2008年12月24日
「ラースと、その彼女」
「レッドクリフ」を見たあとでこれを見ると、極端な「超大作」と、極端な「超小作」を見た、という感じで、これは本来の意味での「B級映画」(短期間に予算をかけないで作った映画)じゃないだろうか。
しかし、内容的には、二流品という意味でのいわゆる「B級映画」ではなくて、ハリウッドが自主制作映画のスタイルで作って見せた佳作といったところ。
新聞で粗筋が紹介されたのを読んだときから、これはきっと脚本がうまいな、と思ったけれど、映画を見て、そう確信した。脚本を実際に読んだわけではないけれど、主人公の「二人」を温かく見守っていく兄夫婦をはじめ、町の人たちの、ある意味では危なっかしいところのある、その善意の見守りを、ずっと最後までひっぱっていく手腕も相当なものだし、それを主人公が自分で解決していく結末のあたりは、誠に見事な出来栄えだと思う。
ひとつ間違えば、まるで馬鹿げた、お話にもならないようなひどい話になってしまうか、エロティックなものを連想させてひどく不潔な話になっていきかねないところを、常にきわどいところで、潔癖で病んだ精神が周囲の温かい眼差しに包まれながら自分を、従って他者を同時に見出していくという主題に沿って、綱渡りするように「もたせて」いく。
大騒ぎするでもなく淡々と、しかも退屈させず、ハラハラさせながら、あるテンションを持続していく。
映画ではもろに人形が視覚的に出てくるので、最初はどうしたって抵抗感がある。いくら「いかれてる」(兄が妻にいう言葉)としても、それはないだろう、という思いを観客の多くが多少は抱くだろう。ところが、見ているうちに、これが自然になってくるから不思議。これはアリなんだ、という感じになってくる。
それはやはり脚本がうまい、ということと、役者がみなうまいということだろう。もちろん主人公ラースを演じるライアン・ゴズリングの力量に負うところは大きい。彼がダメだったら、この映画はもう全く台無しになっただろう。
そこをゴズリングはイヤミなく、澄んだ演技でこなしている。こういう役は「自然体」といったって、おそろしく難しいに違いないのだが。
脇役も素晴らしい。兄、兄の妻・カリン役のエミリー・モーティー、それに精神科医の女医を演じていた女優、彼らの味方を積極的にしていた町のオバサン役の女優など、いずれも存在感があった。
しかし、内容的には、二流品という意味でのいわゆる「B級映画」ではなくて、ハリウッドが自主制作映画のスタイルで作って見せた佳作といったところ。
新聞で粗筋が紹介されたのを読んだときから、これはきっと脚本がうまいな、と思ったけれど、映画を見て、そう確信した。脚本を実際に読んだわけではないけれど、主人公の「二人」を温かく見守っていく兄夫婦をはじめ、町の人たちの、ある意味では危なっかしいところのある、その善意の見守りを、ずっと最後までひっぱっていく手腕も相当なものだし、それを主人公が自分で解決していく結末のあたりは、誠に見事な出来栄えだと思う。
ひとつ間違えば、まるで馬鹿げた、お話にもならないようなひどい話になってしまうか、エロティックなものを連想させてひどく不潔な話になっていきかねないところを、常にきわどいところで、潔癖で病んだ精神が周囲の温かい眼差しに包まれながら自分を、従って他者を同時に見出していくという主題に沿って、綱渡りするように「もたせて」いく。
大騒ぎするでもなく淡々と、しかも退屈させず、ハラハラさせながら、あるテンションを持続していく。
映画ではもろに人形が視覚的に出てくるので、最初はどうしたって抵抗感がある。いくら「いかれてる」(兄が妻にいう言葉)としても、それはないだろう、という思いを観客の多くが多少は抱くだろう。ところが、見ているうちに、これが自然になってくるから不思議。これはアリなんだ、という感じになってくる。
それはやはり脚本がうまい、ということと、役者がみなうまいということだろう。もちろん主人公ラースを演じるライアン・ゴズリングの力量に負うところは大きい。彼がダメだったら、この映画はもう全く台無しになっただろう。
そこをゴズリングはイヤミなく、澄んだ演技でこなしている。こういう役は「自然体」といったって、おそろしく難しいに違いないのだが。
脇役も素晴らしい。兄、兄の妻・カリン役のエミリー・モーティー、それに精神科医の女医を演じていた女優、彼らの味方を積極的にしていた町のオバサン役の女優など、いずれも存在感があった。
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