2008年03月26日

「ノーカントリー」〈映画と原作)

〈映画の内容についてネタバレがあるので、未見の方はご用心)

 意味不明の邦題だが、もとのタイトルは原作も映画も"No Country for Old Men"(老人たちの国じゃない≒老人たちが住める場所じゃない、くらいの意味かな?)。アイルランドの詩人イェーツの"Sailing to Byzantium"(ビザンチウムへの航海)の冒頭"That is no country for old men."からの引用だそうです。

 イェーツの詩は彼が私の今の年齢と同じくらい、老人になってからの作品で、冒頭のthatは祖国アイルランドを暗に指して、「あれは老人たちが住める国じゃない」くらいの意味になるのでしょうか。

 若い者たちはみな腕をとりあって樹々の梢で歌う鳥のように官能的な歌に溺れ、滝を登る鮭や海に群れる鱒のようにむせかえるような生と死の饗宴を謳歌して、老いることのない知性の記念碑をないがしろにしている。・・・

 そんな意味合いの詞章を引用したタイトルだから、トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官ベルの「昔はこうだった、それにひきかえ今の若い者は・・」的なぼやきを枠組みにして、その「今」を一種不条理な追跡と連続的な血生臭い殺人の繰り展げられる現在進行形の物語で示す、というだけの映画かな、と思うと、これがそうでもありません。

 たしかに映画では、俳優が悪いわけではないのだけれど、この保安官のぼやきが、原作ほどの存在感を持たず、現在進行形の物語に保安官自身が関わる度合いも浅いので、物語の外部からとってつけた枠組みのように思えてしまうきらいがないでもありません。

 しかし、原作ではこの保安官の独白や会話が現在進行形の物語と同じくらい(とまではいかないまでも)大きな比重を持ち、最後に近いところで、彼がベトナム戦争で仲間を置き去りにして逃亡した過去を持つことが明かされます。

 だからといって、原作も映画も、ベトナム帰還兵たるこの保安官のそうしたトラウマを主軸にした物語というわけではないし、同じくベトナム帰還兵であるルウェリン(この物語を転がしていく狂言まわしという意味での主役)がベトナム帰還兵である、ということは、この映画にとっても小説にとっても本質的な意味を持っていないと思います。

 また、老保安官ベルの目で、「血と暴力の国」(邦訳の乱暴なタイトル)になってしまった現在のアメリカの状況をぼやく、というだけの作品でもないでしょう。(そういう見方にお誂えむきのぼやきは原作のベルの独白にありますが。)

 むしろ戦争中のできごとにせよ、戦後の日常の中で生じることにせよ、人生そのものの成り立ちに、この作品の根源的な関心は向かっているようだと、私には思われました。

 映画で主役(仮にルウェリンが「主役」だとして)を食って圧倒的な存在感を示しているのは、ルウェリンを執拗に追い詰める殺し屋のシュガー(映画では「シガー」)です。

 この殺し屋は怖いけれども、よくあるようなプロフェッショナルな殺し屋の職業的な冷酷さ、非情さ、というのでもなく、また性格異常者の生理的な残虐嗜好とか、精神を病んだ犯罪者の固着した狂気の思い込みとかいうものとも違っています。

 殺し屋シュガーにとって、殺人は厳格な「ルール」に基づくものですが、それが通常の職業的な殺し屋がそれぞれ持っている我流のルールと違うところは、自分の獲物にコインの表裏で運命を自ら決めさせるような確率論的な考え方をするところではないでしょうか。

 たとえば、殺し屋を始末しに来て逆に殺されるウェンデルというヤサ男とシュガーとの最後の会話や、ルウェリンの妻とシュガーが交わす会話のシーンがそれをよく表わしているように思います。(ついでながら、ウェンデルがホテルへ帰って階段を途中まで上がったところで、後ろにすっとシュガーの姿が現われるシーンは、ぞくっとさせられて、なかなか良かった。)

 そして、そういう殺し屋だからこそ、最初のほうで出てくる、ガソリンスタンドの店のおやじとシュガーの交わす会話の場面、コインを出して、シュガーが「表か裏か」と訊く、普通なら何でもないエピソードが、おそろしくスリリングな迫力満点のシーンになっています。ここが私の一番好きなシーンです。

 この映画〈原作の小説も)は、ルウェリンが狩りの途中で偶然、麻薬取引のトラブルで殺しあって死体が転がっている現場で大金をみつけ、拾って帰ったはよいが、そのときまだ息があって彼に水を求めた男のことが脳裡に浮かんで、真夜中になって、よせばいいのに、もう一度現場へ出かけていくところから始まります。男の運命もこの映画も、この偶然と、そこへほんのちょっと、自分でも馬鹿なことをしているな、と思いながら余計なことをしてしまう、この男の「意志」からスタートしています。

 あとは一本道。ルウェリンはなんとかこの一本道から逃れようとし、抗うのですが、一旦敷かれた運命の一本道はもう如何ともしがたく、あとは坂道を転げ落ちるようにその道をひた走りに走り、来るべき最後を迎えるまで立ち止まることができません。

 シュガーがいま殺そうとする相手に、「俺(わたし)を殺す意味なんかないじゃないか」と言われて、言い返す言葉は、いつも「おまえがコインの表か裏かを選んだんじゃないか」という意味のことです。

 この殺し屋の怖さは、この表か裏かの軽いゲーム、だけどそのあとにつづく逃れようのない一本道とセットの選択を迫るシーンに集約されています。何でもない賭けに続く一本道の怖さ。

 あのときこうしていれば、あのときあんなことをしさえしなければ、と思うことは、私たち平凡な人生を送る者にとってもありふれた経験ではないでしょうか。

 そういう意味では、私たちはいつもルウェリンと同じように、よせばいいのにちょっと余計なことをしてしまわずにはいられない存在です。はじめにちょっとボタンを掛け違えてその後の人生をパーにしてしまうようなね。あとは地獄の一本道。わかっちゃいるけど、人生とはそういうものだよ、と目の前にまざまざと見せつけられると、私たちは目をそむけたくなります。

 私たちの大切な人生がそんな、ちょっとした過ちで、ちょっとしたボタンの掛け違いで「狂って」しまっていいものか!私たちにはもっと沢山の選択肢があって、しっかりした根拠を持ってよりよい人生を選んだいけるはずではないのか。私たちの多くは、自分の人生の基礎の不在に正面から向き合うほどの度胸がないのでしょう。

 生きる以上、私たちは自分たちの生の基礎がしっかりしていると思いたい。私たちのいまある生活は、幾分かの偶然も織り交ぜがながらではあっても、かくかくしかじか、そうあるべくして成った必然的な成り行きの結果であり、その生には意味があり、人とのかかわりにも出来事にも意味があり、周囲の人々の行動にもしかるべき意味があるのだ、と思いたい。そして、そうした意味の集合を自分なりの人生観、世界観として、安定した秩序に組み立てて暮らしているものではないでしょうか。

 でもその拠って立つ基礎が不在で、たんに私たちがコインの表か裏を選ぶようにふと選んでしまったのだとすれば・・・そして、あとはもう私たちに指一本触れることもできない一本道だとすれば・・・

 殺し屋シュガーに感じる怖さは、どこか私たち自身の生の脆さ、不確かさを眼前に突きつけられる怖さと通じているのではないでしょうか。私たちはルウェリンに寄り添って逃げながら、自分がほんのちょっとした手違いで「選んでしまった」自分の人生に抗いながらも否応なくその一本道をなぞって、抗えば抗うほど袋小路に追い詰められていく恐怖とある種の滑稽さを感じます。それがシュガーという、凄みがあるけれど、どこかとぼけた可笑しみのある殺し屋に形象化されているような気がします。

 保安官のぼやきの意味も、ベトナム戦争の逃亡者としてのトラウマではなく、むしろそのほんのちょっとしたボタンの掛け違えの強いる一本道をずっと歩いて来ざるを得なかった保安官の、いま現在の生を強いられている状況が、現在進行形のクライムストーリーの示すものと通底するところに、この作品の奥行きがあるのだと言えるのではないでしょうか。

at 13:17│
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