2009年02月27日

『明るい夜』〈黒川創)

 この読者極少のブログでも、毎週、どんな記事を読者が見てくれたかがカウントされて見ようと思えば分かるのですが、この数日はやはり新刊の「ダブル・ファンタジー」や「少女」、それに評判の封切映画「チェンジリング」についての記事にかなりの読者がついてくれています。

 他方で、カウントはごくわずかだけれど、ずっと以前から消えず、毎週何人かは見てくれる記事というのがあって、それが黒川創さんの『かもめの日』について書いた記事です。

 それが前から気になっていて、私は彼のいい読者ではなくて、『かもめの日』がなにか受賞して、良い作品だという評判だったので読んでみたら、世評どおりの良い作品だった、というだけのことで、ちょっとした感想を書いただけでしたが、きっと黒川さんの作品には地味ながら根強いファンがいるのでしょう。

 そうでなければ、こんなマイナーなブログで毎週必ず特定の記事に読者がつくということはないでしょう。私の知らない人が、「黒川創」とか「かもめの日」を検索して、たまたま隅っこのほうでひっかかる私の記事に行き当たるのだろうと思います。

 で、気になったので、なにかほかに持っていなかったっけ、と本箱を探しても無いので、文春文庫で『明るい夜』が出ていたので買って読んでみました。

 カバー返しにある説明によると、『かもめの日』より三年ほど前の作品で三島賞候補作だったようです。『かもめの日』のほうがずっと洗練されて、作品としては良くなっていると思いますが、この作品もいい作品でした。

 ただ、この作品は私はまだよく分からなくて、ひどく読み違いしている可能性があります。もっとも、ほかの作品だって、いつも通勤の車中でたいていは一気に読んでしまって、読み返しもせずに印象を書き綴るだけの読書メモしか書いていないのですから、どうでもいいようなものですが、この作品については、独断と偏見ばかりの感想でさえちょっと書きにくいところがあります。

 一番気になっているのは、客観的な風景描写や人物描写の部分です。京都に暮らす私のような人間には、日ごろ馴染んだ場所がふんだんに出てくるので、そういう意味では興味深く読めるのですが、この小説の中でこの種の描写がどういう意味をもつのかと考えると、よく分からないところがあります。

 これは画学生がデッサンの練習に描くスケッチのように透明な文体で描かれた「写生」のように見えるのですが、なにかの象徴でもなく、隠喩でもなく、かといって映画のPOVショットのように登場人物の目を通して見た風景や人物という距離感も固有の歪みも持っていません。

 風景は風景であって、前後の登場人物の行動や心理の磁場で必然的に固有の歪みを受けて見える風景というものではない。

 そうすると、ふつうはこういう描写は、この作品に必要がないじゃないか、ということになるはずです。なにか作中の世界とは別の、作者の写生の意志のようなものを外部から持ち込むことになるので、作品としては割れてしまうような気がします。

 しかし、もしこれを全部削ってしまうとすれば、とても曖昧模糊とした作品になってしまうような気も、一方ではします。そのへんが、まだよく分からないのです。

 冒頭から登場するのは、「小説、書きたい」と言いながら「まだ、何か実際に書いていそうな様子は、まるでない」工藤くんについての話だし、主要登場人物である3人(工藤くん、わたし、女ともだちイズミちゃん)とも、それぞれ「まだ」踏み出していない人で、イズミちゃんの「失踪」もその「まだ」の領域から出ようとする途上なのでしょう。

 「わたし」という語り手には性を感じません。女性の強さも弱さも匂いもなく(あるいは希薄で)、自分の考えを押し出すというふうでもありません。行動的なようにみえて、おおげさに言えば世界の受け止め方が受身な感じです。

 そういうことを考え合わせると、彼女の出会う風景や人物に対する、あの透明な客観描写というのは、彼女の一種の空虚さに形を与えるもののような気がしてきます。受動的な姿勢で人や言葉や出来事やモノに遭遇して、これを見、語ることで対象を形作り、そうすることで「まだ」形にならないこちらの世界を形作ろうとしている、というふうに考えられないかな、と。

 曖昧模糊として霧散してしまいそうな世界を現実につなぎとめようと、具体的な風景や人物の描写に固執する、決して上昇しようとしない意志、というふうなものが、この作品を抑制的な語り口にしているようにも思います。

 巻頭に掲げられた「メアリー・シェリーの記憶による」サンチョ・パンサの「始まり」をめぐるエピグラムはシメでもう一度登場するけれど、これは「かもめの日」のテレシコワの「わたしはカモメ」と同様に、小さな作品の世界を大きな宇宙へ、いやこの作品で言えば、3人の若者の過ごした小さな時間を、時間の始原にさかのぼる大きな時間へとつなぐ奥行きを与えるものでしょう。ただ、それは「かもめの日」ほどにはうまくいっていないと感じますが。

 ここまで書いてきても、この作品についてはずいぶん見当違いの読み方をしているかもしれないな、という気がしています。いずれ、この人の作品をもういくつか読んで、あらためてどんなことを感じるか、自分の印象が変わるのを楽しみにしていたいと思います。
 

at 22:52│
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