2008年03月29日
「告白」(町田康)
町田康の作品はこれまでいくつか手にとったけれど、相性が悪いのかあまり読み進められなかったり、読んでもさほど印象に残っていなかった。
文庫本になったのを機会に、少々分厚い(842ページ)けれども、春休みでもあるし、車中でなくても読む時間はあるわい、と孫の昼寝の合間につなぎ読みするつもりで買ったところ、この作品は一旦読み出すと止まらなかった。
"The king died and then the queen died" というのが「物語」。"The king died and then the queen died of grief" が「プロット」。・・・とE.M.Forsterが"Aspects of the Novel"の中で書いているけれど、この最も単純な、時間的な順序によって、次になにが起きるかを語っていく、「物語」の原形。そのつなぎの面白さ、シーンの選択と転換の面白さ、子供を寝かせつけようとしてアドリブで奇想天外な物語を紡ぎだしていくとき生成されるようなお話。千夜一夜物語。
試しに途中からでも読んでみるといい。河内言葉の面白さにつられ、主人公の自意識過剰なかったるい心理の動きもある種のとぼけた味になって面白く、次は、その次は、と先へ先へ否応なく引かれていく。並みの語りではない。真っ先に連想したのは、「ロマネスク」の太宰治だった。
ずっと愛読書で手元から離したことの無かった太宰の初々しい初期の作品集『晩年』の中でも、明るくて面白くてサービス精神満点の「ロマネスク」は「魚服記」などと並んで偏愛する作品だった。(いま手元からなくなっていることを知って愕然!どこへ行ってしまったのだろう!)
中でもとりわけ、ひそかに喧嘩のトレーニングをしてめっぽう強くなったはいいが、結果的にそのせいで新妻を殺めてしまう哀しくも滑稽な男・喧嘩次郎兵衛の話は一番好きな作品だった。
「告白」の熊太郎はどこか次郎兵衛と似ているが、それよりも文体の響きが似ている。リズムがあのロマネスクのリズムだ。そのはるか向こうには落語の語りのリズムがあるのかもしれない。真似るというようなレベルではなくて、そんな深い響き合いを感じる。
町田康という作家のことは全然知らないのだけれど、きっと太宰が好きに違いない。このリズム、この文体は太宰の骨がらみの影響なしには考えられない、と何の実証もなく、太宰ファンの直観が教えてくれる。これは河内音頭で歌われた「ロマネスク」なのに違いない。
冒頭から、「熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。/父母の寵愛を一心に受けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。」と来たまではいいが、つづいて「あかんではないか。」といきなり語り手の判断が顔を出す。
これは全編にわたってこの調子だ。そして主人公の熊太郎はこの語り手と同様の「思弁」癖がある。いわゆる「自意識過剰」というやつで、これも太宰そのものだと言えば言える。河内の百姓の倅にして、近代日本知識人が陥った自意識のドツボにはまっている。そのために胸中の思いと言動とが常にちぐはぐで、周囲から誤解されている(と思っている)。そしてまた、そのちぐはぐさが彼を彼以外の何者でもない者にしていく。
近代日本の作家は吉本さんのいう「文学体」でもってこの自意識と悪戦苦闘するのだけれど、「話体」でもってこれに挑戦するのは、或る意味では自己矛盾みたいなものだろうから、甚だ珍しいのではないか。だから読者の私の連想の中で、太宰とパッとつながってしまう。
この作品は谷崎潤一郎賞を受賞したそうだけれど、「太宰治賞」の間違いじゃないの、と言いたくなるような作品。同じ徹底した「話体」でも下降線を辿って世界と戯れる谷崎とは正反対の、世界と抗いながら凝縮し上昇していくベクトルの話体。ときどきエアポケットに入るように語り手の地の判断が顔を出すところにその文体の特徴があらわれる。
最後に自意識の罠を断ち切ろうとする熊太郎、怒涛の殺戮。このクライマックスも素晴らしい。「ロマネスク」は超短編でもっと読みたいという不満が残るけれど、この作品はボリュームたっぷり、あの「ロマネスク」の可笑しみと苦味と哀しみの入り混じった語りの面白さと疾走感を存分に味あわせてくれる。
文庫本になったのを機会に、少々分厚い(842ページ)けれども、春休みでもあるし、車中でなくても読む時間はあるわい、と孫の昼寝の合間につなぎ読みするつもりで買ったところ、この作品は一旦読み出すと止まらなかった。
"The king died and then the queen died" というのが「物語」。"The king died and then the queen died of grief" が「プロット」。・・・とE.M.Forsterが"Aspects of the Novel"の中で書いているけれど、この最も単純な、時間的な順序によって、次になにが起きるかを語っていく、「物語」の原形。そのつなぎの面白さ、シーンの選択と転換の面白さ、子供を寝かせつけようとしてアドリブで奇想天外な物語を紡ぎだしていくとき生成されるようなお話。千夜一夜物語。
試しに途中からでも読んでみるといい。河内言葉の面白さにつられ、主人公の自意識過剰なかったるい心理の動きもある種のとぼけた味になって面白く、次は、その次は、と先へ先へ否応なく引かれていく。並みの語りではない。真っ先に連想したのは、「ロマネスク」の太宰治だった。
ずっと愛読書で手元から離したことの無かった太宰の初々しい初期の作品集『晩年』の中でも、明るくて面白くてサービス精神満点の「ロマネスク」は「魚服記」などと並んで偏愛する作品だった。(いま手元からなくなっていることを知って愕然!どこへ行ってしまったのだろう!)
中でもとりわけ、ひそかに喧嘩のトレーニングをしてめっぽう強くなったはいいが、結果的にそのせいで新妻を殺めてしまう哀しくも滑稽な男・喧嘩次郎兵衛の話は一番好きな作品だった。
「告白」の熊太郎はどこか次郎兵衛と似ているが、それよりも文体の響きが似ている。リズムがあのロマネスクのリズムだ。そのはるか向こうには落語の語りのリズムがあるのかもしれない。真似るというようなレベルではなくて、そんな深い響き合いを感じる。
町田康という作家のことは全然知らないのだけれど、きっと太宰が好きに違いない。このリズム、この文体は太宰の骨がらみの影響なしには考えられない、と何の実証もなく、太宰ファンの直観が教えてくれる。これは河内音頭で歌われた「ロマネスク」なのに違いない。
冒頭から、「熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。/父母の寵愛を一心に受けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。」と来たまではいいが、つづいて「あかんではないか。」といきなり語り手の判断が顔を出す。
これは全編にわたってこの調子だ。そして主人公の熊太郎はこの語り手と同様の「思弁」癖がある。いわゆる「自意識過剰」というやつで、これも太宰そのものだと言えば言える。河内の百姓の倅にして、近代日本知識人が陥った自意識のドツボにはまっている。そのために胸中の思いと言動とが常にちぐはぐで、周囲から誤解されている(と思っている)。そしてまた、そのちぐはぐさが彼を彼以外の何者でもない者にしていく。
近代日本の作家は吉本さんのいう「文学体」でもってこの自意識と悪戦苦闘するのだけれど、「話体」でもってこれに挑戦するのは、或る意味では自己矛盾みたいなものだろうから、甚だ珍しいのではないか。だから読者の私の連想の中で、太宰とパッとつながってしまう。
この作品は谷崎潤一郎賞を受賞したそうだけれど、「太宰治賞」の間違いじゃないの、と言いたくなるような作品。同じ徹底した「話体」でも下降線を辿って世界と戯れる谷崎とは正反対の、世界と抗いながら凝縮し上昇していくベクトルの話体。ときどきエアポケットに入るように語り手の地の判断が顔を出すところにその文体の特徴があらわれる。
最後に自意識の罠を断ち切ろうとする熊太郎、怒涛の殺戮。このクライマックスも素晴らしい。「ロマネスク」は超短編でもっと読みたいという不満が残るけれど、この作品はボリュームたっぷり、あの「ロマネスク」の可笑しみと苦味と哀しみの入り混じった語りの面白さと疾走感を存分に味あわせてくれる。
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