2009年02月21日
『アレグリアとは仕事はできない』(津村記久子・著)
「アレグリアとは仕事はできない」と「地下鉄の叙事詩」の二編を収録した単行本。
どちらもなかなか面白かった。いずれも、この作品と前後して書かれたのだろう「カソウスキ・・」や「ポトスライム・・」と同様、作者と等身大の、企業の正社員の中では一番しわ寄せのくるいわば「最下層」OLや、彼女が触れ合う人の目で、彼らが生きる身近な世界を描いている。
といっても、写実的に日常世界をスケッチしました、というふうにではなく、それぞれの登場人物である見る者の感情を含んだ視線で見ているために、対象に過剰に近づいたり過剰に距離をとるような歪んだ鏡に映る像になっている。
地べたにはりついて触角に触れたものだけをとらえる蟻のような視点で、その視覚は感情を孕んで触覚化されていて、なめくじが触角を伸ばしたり引っ込めたりするように妙に生々しく、見られる対象になめくじが這ったあとのような気色のわるい跡をつけていく。
そんな視線でとらえているのは、ふつうの視覚で見れば平々凡々たる日常世界の一コマでしかないが、この作品の視点をくぐれば、実に奇妙で腹立たしくも見えてくるような、息苦しい既成の構造の中で、ふてぶてしく、あるいはオトオドと、あるいは鈍感に生きている身近な人間たちの卑小ではあるけれどそれぞれに懸命な姿だ。
「地下鉄・・」では地下鉄の乗客やできごとの起きる状況が複数の乗客の視点でとらえられ、途中までは、古い話になるが丹羽文雄の『小説作法』で「観察」と「写生」が大事と教わった作家志望の文学少女が、地下鉄車内で乗客をあれこれ観察しては文章で写生の試みをしている、エチュードのような感じだった。(デザイナーの粟津潔が若い頃、山手線に乗って、終日、前の席に坐る乗客をスケッチしてデッサンの練習をした、というふうな話を川添登から聞いたことがあるが、あれの文学少女版かな、と思った。)
しかし、痴漢が登場してクライマックスにいたる後半は調子が出てきて、作品として読めるようになっている。
「アレグリア・・」のほうは、「怠惰」で男にだけ媚を売り、女子社員をなめてかかる、性悪女みたいなコピー機相手に悪戦苦闘する最下層OLの話(というのも乱暴な要約だけど・・笑)で、コピー機相手に仕事をしている人なら誰でも似たような気分になったことはあるだろう、と思えるようなエピソードとそのときに感じることをフィクショナルに拡大してみせてくれる。
だれでもが思い当たるし、それを拡大鏡で見せられると、ユーモラスでもあり、同時にそこに含まれる悲哀も拡大され、マシンとの人間的な、あまりに人間的なやりとりに、たとえば主人公や「先輩」と周囲の同僚や業者との人間関係、というよりその全体が嵌め込まれ、私たちがそのような貧しい関係性の中に追い込まれている、いや追い込んでいる当のもの、つづめて言えば私たちが生きるこの社会の理不尽な既成の構造が映し出されてくるのがわかる。
ただ、コピー機の擬人化はあまりにも誰にでも生じるありふれた感覚であるために、この仕掛けを拡張・深化させることで、私たちが追い込められている世界の卑小さ、その中で或る意味でけなげに、或る意味でしたたかに生きる現代の最下層労働者OLの触覚的視覚を通じて既成の構造を撃つのは容易ではなさそうだ。
そこそこ読ませ、面白いと思うけれど、読み終わって深い悲哀に貫かれることもなければ、哄笑してページを閉じるでもないのは、〈前に触れたように、横光利一の「機械」と比較するのは気の毒かもしれないけれど)この歪んだ鏡の歪みようが中途半端だからではないかという気がした。
どちらもなかなか面白かった。いずれも、この作品と前後して書かれたのだろう「カソウスキ・・」や「ポトスライム・・」と同様、作者と等身大の、企業の正社員の中では一番しわ寄せのくるいわば「最下層」OLや、彼女が触れ合う人の目で、彼らが生きる身近な世界を描いている。
といっても、写実的に日常世界をスケッチしました、というふうにではなく、それぞれの登場人物である見る者の感情を含んだ視線で見ているために、対象に過剰に近づいたり過剰に距離をとるような歪んだ鏡に映る像になっている。
地べたにはりついて触角に触れたものだけをとらえる蟻のような視点で、その視覚は感情を孕んで触覚化されていて、なめくじが触角を伸ばしたり引っ込めたりするように妙に生々しく、見られる対象になめくじが這ったあとのような気色のわるい跡をつけていく。
そんな視線でとらえているのは、ふつうの視覚で見れば平々凡々たる日常世界の一コマでしかないが、この作品の視点をくぐれば、実に奇妙で腹立たしくも見えてくるような、息苦しい既成の構造の中で、ふてぶてしく、あるいはオトオドと、あるいは鈍感に生きている身近な人間たちの卑小ではあるけれどそれぞれに懸命な姿だ。
「地下鉄・・」では地下鉄の乗客やできごとの起きる状況が複数の乗客の視点でとらえられ、途中までは、古い話になるが丹羽文雄の『小説作法』で「観察」と「写生」が大事と教わった作家志望の文学少女が、地下鉄車内で乗客をあれこれ観察しては文章で写生の試みをしている、エチュードのような感じだった。(デザイナーの粟津潔が若い頃、山手線に乗って、終日、前の席に坐る乗客をスケッチしてデッサンの練習をした、というふうな話を川添登から聞いたことがあるが、あれの文学少女版かな、と思った。)
しかし、痴漢が登場してクライマックスにいたる後半は調子が出てきて、作品として読めるようになっている。
「アレグリア・・」のほうは、「怠惰」で男にだけ媚を売り、女子社員をなめてかかる、性悪女みたいなコピー機相手に悪戦苦闘する最下層OLの話(というのも乱暴な要約だけど・・笑)で、コピー機相手に仕事をしている人なら誰でも似たような気分になったことはあるだろう、と思えるようなエピソードとそのときに感じることをフィクショナルに拡大してみせてくれる。
だれでもが思い当たるし、それを拡大鏡で見せられると、ユーモラスでもあり、同時にそこに含まれる悲哀も拡大され、マシンとの人間的な、あまりに人間的なやりとりに、たとえば主人公や「先輩」と周囲の同僚や業者との人間関係、というよりその全体が嵌め込まれ、私たちがそのような貧しい関係性の中に追い込まれている、いや追い込んでいる当のもの、つづめて言えば私たちが生きるこの社会の理不尽な既成の構造が映し出されてくるのがわかる。
ただ、コピー機の擬人化はあまりにも誰にでも生じるありふれた感覚であるために、この仕掛けを拡張・深化させることで、私たちが追い込められている世界の卑小さ、その中で或る意味でけなげに、或る意味でしたたかに生きる現代の最下層労働者OLの触覚的視覚を通じて既成の構造を撃つのは容易ではなさそうだ。
そこそこ読ませ、面白いと思うけれど、読み終わって深い悲哀に貫かれることもなければ、哄笑してページを閉じるでもないのは、〈前に触れたように、横光利一の「機械」と比較するのは気の毒かもしれないけれど)この歪んだ鏡の歪みようが中途半端だからではないかという気がした。
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