2008年12月31日

赤い風船

 先日、京都シネマでアルベール・ラモリスの「赤い風船」と「白い馬」を見てきました。

 「赤い風船」はずっと以前に、近くのけいぶん社で積み上げてあったビデオを買って、知り合いのお子さんにあげたり、私自身も1本持っていて、もう10回以上見ているのですが、映画館でみるのは、たしか小学校6年生くらいの封切の時以来2度目です。

 最初に見たときの印象は、いまでも覚えています。私たちの小学校のころは、よく映画の団体鑑賞というのがあって、学校から町の映画館へ行って何本も映画を見たものですが、「赤い風船」は母親と一緒に行った記憶があります。

 少年と風船に感情移入して、映画が終わってからもずっと哀しい気分だったことを覚えています。赤い風船はいまよりも、もっとずっと大きく感じられました。(もっとも京都シネマのスクリーンは家庭用スクリーンよりちょっと大きい程度で、建物の制約上仕方がなかったのでしょうが、劇場用としてはあまりにも小さすぎますから、そのせいで小さく感じられるのかもしれません。)

 この映画は撮り方としても当時の技術水準でよくここまでやれたな、と驚くようなところがあって、少しも古びていません。

 2歳(もうすぐ3歳)になる孫に見せたら、34分の短編のせいもあって、最初から最後まで食い入るように見ていました。風船が踏まれるシーンでは顔をゆがめてショックを受けていました。

 後で話している最中に、私が何を話したか覚えていないのですが、それに対して、「だから〈自分で)踏んで割ったのね」と納得したように言ったので、彼女は、少年が最後に自分で踏んで引導を渡したように受け取っていたことが分かりました。

 たしかにカメラは足もとしか移していないけれど、「いや、あれはあの子じゃなくて、いたずらっ子の一人が踏んだんだよ」と言ったのですが、誤解にせよ、面白い見方をするもんだな、と思いました。そして、2歳の子でも、映像に対してそういう「解釈」をして観ているものなんだな、と面白く思いました。

 それと、蚤の市を少年と風船が見て歩くシーンで、私が「これはパリの蚤の市といって、色んな古いものばかり売っている市場なんだよ」と説明してあげると、「ふ?ん」と言って見ていて、「ママがいないのに、どうして一人で行けるの?」と訊きます。

 これには意表を突かれました。彼女がこういう場所へ行くときは、きっとママかパパと一緒でないと行けないでしょうから、まだ頼りない感じの少年が、知らないオトナたちがうろうろしていて古いものを売っている市場なんかへ、一人で行くのが不思議な気がしたのかもしれません。

 同時にこの質問で、あ、そういえばこの少年は父親も母親もいなかったなぁ、とあらためて思い起されたのでした。アパートの窓から風船を放ったのも、少年を教会へ連れて行ったのも、厳格なだけで愛情のあまり感じられないような祖母らしい老婦人でした。

 きっとかつては両親の愛情に包まれた温かな家庭に育った子供だったのでしょう(その繊細で気品を感じさせる風貌、振る舞い、そして服装は、あきらかに他のワルガキたちとは違います)。戦争で両親も財産も失い、一人残されて祖母のもとにひきとられ、パリの端っこの下町の、戦後急造された高層アパートの一室に暮らしている・・・きっとそんなところでしょう。彼はあらゆる意味で孤独なのです。

 少し意図するところもあって、この映画を最初から最後までショット分析してみようと思い立って、このところ、毎日、一こま一こま全部静止映像化しては分析を試みています。いままで気づかなかったラモリス監督の意図を、映像そのものに読み取るのは楽しい作業で、時間の経つのを忘れます。

 もう教壇に立つのも僅かの期間、来期からは、前任者から引き継いだ科目の看板をあまり外れても悪いかな、という気兼ねを減らして、そろそろ好きなことを好きなようにやらしてもらおう、という思いを胸に、そのプレサーヴェイ的な試みとしてやっているのですが、さてうまくいくかどうか・・・

 


at 21:46│
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