆとりの時間」を持つことができた。珍しいお客さんが二人。久しぶりにゆっくりと話していく。先日の二人もそうだったけれど、こうして落ち着いて、ゆっくり話せる機会は意外に少なくて、とても貴重な時間。こちらもたいていは慌しくしていて、夕方は早く帰途につきたいことも多いので、めったに両方が落ち着いて長時間話せるような機会はないのだけれど、ほかのゲストがあるときにはほとんど顔をみせない人が今日はゆっくりしていこう、という雰囲気で訪ねてくれて、こちらもそれに自然に応えられるときは本当に幸せだ。
ゼミはまだ始まったばかりで、お互いに少し硬さがあるけれど、焦らず、少しずつ仲良くなってほしいな、と願いながら、あれもしたい、これもしたい、思いだけが先走る。だれかほんの半歩踏み出してくれる子が出てくると、がらっと雰囲気が変わってくると思うのだけれど・・・
at 23:11|Permalink│
2005年04月17日
ヴィクトル・ユゴーとロマン派展
久しぶりに朝寝をした。昨日はよほど心身とも疲れ果てていたらしい。いつもなら6時間くらい寝ると一度は目が覚めるのに、8時間くらい眠りつづけた。
ゆっくりと朝食をとり、チューリップの花が日差しをあびて春らしくなってきた狭い庭に降りてしばらく日向ぼっこして、パートナーと外出。
今日のお目当ては、天保山のサントリーミュージアム。「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」の招待券をもらったので、明日17日の最終日までに行こうということになった。気持ちの良いお天気でお出かけ日和。海遊館の派手な色彩も青空によく映える。マーケットプレイス前の広場では若いアンちゃんが二人、曲芸のようなパフォーマンスを見せて人だかりができている。
展覧会のほうは、もともとそれほど期待はしていない。ユゴーはいわば大衆的な大作家として著名だけれど、絵描きというわけではないし、だいたい作家展とか文学系の展示はそう面白いものではない。タイトルのあとのほうの「とロマン派展」は美術展として成立しそうだけれど、大体こういう抱き合わせで面白い美術展というのは少ないので、用心深くなっている。
しかし、館内へはいって驚いたことに、エレベーターへ乗るために来館者が幾重にも蛇行する列をつくって、係員が大声を出して整理している。そんなに人気を呼ぶような美術展とも思えないのに、なぜこんなに人が多いのだろう、と不思議でならない。きっと天気がいいから、最後の花見がてら出てきて、海遊館をみて、そのお流れで・・・などと推測する。
けれども、もっと驚いたのはエレベーターを降ろされた5階の展示会場へ入ってからだった。なんじゃ、これは!・・・と思わず声を出してしまった。写真パネルとユゴーの言葉をホンヤクした日本語を麗々しく縦書きに印刷したパネルとが交互に飾ってある!あのねえ、戦後の何もないときの小学校の美術教室じゃないんだから・・・こんな写真パネルや言葉でごまかして、あんまり観客を馬鹿にしてるじゃないの・・・というのが正直な感想。何も観るものがない!
4階へ降りると、さすがにその時代の家具だの衣裳を着たマネキンだの、ロマン派の絵画、彫刻だのが展示してあったけれど、これを観られただけで来た甲斐があった、というものもなく、わずかずつの寄せ集めの感を免れない。どうせなら、ユゴーの家でもいいしその時代の貴族の家でもいいから、一部屋つくって、家具・調度も衣裳のマネキンも、そこに配置して雰囲気の片鱗でも見せてくれたほうがよかった。
二、三の絵画の佳品と、「フランス国宝」と麗々しく飾られたドラクロアの初々しいマリアが(絵がいいというより、その初々しさで)印象に残る程度。いくら期待はしていなかった、と言ってもこれはひどすぎる、と言い合いながら会場を出る。こういう「美術展」に列をつくって、何も文句を言わずに熱心に(?)観ているなんて、日本人って本当に従順でお勉強好きなんだな、と思わずにいられない。
しかし、この美術館のいいところは、売店が比較的充実していることと、海の見えるカフェが附属していること。以前にこの売店でマリメッコ(フィンランド)の緑の布製バッグを買って愛用している。今日もパートナーが同じマリメッコの小さな黒いバッグを買う。
シーボルトの日本植物誌も図版がよくできているので買った。ずいぶん以前に丸善からこれを絵柄にしたカレンダーが売り出された。海外出張のおみやげに持参してとても喜ばれ、わが家でも一部購入して、いまもその絵を一枚ずつ玄関の額に入れて季節に応じて架け替えている。写真や主観を通した美術的な絵よりも、植物図鑑のようなこの図譜の絵のほうがはるかに面白い。
カフェでは私がレモンティーにいちごのシュー・ロール、パートナーがカフェ・ラテにオレンジのムース。美術展のチケット半券で10%びきの1044円と安く、味もなかなかおいしい。
帰りに高島屋で靴を買ってもらう。ここ何週間か、左足の踵から腱にかけて痛みがあって、手当てしても消えない。医者は歩かないほうがいい、と言うけれど、そうもいかない。
私より7つも若い友人の言うには、歳をとると筋肉が弱くなるから、その負担が踵の骨にくるのだそうで、硬い地面を歩いてもその反作用をやわらげる柔らかな靴を履く必要がある、とのこと。
私の靴をみて、「これは40代で履く靴だ」、という。「こんなのを履いていたら、早晩、足全体を傷めてしまう」と脅かされる。彼の履いている靴を試させてもらったら、本当にフワフワ雲の上を歩くようだった。
ただし、見た目はぼてっとしたゴッツイ靴で、ああいうのを履かんとアカンのか、とちょっとがっかりする。でも、背に腹は代えられない。歳相応の、足に優しい靴を履くしかなさそうだ。 でも、先が思いやられる。テニスやドッチボールやボーリングをやろうよと誘ってくれる二十歳のギャルたちと走りまわるのを楽しみにしているのに・・・(>_<)
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2005年04月13日
『半島を出よ』
久しぶりに出た村上龍の長編、電車の往き復りだけで読んだので、3日がかりになったが、さすがに後半はその世界にのめりこんで一気に読む。
北朝鮮の擬「反乱軍」に福岡が占領されて、人質をとられているために政府は手も足も出せず、逆に九州を封鎖して、占領軍の思う壺にはまる。福岡市民らは日本政府に反感をいだき、恐怖感と背中合わせではあるがむしろ占領軍に擦り寄っていく。なおも後続の12万人の「反乱軍」が迫る中、日本社会から完全に疎外されてきた奇妙な集団が占領軍を敵として、周到な準備の後、占領地域に侵入し、ホテルの高層ビルを爆破倒壊させて占領軍を壊滅させる・・・・
そんな荒唐無稽なストーリーだが、北朝鮮軍や軍事や武器や毒虫等々についてよく調べて細部を書き込んであるのと、日本の戦後社会の作り上げてきた秩序や思想の弱点をふまえた政治・軍事的シミュレーションの形をとっているところに、単なるドンパチ・エンターテインメントとは異なるリアリティがある。シミュレーション小説とでも言おうか。
村上龍は、ずっと以前から、日本人の戦後の生き方やものの考え方に対する異和感を表明してきた作家で、この作品では北朝鮮軍の登場人物の目を通してその異和感を鋭く表現している。
その目にうつる日本人は、曖昧で、情緒過多で、卑屈で、弱々しく、非現実的であり、それらに対して、明晰で、力強く、クールで、現実的なものとして、北朝鮮擬反乱軍の人物像を対置している。
これでもか、これでもか、と日本人の平和ボケや危機意識の欠如を嫌悪し、批判する言辞に触れると、石原慎太郎やニューライト風の政治論を聞いているような錯覚を覚える。
よく調べてよく仕掛けられたエンターテインメントであることは間違いない。わずか500人かそこらの軍人でどうやって福岡を制圧するのか、またてんでバラバラのおちこぼれ集団がどうやって全身が武器のかたまりのような占領軍を攻撃できるのか、そういう興味で単純に読んでも面白い。武器や毒虫についての薀蓄には興味がないので、惹かれないが、落ちこぼれ集団の面々一人一人について、なぜそこへたどりついたかを紹介するところなどは、いまの社会を背景にリアリティがある。また、「反乱軍」兵士の回想やその目でみた日本人への違和感もよく描けている。
ただ、この作品の文体は情報を記述する文体に近い。村上龍はデビュー作以来、鮮やかなイメージ喚起力をもつ言葉を矢継ぎ早に重ねていくような作家だと思っていたけれど、この小説ではそのように浮き出てくるイメージの深さ、強さはない。ただ、情報の細部がつくるリアリティと抜群のストーリーテラーの才能が、分厚い2冊本を長いと感じさせない、エンターテインメントをつくりだしているのはさすがである。
at 23:01|Permalink│
2005年04月06日
Rosas
暖かな一日。 川端の桜、朝は三分咲き、夜はもう六分咲きか。疎水の桜は朝から六分咲き。
入学式だが私は出席の必要がないので、登学の必要はなかったけれど、しばらく会っていないクラスの子たちの顔がみたくて、のこのこ出かける。往復4時間半。けれども履修登録を終えて部屋へ遊びに来てくれる明るい元気な顔をみると、本当に幸せな気分になる。就職活動中の新4回生としばらく話ができたのも嬉しかった。
夕方早めに出て、びわ湖ホールへ。自分が最初の構想づくりを担当したホールが、いい企画を次々打ち出しているのを見るのは楽しい。
今日は、Rosasの公演"Bitches Brew/Tacoma Narrows"を見る。前評判の高かった「レイン」を見たときは、期待ほどでなくて少し失望したが、今回は思わせぶりのない理屈ぬきの、ひたすら身体を動かす楽しさが伝わってきた。反復されるリズムと身体の動きのパターンに退屈な部分もあるけれど、十数人のダンサーの多元的な動きが面白いし、出ずっぱりの彼らのエネルギッシュな動きには感心する。さまになっているダンサーとそうでないダンサーにはかなり幅があって、スタイルも動きも美しい人とそうでない人がある。
観客は圧倒的に若い人が多い。それも女性に偏っている。考えてみればそういう人たちの好みそうなダンスだ。深く切り裂くような身体表現ではなく、明るくあっけらかんとした陽性の楽しいダンス。きっと若い女性は自分もまじってやってみたくなるのではないか。
三条へかえってきて、高瀬川沿いの夜桜を見ながら、ご近所の夫婦がやっている「樽」へ行って遅めの夕食。ここで出る野菜は有機栽培のおいしい野菜を使っているし、メニューが豊富で、こんな都心の店なのにめちゃくちゃ安い。深夜1時半くらいまでやっているので、公演の帰りには重宝する。
at 23:59|Permalink│