2009年04月26日

『このあいだ東京でね』(青木淳悟 著)

 文芸誌『新潮』に載ったとき、タイトルに惹かれて読んで、面白くもなんともない小説だけれど、なんとなく気になったのと、その後書評の類で私がよく読むような作家が評価していたので、あらためて単行本で読んでみたくなって買ったものの、実はこの2週間くらい、ずっと持ち歩いて、ようやく無理やり読み終えたのでした。

 こんなに一冊の本に時間をかけるのは何分冊にもなった数千ページの大作というのでもない限り珍しいのですが、別段読み返していたわけではなくて、読み進むことができなかったのでした。

 というのも、もっぱら車中読書で、ゆられながら読んでいると、この本は、確実に眠気を催して、数ページ読むと本を閉じてうとうと眠らずにはいられなかったのです。

 そうまでした読まなきゃいいじゃないの、と可笑しいでしょうが、気になるというのは何か勘が働いているわけだから、それがなぜなのか自分なりに納得しないと、気持ちが悪いので(笑)

 でも今回はやっぱりダメでした。まだ私には理解不能の作品ということなのでしょう。

 若いころに小説を書こう書こうとして毎晩机に向かっていたころ、一つの部屋を克明に描写して、登場人物はゼロだけれど、そこに住む人もそこで営まれる暮らしも浮かび上がってくるような作品ができないかと考えていたことがあります。

 人には社会学の論文みたいなの、と言われたけれど、客観的な記述というわけではなくて、あくまでも一人の視点で見て見えるものを描くということで、距離を置いた客観的な文章で「主観」を意識させないような文体ではあっても、所詮それは一人の人物の目線で・・・というふうに考えていました。

 私の場合は、その当時次々に翻訳されて一世を風靡していたフランス発のアンチロマンと一括りにされていた作品群、とりわけログブリエの「嫉妬」や「新しい小説」の中のスナップショットのような作品をイメージしていたと思います。

 今回、あらためて「このあいだ東京でね」を読んで、ちょっとそのことを思い出したのですが、この作品が収録された単行本の末尾に、建築雑誌の企画で作者が或る個人住宅への訪問記として書いたという文章が掲載されていて、しかもその冒頭に次の文章を見出して、思わず笑ってしまい、このうんと世代の若い、私にいまだ理解不能の作家に妙な親近感を感じました。

 「あれは二十代なかばの、まだ実家でくすぶっていたころのこと、ごくごく一般的な戸建て住宅をまるごと一軒『トレースするだけ』の小説を構想した。」

 人と同じような作品は書きたくない、自分なりの新しい作品が書きたい、と切望している若者は、昔も今も似たようなことを考えるものなんだろうな、と思いながら、私は捨ててしまったけれど、この作家はずっと粘り強くそれを追求して、「このあいだ東京でね」のような小説に至ったということなのだろうな、と思いました。とりあえず自分なりの外面的な理解だけはしたわけです。

 そうすると、単行本の帯の「街はことばでできている」のように、作品を読むとことばで構成される街が髣髴と浮かんでくる、ということなのかな、とも思うのですが、それがどうもそういうふうでもない。主観的な印象の文体ではないけれど、私が若いころ考えていたような、客観的な描写で対象である居住空間とともに、そこで生活する人物なり暮らしぶりなりがくっきり浮かび上がってくる、というような文体でもないのです。

 むしろ対象をくっきりと浮かび上がらせるためには、選択と集中が必要ですが、そういう文体観から言えば、「客観的な描写にとって不必要な」構築物の細部の構造を辿るような文体で、そこに連なる言葉は、炊きたてご飯のように米粒の一つ一つが艶やかに立っているような励起した文体ではないので、この作家はきっと吉本さん流に言うと「書くように書く」作家ではなくて「話すように書く」作家なんだろうなと思ったりします。

 街や建築物の構造をたどっていく一人の視線の軌跡が、新しい「物語」をつくっている、というふうに言えばいいのでしょうか。

 そこにあるのは、よく文章の垂れ流しと悪意を込めて言われるような、ブログなどにあるような(私のブログもその一つですが・・苦笑)肩の力を抜いた日録とか随想によくあるような文章に見えます。
 つまり、私が昔考えたような、一つの部屋なら部屋の物的対象に張り付いて、あくまでも描写に徹するような意志も初めからなくて、「不必要に細かに」構造など説明してたどっていくかと思えば、中途半端に抽象的な言葉でまとめてしまったり、ありふれた判断の言葉が臆面も無く置かれています。

 どこでもいいから、たまたま今開いたページから引いてみましょうか。

 「よく知られているように、たいていの銀行店舗は平日十五時で閉店となる。冬期でもまだ明るいうちにシャッターが下りてしまう。当日の窓口業務がそこで締め切られるものだとして、それ以降でも現金が入り用ならキャッシュカード一枚で預金の引き出しは可能だ。またカードでのクレジット払い、キャッシングローンの利用と、消費者の旺盛な資金需要は場所と時間を選ばない。いついかなるときも、どこにいようとも。いまは夜だ、まちなかにいる。それでは多少の所持金が必要だろう。」

 こういう文体はあまり文芸誌に現われたことがないのではないでしょうか。このあとまだえんえんとカードについてあれこれと、銀行づとめの人なら誰でも知っているようなネタについて、素人がブログに書くような随想風の記述が続くのですが、さて、このどこに小説としての表現の価値があり、私が「気になる」のか。或いはそういう価値観を壊す契機がこの作品に含まれているということなのか。まだ私には皆目見当がつきません。

 もし「話すように書く」作家として、街を「物語る」作品であるなら、その語りの新しさ、面白さが私たち読者の心を撃つ筈だ、というのが私の見当です。街や建築物を見て語っていく一人の視線の軌跡の面白さがどこにあるのか、ただ気になるというだけで、まだその自分の気になる理由が見出せずに、へんだな、と思いながら読んでいます。

 難儀して読み終わってもそれが分からないので、仕方なしに同じ作家をさかのぼることにして、いまは『四十日と四十夜のメルヘン』というのを読んでいます。そこに収められた表題作ともう一篇の「クレーターのほとりで」を読めば少しは分かるかな、というのが私の目論見です。でも、前者をほぼ読み終わった時点で、どうも無理みたいです(笑)。

 帯には保坂和志の「ビンチョンが現われた!」というのがあって、それだと私には理解不能かも、とあらためて思いました。ピンチョンは昔翻訳でちょっと齧って投げてしまった記憶があります(笑)。

 ただ、『このあいだ東京でね』所収の作品よりも、こちらはやや色艶があるというか、読みなれた小説に近いところがあって、読む速度はやや速く、言葉をたどっていくのに、ある種の楽しみがあるとは言えそうなので、何か見つかるかもしれません。

 いずれにせよ、こちらの小説観はきっと歳につれ古めかしくなっているに違いないので、若い人がこういうのを読んで何をどう感じるのか、話し合えると楽しいのですが・・・

 

at 21:54│
記事検索
月別アーカイブ