2008年03月24日

「Sweet Rain 死神の精度」(筧昌也・監督)

 伊坂幸太郎の原作は彼の作品の中ではいい方だとは思わないけれど、リアリズムではない工夫のある小説で、仕掛け倒れに終わらずに、人生の奥行きを見せてくれるまじめな作風に好感を持っていて、「死神の精度」も成功しているとは思わないけれど、それなりに面白く読んだ。

 だからこれを映画に作るのはなかなか難しかろうに、どういう工夫があるかな、という関心で観客十数人しかいない劇場へ入って、ストレートティーとプレーン・ドーナツを食べながら見た。

 はしょって結論を言うと、期待したような工夫のある映画ではなかった。原作をただ実写映像に起こせばいい、というベタな映画だった。「恋する惑星」の金城武や、テレビドラマの「オレンジデイズ」以来、いい女優だな、と思っている小西真奈美や、あのお竜さんがこんないい演技をするようになったんだと思っていつも感心している富司純子など贅沢なキャスティングを組みながら、これはないだろう、と思う。

 死神が人々が想像するようなおどろおどろしい姿形をしていない、という意外性も、人間の世界にまだ無知な死神が会話の中で同音異義語をとんちんかんな受け止め方をするおかしさは、原作でも必ずしもうまくいっていないけれど、それをわざわざベタに映像化したら、もっと見ていられない。

 金城武はキライな俳優ではないけれど、「どこか現実離れした」新しいタイプの死神を創造するには至らない。だから中途半端なちぐはぐさが観る者を苛立たせ、原作ではまだ感じられた荒唐無稽な設定の中での伊坂幸太郎らしい、ある種のとぼけた可笑しみが伝わってこない。

 でも、この作品は本当はもっと観るものの心を揺り動かすような作品になりえたはずなのだ。それが伊坂幸太郎の作品の核心にいつもあるメッセージで、映画ではそれがわずかに小西真奈美が富司純子になってそのあいだの彼女の人生が観る者の胸に一挙に迫ってくる瞬間に垣間見えるのだけれど、残念ながら富司純子の語りだけでそれを伝えようったって、それは無理というものだ。

 それまでの仕掛けが十分にできていないから、なんだか芸のない種明かしのようにしか見えない。そこが後半で人物が同定されてから一挙に万感胸に迫る感じのある「アヒルと鴨のコインロッカー」との決定的な違いだ。

 やっぱり脚本の段階で、原作を読み抜き、読み破って、同じものとは思えないほど映像として消化(昇華)された作品に創らないと、この原作の映像化は無理だ。原作と映画との関係について、基本的な考え方に問題があるとしか思えない。

 「野ブタ。をプロデュース」のあの原作を主人公を女性にして原作をしのぐ創造的なテレビドラマを作り上げてしまったプロデューサーのような人が監督をしないと、この原作をいい映画にするのは難しいかもれない。

 

at 23:26│
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