2008年12月03日
『ファミリーポートレイト』(桜庭一樹)
近親姦を扱った『私の男』で直木賞を受賞した女性作家(ペンネームは男性のようだけれど)の長編。帯によれば受賞後初の書き下ろしで、「1000枚」だそうです。400字詰め原稿用紙の枚数なのでしょうから、400×1000=400,000字!卒論で50枚なんて多すぎて書けない!と言ってる諸君、2万字の40倍ですよ。すごいですねぇ。キャッチコピーには「恐るべき最高傑作」とあります。ゼミ生さんにとってはまさに「恐るべき枚数」でしょうね。ほんとに分厚さだけとっても「力作!」って感じです。
キャッチコピーに釣られて読んだわけでもないのですが、『私の男』を読んだ記憶では、たしか題材は好みではないけれど、筆は達者な、かなり書き込んだ作品だったので、手にとってこの2日間ほど、電車内の時間をつぶしました。
近親姦といい、さかりのついた血まみれの獣のような母子像といい、作者はこういうどぎついのがお好きなのでしょう。江戸時代の絵にもこういうおどろおどろしいのがありましたね。キッタハッタで生首が飛んで血しぶきが、というようなの。
ぐいぐい引っ張っていく筆力はあります。ほんとにリキがはいっています。ちょっと力みすぎじゃないでしょうか、と思うほどです。
このドギツサも計算づくだと思いたい。でも、その血しぶきが祈りにつながっていかないので、そうは思えないのが残念。
きっとこういう流血や暴力や性の露出がなければ、ほんものじゃないという思い込みが作者のどこかにあるのでしょうか。作者が命がけということと、登場人物が近頃ありふれていて週刊誌ネタにもならないリストカットみたいな自傷行為に走ることとは無関係だと思うのですが。
たぶん、現実の平穏な(或いはそうみえる)生活への違和感が作者にあって(たいていの作家はそうでしょうけれど)、それを主人公たちの憎悪(なによりも自身への、そして近親への、他者への)や悲嘆や世の中のルールへの無視・無関心あるいは越境になって表われるのでしょうが、よほどの力量でないと、深い悲しみをたたえるべきシーンが、ただどぎつい原色で塗りたくったこけおどしのポンチ絵に見え、滑稽にみえてしまうことさえあります。
でも、まだ「第一部」の「旅」、幼い主人公と母親との逃避行を描いた部分は、なかなか面白い。あの町、この町と逃れては住みつき、またいられなくなって逃げていく。それぞれの町や村でのエピソードの中には面白いシーンが沢山あります。
幼い娘の目で描かれる、壊れた美しい母親の姿は、血にまみれ、男の精液にまみれ、汚辱にまみれながらも魅力的だし、その母にいわゆるDVを受けながら、コバンザメみたいにくっついて離れず、ママに絶対服従で、自分をも他をも顧みない幼い主人公も物語的なリアリティを感じさせます。
それに、女の「骨」を楽しむ「大家さん」のような、ちょっとしたバイプレヤーもなかなか面白い。
好きなのは豚の足が登場する場面。
"家に入る前に、あたしはふっと道路の向こうを振りかえる。
夕日は黄色い。
解体工場で切り落とされた、豚の足がたくさん、ちゃんと四本で一頭分ずつ規則正しく、道路を歩いて夕日の奥に吸いこまれるように消えていくところを幻視する。夕日はあの世への入り口。何百頭もの豚たちが足だけになって昇天していく。あたしは目を細める。"
こういうところはなんとも言えず美しい。つまりこの作品の原色を塗りたくったようなドギツイ光景の中でこそオアシスのように美しく映ずる幻の風景です。こういうところは何箇所かあって、あ、いいなぁと思って読みました。
これで突っ走ってくれたらな、とずっと読みながら思っていたのです。この娘は『ブルックリン最終出口』(H.セルビーJr.)のトゥラララのように、どこかの都市の片隅の、ゴミ溜めのような所で、汚辱にまみれて死んでいくのだろうな、と。
ところが第二部にはいると怪しくなってきます。父親に引き取られてからの彼女は、父親に反抗してすねてみせる世間のありふれた娘たちと変わらなくなってしまうようです。
本当は前半で心身に仕込んだ憎悪や悲哀や絶望やの全重量を引きずっているはずなのに、その重さが後半の彼女の言動には正確に反映されていません。
作者はそれらしくみせかけようとしているけれど、唯一「弟」とのやりとりの中で、失われた双頭の兄弟が登場する場面くらいのもので、あとはちょっと不良っぽく突っ張っているだけの女の子に「成り上がって」しまって、全身全霊で拒むことも、徹底的に下降しつづけることもやめてしまったようにみえます。
そのへんから、読み手のこちらも、「まさか彼女が"もの書き"なんぞになって自分の前半生を物語に昇華して自己回復していきました」なんて馬鹿げた結末になるんじゃないだろうな、という悪い予感を覚え、ひそかに読み進むのを恐れ始めます。
そして、「最後は新人作家になりおおせて、直木賞をもらったのでした、メデタシメデタシ、で終わったりして!」という悪い冗談が脳裡をかすめ、その「まさか」の貧しい想像を自嘲しながら、おそるおそる読み進めます。
ところがです。ほんに恐ろしいことに、この馬鹿みたいな予感がだんだん現実になってくるではありませんか!嗚呼!ほんとに目を覆いたくなってきました。作者はなんてことをしてしまったのよ、と思いました。
突如お金持ちのパパというパトロンを得てゆとりのできた主人公が酒場で語ってきかせる物語が「面白い」とおだてる編集者などに囲まれて、彼女は作家修業に励むのです!
ところが、そこで実際に語られたという話の面白くないこと!
これを「面白い」という編集者が「凄腕の編集者」だと、作者は主人公の目を通し、語り手を通してほのめかしているのですが、たいていの読者は、「嘘ぉ?っ!」と声を揃えて言うでしょう。
あとに残るのは、作者が文壇の賞をもらって付き合い始めて、初めて知り、物珍しかったのかもしれない業界のつまらない内輪話、どこかの飲み屋でとぐろを巻いてグダグダ言い合って、そこに「文学」の片鱗なりと落ちているかのように錯覚している、そんな場所の風俗。
そして、「時の人」となってから、ほんとに作者が感じたかもしれない、「自分はハングリーだったはずなのに成り上がってしまったのかしら、いや、まだまだ」というような意外に純情な自問と韜晦・・・。
でもそれをこういうステキな(!)前半生を過ごした主人公に押し付けちゃまずいでしょう!
前半を読んでいるときは、これは、徹底的に痛めつけられ、この世の最も強力な毒という毒を、恍惚となるほどたっぷりと吸収し、心身に蓄積した人間が、「成長」するにつれてどう下降し、どう人生を壊していくかという、ビルドゥングス・ロマンを裏返してみせてくれるような過激な作品かと勝手に期待していたのですが、後半からは傷を負った主人公が小説を書くことで自分を克服して、周りの人に助けられて教養も身につけつつ成長していく涙ぐましいビルドゥングス・ロマンになってしまうのです。嗚呼!
もちろん普通のロマンと違って、さすがにそうわかりやすいハッピーエンドにはなっていないけれど、前半との落差は覆うべくもない印象でした。
原色で書きなぐった絵のような前半生をそのまま突き抜ければ、この作者が或いは隠し持っているかもしれない「祈り」の核心に届くような言葉が、後半紡ぎだされた可能性はあると思うのですが、そうなればエンターテインメントをも突き抜けてしまうのでしょう。少し残念な気がして読み終えました。
キャッチコピーに釣られて読んだわけでもないのですが、『私の男』を読んだ記憶では、たしか題材は好みではないけれど、筆は達者な、かなり書き込んだ作品だったので、手にとってこの2日間ほど、電車内の時間をつぶしました。
近親姦といい、さかりのついた血まみれの獣のような母子像といい、作者はこういうどぎついのがお好きなのでしょう。江戸時代の絵にもこういうおどろおどろしいのがありましたね。キッタハッタで生首が飛んで血しぶきが、というようなの。
ぐいぐい引っ張っていく筆力はあります。ほんとにリキがはいっています。ちょっと力みすぎじゃないでしょうか、と思うほどです。
このドギツサも計算づくだと思いたい。でも、その血しぶきが祈りにつながっていかないので、そうは思えないのが残念。
きっとこういう流血や暴力や性の露出がなければ、ほんものじゃないという思い込みが作者のどこかにあるのでしょうか。作者が命がけということと、登場人物が近頃ありふれていて週刊誌ネタにもならないリストカットみたいな自傷行為に走ることとは無関係だと思うのですが。
たぶん、現実の平穏な(或いはそうみえる)生活への違和感が作者にあって(たいていの作家はそうでしょうけれど)、それを主人公たちの憎悪(なによりも自身への、そして近親への、他者への)や悲嘆や世の中のルールへの無視・無関心あるいは越境になって表われるのでしょうが、よほどの力量でないと、深い悲しみをたたえるべきシーンが、ただどぎつい原色で塗りたくったこけおどしのポンチ絵に見え、滑稽にみえてしまうことさえあります。
でも、まだ「第一部」の「旅」、幼い主人公と母親との逃避行を描いた部分は、なかなか面白い。あの町、この町と逃れては住みつき、またいられなくなって逃げていく。それぞれの町や村でのエピソードの中には面白いシーンが沢山あります。
幼い娘の目で描かれる、壊れた美しい母親の姿は、血にまみれ、男の精液にまみれ、汚辱にまみれながらも魅力的だし、その母にいわゆるDVを受けながら、コバンザメみたいにくっついて離れず、ママに絶対服従で、自分をも他をも顧みない幼い主人公も物語的なリアリティを感じさせます。
それに、女の「骨」を楽しむ「大家さん」のような、ちょっとしたバイプレヤーもなかなか面白い。
好きなのは豚の足が登場する場面。
"家に入る前に、あたしはふっと道路の向こうを振りかえる。
夕日は黄色い。
解体工場で切り落とされた、豚の足がたくさん、ちゃんと四本で一頭分ずつ規則正しく、道路を歩いて夕日の奥に吸いこまれるように消えていくところを幻視する。夕日はあの世への入り口。何百頭もの豚たちが足だけになって昇天していく。あたしは目を細める。"
こういうところはなんとも言えず美しい。つまりこの作品の原色を塗りたくったようなドギツイ光景の中でこそオアシスのように美しく映ずる幻の風景です。こういうところは何箇所かあって、あ、いいなぁと思って読みました。
これで突っ走ってくれたらな、とずっと読みながら思っていたのです。この娘は『ブルックリン最終出口』(H.セルビーJr.)のトゥラララのように、どこかの都市の片隅の、ゴミ溜めのような所で、汚辱にまみれて死んでいくのだろうな、と。
ところが第二部にはいると怪しくなってきます。父親に引き取られてからの彼女は、父親に反抗してすねてみせる世間のありふれた娘たちと変わらなくなってしまうようです。
本当は前半で心身に仕込んだ憎悪や悲哀や絶望やの全重量を引きずっているはずなのに、その重さが後半の彼女の言動には正確に反映されていません。
作者はそれらしくみせかけようとしているけれど、唯一「弟」とのやりとりの中で、失われた双頭の兄弟が登場する場面くらいのもので、あとはちょっと不良っぽく突っ張っているだけの女の子に「成り上がって」しまって、全身全霊で拒むことも、徹底的に下降しつづけることもやめてしまったようにみえます。
そのへんから、読み手のこちらも、「まさか彼女が"もの書き"なんぞになって自分の前半生を物語に昇華して自己回復していきました」なんて馬鹿げた結末になるんじゃないだろうな、という悪い予感を覚え、ひそかに読み進むのを恐れ始めます。
そして、「最後は新人作家になりおおせて、直木賞をもらったのでした、メデタシメデタシ、で終わったりして!」という悪い冗談が脳裡をかすめ、その「まさか」の貧しい想像を自嘲しながら、おそるおそる読み進めます。
ところがです。ほんに恐ろしいことに、この馬鹿みたいな予感がだんだん現実になってくるではありませんか!嗚呼!ほんとに目を覆いたくなってきました。作者はなんてことをしてしまったのよ、と思いました。
突如お金持ちのパパというパトロンを得てゆとりのできた主人公が酒場で語ってきかせる物語が「面白い」とおだてる編集者などに囲まれて、彼女は作家修業に励むのです!
ところが、そこで実際に語られたという話の面白くないこと!
これを「面白い」という編集者が「凄腕の編集者」だと、作者は主人公の目を通し、語り手を通してほのめかしているのですが、たいていの読者は、「嘘ぉ?っ!」と声を揃えて言うでしょう。
あとに残るのは、作者が文壇の賞をもらって付き合い始めて、初めて知り、物珍しかったのかもしれない業界のつまらない内輪話、どこかの飲み屋でとぐろを巻いてグダグダ言い合って、そこに「文学」の片鱗なりと落ちているかのように錯覚している、そんな場所の風俗。
そして、「時の人」となってから、ほんとに作者が感じたかもしれない、「自分はハングリーだったはずなのに成り上がってしまったのかしら、いや、まだまだ」というような意外に純情な自問と韜晦・・・。
でもそれをこういうステキな(!)前半生を過ごした主人公に押し付けちゃまずいでしょう!
前半を読んでいるときは、これは、徹底的に痛めつけられ、この世の最も強力な毒という毒を、恍惚となるほどたっぷりと吸収し、心身に蓄積した人間が、「成長」するにつれてどう下降し、どう人生を壊していくかという、ビルドゥングス・ロマンを裏返してみせてくれるような過激な作品かと勝手に期待していたのですが、後半からは傷を負った主人公が小説を書くことで自分を克服して、周りの人に助けられて教養も身につけつつ成長していく涙ぐましいビルドゥングス・ロマンになってしまうのです。嗚呼!
もちろん普通のロマンと違って、さすがにそうわかりやすいハッピーエンドにはなっていないけれど、前半との落差は覆うべくもない印象でした。
原色で書きなぐった絵のような前半生をそのまま突き抜ければ、この作者が或いは隠し持っているかもしれない「祈り」の核心に届くような言葉が、後半紡ぎだされた可能性はあると思うのですが、そうなればエンターテインメントをも突き抜けてしまうのでしょう。少し残念な気がして読み終えました。
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