2009年02月24日
「おくりびと」(滝田洋二郎・監督)
梅田ピカデリーは交差点の郵政互助会ビルというおんぼろの建物の中にあって、エレベーターを降りると本当に狭苦しい空間で、現在までの映画業界の衰徴のような映画館だけれど、一昨日は昼間というのに、次の上映を待つ客でその狭いロビーは満員御礼の盛況でした。
その中で、ロビーの「おくりびと」のポスターに、スタッフが、アカデミー賞外国語映画部門の「受賞」を朱書きしたラベルを貼るところを読売新聞社のカメラマンが撮っているのに出くわしました。どうやら、ノミネートだけでなく、ほんとうに受賞したようです。
それで観にいったわけではないけれど、封切すぐに見過ごしたらなかなか行く機会がなくて、周囲の人たちの評価が珍しく割れていたので、そろそろ上映打ち切りになるだろうと思い、自分の目で確かめてみたいと思って足を運んだ次第。
気乗り薄であったことは事実です。「お葬式」だって伊丹十三が撮ったから観たようなもので、タイトルを聴いただけで、意欲が半ば失せる。何を狙ってこの種の映画をつくるかが分かるような気がしないでしょうか。
時間帯が時間帯だけに、館内はお年寄り〈私もですが・・アハ)とオバサマ方ばかり。ロビーはネコの額ほどですが、館内は思ったより広く、おまけに平日の昼間だというのに(受賞を聞いてすぐに足を運んだのかな?)客席がほぼ埋まっている(ことはありえないにせよ)かにみえるほど、しっかり入っています。
肝心の映画ですが、長男は「退屈だった」と酷評していたようですが、私は予想以上に良いところがあったので、そこそこ満足して帰りました。
本木雅弘はこういう基本的に生真面目さとコミカルな味と、何よりも清潔感がなくてはならない役にぴったりだったし、山崎努はいつもの、と言っていい彼らしい安定した演技で、表情一つ変えずに腐乱死体を作法どおり扱うベテラン納棺士として「静」を演じれば、モッくんがこれと対蹠的に、色々な意味で揺らぐ(「動」揺する)「動」を演じて、いいコンビネーションです。
脇役の余貴美子や吉行和子、笹野高史らも安心して観ていられる役者さんなので、このへんまでは役者の布陣も悪くありません。あとの葬儀参列者等々のキャストが、あまりいい顔をしていないのが残念な気はしましたが。
一番良かったのは、遺体の衣服を遺族や弔問客の目に触れさせずに、しかも目の前で鮮やかに脱がせてすっと抜き取る一連のワザ。この手品師のような手つきは実に鮮かで美しい。
本木演じる若い納棺士がもとチェロ演奏者で、全編にチェロの音が伏流水のように流れては、時折、おもてに顕われてきます。これは、作中の妻(広末涼子)が夫にこの仕事をやめて、というときについ口走る「穢れ」(拒否する妻を抱きとめようとする夫に「けがらわしい!」と叫ぶ)をいわば「清める」役割を果たしていて、全編の清潔感を高めるのに効果的に使われています。
広末の妻は・・こんなパートナーがいたらいいなぁ、素直で明るくて可愛くて、旦那が何もせずにいても厭な顔一つせずに家事を全部やってくれて、夫が千ン百万円だかのチェロを勝手に買ってもすぐに追認してくれるほど理解があって夫を愛してくれていて・・と既婚男性観客のほとんどが羨望の念を持って見ていたんじゃないでしょうか(笑・・これ、パートナーにはナイショです)。
でも、どうもおかしい。新婚さんでもないのに、こんなパーフェクトな(男性に都合のいい)奥さんなんていねぇよなぁ、と薄々感じますね。すると、たぶん物語の展開上こうなっているんで、このあと逆転するんだろうな、と誰だって予感します。そして一旦裏返るけれども、再度裏返って、結局は元の鞘に収まることでメデタシメデタシっていうのが、この映画のサブストリームをつくる夫婦のラブストーリーなんだろう、と簡単に推測できちゃいます。
アカデミー賞にノミネートされたらしい、という以外は何の予備知識もなしに観に行ったのですが、観ていてあまりにも途中で予感した通りになったので、かえってがっかりしてしまいました。
また、もう一つのサブストリームをつくる主人公を幼いころに捨てていった(と主人公が思っている)父親との父子関係の浪花節ストーリーも、モッくんがやたら反撥を口に出して耳障りだな、と思っているところへ、河原で拾った小石を交換した思い出シーンが出てくると、あ、これがあとで、和解の小道具に使われるんだろうな、と誰にだってすぐ分かってしまいます。
つまり、この映画、ほとんど先が見えてしまうところが、私には物足りませんでした。
そもそも、葬儀という形骸化した習俗に、生のほうから光をあてて、旅立ち」を見送ることが本来持っていた意味を喚起し、そこから逆に平凡な私たち一人一人の生そのものの尊さや私たちが粗末に扱っているささやかな人間関係の貴重さを浮かび上がらせる、というこの作品のメインストリームの手つき自体が、ほとんどタイトルを聴くだけで予想がついてしまって、終始そのフレームからはみ出すころがありません。
だからこそ、作品としてまとまりがよく、わかりやすく、最大公約数的な観客の素直な共感を呼ぶところがあるのかもしれません。
先に書いたような、遺体の着替えのような美しい沈黙のシーンだけが連なっていたら随分印象は違ったでしょうが、達者な脇役陣が、上記のようなメインストリームに沿った人生訓みたいなことをわざわざ口頭で「説明」してくれるので、少々鼻白むところがあります。そういう意味でもイマドキの映画らしい「分かりやすい」映画です。
たしかに納棺にせよ葬儀にせよ、習俗として私たちが伝えられた形のままにその意味合いをとりたてて意識せず、無難にやり過ごしていることの中に、人間の生き死に全体に関わる重い実質がある、ということはこの映画のメッセージの通りでしょう。
私たちはふだんそういう重い実質を忘れている、いや、「忘れていたい」のかもしれません。私たち自身が、それを忘れていた、いや「忘れていたがっていた」のだな、ということを思い出させる・・・この手の主題を扱えば、ほとんど自動的にそういうことになるでしょう。タイトルを聴いただけで、あまり気乗りがしなかったのは、こういうところに理由があるような気がします。
伊丹十三の「お葬式」は、わたしたちが無意識に従ってきたこの種の「厳粛な」、しかし実際には形骸化した儀式、いまだに私たちが従っている習俗を冷笑してみせました。
弔いという「死」を遇する局面に「生」をではなく「性」を重ねて、私たち現代人がその形式化した儀式を大真面目に執り行う姿を冷笑し挑発するスタイルが好きなわけではなくて、どちらかといえば伊東四朗と三宅裕司がかつて見せてくれたような(葬儀屋が遺族と言葉を交わしながら、ひとこと発するたびにその音で始まる歌謡を歌いだしてしまう)、笑いへとずらせてみせるスタイルを私自身は好みますが、伊丹の作品にはそれなりの強いインパクトがありました。
しかし、「おくりびと」はそれとは対蹠的で、ずっと穏やかで、観客の保守的な感性に訴えかけてくれます。
納棺という「厳粛な」儀式に、人の生き死にへの思いを重ねることによって息を吹き込みました。見方によっては、形骸化した習俗の制度を感傷で埋めることに成功したとも言えるでしょう。
「お葬式」と比較して観れば、浪花節や演歌に涙する日本的で保守的な感性を武器にしていることが一層クリアになるでしょう。繰り返し登場する北国の美しい自然やチェロの音は、そうした感性をかきたてる昔から使われてきた常套手段でした。
この映画が、欧米で高い評価を受ける理由もよくわかるような気がします。
at 18:04│