2009年03月01日

『猫を抱いて象と泳ぐ』(小川洋子・著)

 私たちが馴染んだ、近代日本の(というより地方出身の東京の文士たちの)湿潤な精神風土が生み出した、地べたを這うような私小説的リアリズムの世界とは対蹠的な、新鮮な想像力の創リ出す、オシャレで、物悲しい、不思議な小説世界。

 書店でページをパラパラ開いて、次はどの本を読もうかな、と物色しているときは、意味不明の、でもちょっと気になるタイトルと、オシャレな装丁に惹かれながらも、なじみの薄いチェスプレヤーの話らしい、「リトル・アリョーヒン」というロシア名の少年の目線で語られる物語らしい、と思って、しばらくは敬遠して通り過ぎていました。

 でもやっぱり気になって、昨日買ってきました。読み始めると、馴染みのないはずのチェスの世界にもたちまち引き込まれていきます。アリョーヒンはロシアに実在したチェスの名手で、その創造的な棋風から、「盤上の詩人」と呼ばれたそうです。

 この作品の主人公である少年(そして少年の身体のまま大人になる「少年」)は、そのアリョーヒンの名をとって「リトル・アリョーヒン」と呼ばれています。

 この本を読んでも、チェスをやったことのない私にチェスというゲームをどう進めるかがわかるわけではありません。でも、「詩」として描かれたチェスの本質に触れたような気がするのは作者のすばらしい力量によるものでしょう。

 チェスというゲームの規則に習熟した人しか分からない作品であれば、それは小説とはいえないでしょうが、この作品にはそういう具体的な棋譜に属するような情報が与えられているわけではありません。

 にもかかわらず、少年の師であったマスターや、少年自身や、「老婆令嬢」の打つチェスが、気品に満ちた美しい「詩」であることが自然に伝わってきます。いやむしろそれを伝えるためにだけ、360ページほどのこの作品があると言ってもいいくらいです。

 この作品におけるチェスは、これまでこの作家の代表作とみなされてきた『博士の愛した数式』における数学のようなものでしょう。あの作品が数学を知らない私たちに、刻一刻記憶を失っていく博士を通じて、数学の美しさを感じさせてくれたように、この作品でもチェスを知らない私たちにチェスの本質としての詩を感じさせてくれます。

 言葉で言えば簡単だけれど、これは至難の業で、この作家のようなイマジネーションに富んだ力量ある作家にしかできないことだろうと思います。
 
 子供たちの人気に応えて長くデパートの屋上にとどまりすぎたために、大きくなりすぎて降りられなくなり、鎖につながれて小さな半円の中で生涯を終える象のインディラや、壁と壁の隙間にはさまって出られなくなった少女「ミイラ」のエピソードは、甘いものを食べ続けて太りすぎ、バスの中で死んでいくマスターの姿とともに、この作品の、物悲しい基調低音を響かせています。

 もちろんリトル・アリョーヒンが「大きくなること」を怖れ、実際に少年の肉体のままとどまるのも、彼のありように、周囲のすべての人々がそれぞれに抱え込んでいるそのような悲しみが流れ込んで集約されているためでしょう。

 盤上の(少年の場合は「盤下の」ですが)詩は、「大きくなる」ことを怖れ、拒むことによって生み出されていきます。それは或る意味で無垢な童心への固執であり、成熟の拒否でしょうが、世の人々のいう「成熟」とは異なる、厳しい研鑽と人格の陶冶の道があるということを私たちに告げてもくれます。

 そして、そのような道を歩む者は、大きくなりすぎたインディラやマスターのように、あるいは少年の肉体のまま「大人」になる少年のように、通常の「成熟」が唯一の成熟のあり方だとみなす目からは、異形の者にみえる、ということも、鮮やかに描かれています。

 この作品は、かれらfreaksを通じて、痛切な人生の哀感を伝えてくれます。私はこの作品を読んで、ラッセ・ハルシュトレムの「ギルバート・ブレイク」や「シッピング・ニューズ」を連想しました。純粋な詩人のような魂をもつために深く傷ついた人々、そんなfreaksに注ぐ作者の愛情に満ちた眼差しと、作品全体からにじみ出る人生に対する痛切な哀感が共通しているように思えるからです。

 くわしく言う必要はないでしょうが、この作品は、一種の芸術小説としても読めるでしょう。

 誰にでも薦めたい一冊です。

at 11:27│
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