2008年03月24日

「オリオン座からの招待状」(三枝健起・監督)

 いい映画だと聞いていたけれど、見損ねていたのを、たまたまぽっかりあいた日曜日、雨の夕暮れどき、パートナーと祇園会館へ出かけた。

 はいって左手には古い大型の映写機が、場内へ入ると、ここは花道のある劇場なのだ。両サイドの桟敷だったところにも椅子が入っていて、館内はがら空きなのに、わざわざそこに坐っている客が何人もある。桟敷席の気分を味わいたいのだろう。

 客層がいい。居眠りしているお爺さん、老夫婦、荷物をかかえたおばあさん、年輩の主婦らしい二人連れ、三十代くらいの女性一人客、若いカップル、職種不明といった感じの中年男性・・・人数は少ないけれど、どこの映画館より客層が広いのではないか。

 1000円二本立て。予告編も携帯や盗撮への警告もなく、いきなり本編の始まる潔さ。そしてなにより、今日のこの映画をみるのに、これ以上ふさわしい映画館は京都にはない。

 舞台は京都、時はようやく日本が戦争の荒廃から立ち直ろうとしていた昭和30年代半ば、私の思春期と重なる。老舗の映画館を宇崎竜童と宮沢りえが演じる松蔵・トヨ夫婦で経営しているところへ、加瀬亮演じる17歳の青年留吉が転がり込んでくるところから物語の本体が始まる。
 
 松蔵が先立ち、テレビ時代の幕開けもあって、劇場の運営は危機に瀕するが、トヨを支える留吉の献身的な働きで「オリオン座」は映画館衰退の時代を生き延びる。

 美しい未亡人と青年を見る町の人々の目は厳しい。そんな中で純愛を貫く二人を、加瀬亮と宮沢りえが見事に演じていて、これは泣かずにいられない。

 宮沢りえは綺麗なだけでなく、ほんとうにいい女優になった。加瀬亮は本当にうまい。京都弁も実に自然で、違和感がなかった。

 ひとことで内容を言うなら、作品中に繰り返し登場して意図的に重ね合わされている「無法松の一生」の抑制された献身的な純愛と、ジュゼッペ・トルトナーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」の映画〈館)への愛を合わせたような映画だと言えば腑に落ちるかもしれない。

 もっとも、「ニュー・シネマ・パラダイス」には圧倒的なユーモアがあり、地方を出て知的上昇を遂げていく知識人の、ビルドゥングス・ロマンと裏腹な後ろめたさと郷愁のないまぜになったペーソスのようなものが基調にあったけれども、こちらはいかにも日本的な「世間」という人間関係の抑圧的でウェットな土壌に、日陰にひっそりと咲く花の可憐さに観客は涙するしかない、というところ、ずいぶん様相が異なるけれども。

 先に「物語の本体がここで始まる」という言い方をしたのは、実は映画そのものは、オリオン座で遊ばせてもらった幼い二人の子供(田口トモロヲと樋口可南子)がいま離婚の瀬戸際にある夫婦で、この二人がオリオン座からの招待状を受け取るところから始まって、最後は招待客の前で、閉館にあたり最後に「無法松の一生」を上映する留吉と、その腕に抱かれて死んでいくトヨのシーンで終わる。

 でも、私自身は、はたして老後の留吉(原田芳雄)とトヨ(中原ひとみ)を登場させ、また二人の子供(樋口可南子、田口トモロヲ)を登場させて、現在の時間で過去の物語を入れ子にする必要があったのかどうか、甚だ疑問に思う。

 過去の時間をそのまま現在として、リアルタイムで描いていって、十分に感動的な物語になったのではないか。いや、そのほうがずっと純粋でテンションの高い作品になったのではないか、という思いが拭えない。

 もちろん三枝監督にも制作スタッフたちにも、映画への熱い思い、映画館への熱い思いがあって、それをこそ描きたかったのだろうけれど、それにしても、せめて最後に原田芳雄が観客の前で長々とオリオン座閉館にいたる経緯や思いを語るシーンくらいは潔くカットしてほしかった。

 あれはみなこの映画を観ている観客は分かっていることだし、あんなふうに「説明」されると、せっかくの涙が乾いてしまう。

 蚊帳の中に蛍を放つシーンは、源氏物語以来、何度も日本の物語の中で繰り返されてきたシーンではあろうけれど、この映画の中でも最も美しいシーンの一つだった。できればあのへんでうまく終わってほしかった。

 映画は監督だけでなく、たくさんの人が作るものだけれど、スタッフはみんな、この映画の「現在」の部分を蛇足だとは感じなかったのだろうか。

 それと、不満を言えば、「無法松の一生」との重ね合わせは、気持ちは分かるけれど、みえすいていて、あざとい印象のほうが強い。「無法松の一生」の映像もタイトルも、一度だって出さなくても、この映画を観れば、必ず思い浮かべるはずだし、阪妻のあの映画を観ていない若い人にも、二人の「思い」は伝わるはずだ。

 作り手も、少しは観客の想像力を信用しないと、せっかく感じていることをこれでもか、これでもか、とあざとく説明されると、ちょっとうんざりする。

 あと、揚げ足取りに過ぎないけれど、京都に住んでいる者からすると、何度も出てくる河川敷を自転車で走ったりするシーンがあるけれど、堀川ならまだしも、どうして賀茂川が登場するのか、位置関係から腑に落ちない。

 それと、原作がそうなっているのかどうか知らないけれど、なぜ京都で茄子を出すのに泉州の「水茄子」なのかも分からない。京都弁が自然だっただけに、監修者がいなかったのだろうか、と思った。
 
 でも、いい映画を見せてもらったな、という気持ちで映画館を出ることができた。

 もう一本の「しゃべれども しゃべれども」(平山秀幸監督作品)のほうも、なかなか面白かった。少し構成がゆるくて、冗長なところはあるけれども、まじめな映画づくりをしている。

 会話が苦手でいつも無表情で口を開けば怒っているようにしかみえない、若い女性十河五月を演じた香里奈は、難しい役だったけれど、よくがんばっていて、なかなか良かった。子役の森永悠希は実に達者だったし、国分太一もほんとうに器用なタレントだなぁと感心させられた。松重豊も含めて、落語教室の三人の弟子の取り合わせが面白かった。

 そして、この映画は脇役の八千草薫や伊藤四朗がしっかり脇を固めていて、少しゆるい映画をしっかり締めている。二人とも何十年も前から好きな役者だ。

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