2009年04月21日

『パラドックス13』(東野圭吾 著)

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 474ページというボリュームをよくまあ、この単純な設定の中で飽きさせずにもたせるよなぁ、とまずは読みながら感心してしまいます。

 設定はSFでは類似のものがよくあるのかもしれませんが、リアリズム的な観点からは奇想天外だけれど、ごくシンプルな設定一つで、あとは登場人物数人が人の消えた東京をサバイバルを賭けて彷徨する、というだけのストーリーですから、これで500ページ近い作品を作り上げられるとは普通はとても思えません。

 でも3人いれば社会ができ、その間にドラマが生まれるとよく言われるように、数少ない登場人物をフルに生かしながら、異常な状況下に閉じ込められた異なるキャラクター、異なる考え方、異なる過去もつ人間が反発したりぶつかったりしながら、行動を共にせざるを得なくて一緒に苛酷な風景の中をさまよいながら、すぐれたリーダーに導かれながら生き延びていくプロセスを、飽きさせずに辿っていきます。

 推理小説、犯罪小説等々のジャンル小説であっても、そのタネや仕掛けよりも人間性や人間関係の織り成すドラマが豊かで深いこの作家の魅力は今回も最大限に発揮されていて、なぜこうなったか、なぜ結末がこうなるのか、あるいはあれが消えてこれが消えないのはなぜか、など、それぞれ説明はなされているけれども、そこにこの作品の面白さがあるわけではなく、危機管理の必要な状況下で人々がどう振舞い、どんな軋轢が生じるかといった、人間のドラマにスポットライトが当たっています。

 現代の我々が享受している利便性やそれを支えるあらゆるシステムが破壊された後の大都市東京は、ロビンソン・クルーソーの漂着した島よりも苛酷で、クルーソーにはあっただろう、いつか助けに来てくれる救助への希望もない、隔離された世界で、ある意味で密室に閉じ込められたように共存・協力して苛酷な環境に抗し、また順応せざるを得ない複数の男女についてのシミュレーション小説とでも申しましょうか。

 世界の終末的な光景の中を、そこへ突如として投げ込まれた人々が、周囲の地獄絵を目の当たりにしながら、サバイバルを賭けて彷徨する、というシュミレーション的な構造は、スティーブン・キングの『セル』も同じでしたが、東野さんの作品はキングのような原色の油絵の具をぶつけたような血と暴力で彩られた黙示録的な世界ではありません。

 死はつねに彼らの生と隣り合わせですが、そこにある苛酷な風景は泥と水のダークグレイの沈んだ色調の世界で、死は安らぎと見紛うほど優しく見えたり淡白にみえ、つねに諦念とひとつで、受け入れさえすればよい受動的なもののようです。同じ終末の光景を描いても、彼方の作家とこちらの作家とはこうも違うものなんだな、と妙なところで感心したりしながら読みました。

 私は通勤にバス⇒電車⇒電車⇒電車と3度乗り換えて一日に8回の乗車、6回の乗換えがあり、この本を読んでいた2日間に12回乗換えがあったわけですが、そのあいだに電車で2回、バスで1回、乗り過ごしを経験しました。車中はずっと読んでいるので、時々駅や停留所をチェックして、ふだんはまず間違えないのですが、こういう作品を読んでいると、あと1ページだけ、と思っているのに、つつっと次のページ、またその次のページと抵抗なく開いて、無意識に読み進んでしまうので、ハッと気づくと、電車の扉が閉まるところだったり、バスが動き出したりするところで、降りるべき駅や停留所は恨めしくもみるみる遠ざかっていきます。

 どうしてこう東野圭吾の作品は舌触りがよく、咽喉越しがよく、ほんの数行読むだけで先へ先へ運ばれていってしまうのでしょう?作者が苦労して書いた新刊大作をこんなに早く読んでしまって、次の楽しみはいつになる?と急かすのはあまりにも身勝手な読者かもしれません。

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