2007年10月25日
葬送 5
「葬送」を読んでいると、しばしば、ドラクロワやショパンが作者に憑いたとしか思えないような箇所にゆきあたる。これは作家の「巧さ」いわゆる技巧の範囲を超えている。
小説技術とか技巧といった言い方は、それを使いこなす「作者」しか見ていない。ある若い作家が古めかしい「モダニズム」(形容矛盾だけれど)風のケレン味たっぷりの文体の「小説」を書いて、ちょっとほめられたせいか「文体なんてどうにでも書ける」とエッセイで書いているのを読んだことがある。はは、この人にとって「文体」ってそんなもんなんだ、と呆れながら読んだ記憶がある。
小説なんて所詮そういうものだ、と思えば、もちまえの「技術」で「技巧」をこらした「文体」を自由自在に使い分けることのできる「作者」という虚像を信じることもできるのだろう。
でも『葬送』という作品を読む読者の前にあらわれれるのは、そういう「作者」ではない。言ってみればショパンやドラクロワの内面の声が直接聞こえてくる。もちろん私たちはこれが一人の作家が書いた小説であることを知っているので、もう少し正確に?言えば、彼らの霊が現れる。作者は恐山の巫女にすぎない。
第二次大戦後の、科学的合理主義万能の教育を受けてきたせいか、私の場合、テレビのワイドショウみたいなのに登場する類の超自然現象なるものは頭から信じていないし、「・・・かもしれない」とか「絶対無いとはいえない」とかさえ思わない。科学がいま説明できないことは無限にあるけれども、だからといって非合理的・非科学的な説明を受け入れる気にはなれない。
けれども、恐山の巫女のような存在や現象については、近頃テレビの人気者になっているようないかがわしい「占い師」などとは全く別の、ある根拠をもった存在であり、現象であると考えている。
そして、ホンモノの作家というのは多かれ少なかれ、恐山の巫女のような、シャーマン的な資質を持った者なのだろうと思う。『葬送』のような作品を読んで、そこから聴こえてくるショパンやドラクロワの声を聴くと、そう思わざるをえない。
こういうことは神秘的な現象でも非合理な現象でもなくて、私たちの現代の日常の中にもけっこう見られることだと思う。例えばすぐれた俳優のみごとな演技の中に、私たちはそういう資質を見ないだろうか?
鬼気迫る演技というのがあるけれど、本当に見ていて、役柄の人物が乗り移ったとしか思えないような迫真の演技に息を呑むことは、そう稀な体験ではない。
私は記憶力が悪いから、俳優さんが分厚い脚本を全部おぼえ、登場人物の長広舌を数度読んだだけですらすら言えるようになる、という話を聞くと、それだけでなにか超能力者を見るような気がする。
もちろん長年の訓練や慣れということも大いにあるには違いないし、それなしにはそういう奇跡も起こらないことは確かなのだろうけれど、どうもそれだけではないような気がする。
ショーン・コネリーとか、アンソニー・ホプキンスとか、ダスティ・ホフマンとか、ロバード・デニーロとか、日本で言うと誰だろう・・・大竹しのぶとか小林薫とか、あぁ二宮君なんかもそういう資質があるかな。
見ていてほんとに憎らしいくらい巧い、と感じる。そして巧いを通り越して、こりゃ役柄の人間に憑かれたな、としか思えないようなときがある。昔、大竹しのぶがトーク番組に出て、自分は脚本を読んで科白を言う段になったらすぐに心身ともその人物になりきれる、というようなことを言っていた。科白を暗記するというようなことではなくて、それがもう読んだ瞬間に自分=その人物の言葉として口から出てくるらしい。ああいうのは、現代のシャーマンなんでしょうね。
そういう意味では、私たちのまわりにいっぱいシャーマンがいて、しじゅう過去の亡霊を呼び出してもらっては、そういう亡霊たちと生きているように対話し、その振る舞いを目の当たりにしながら、過去と現在の入り混じった時空に生きているのかもしれません。
もちろん、そんな亡霊たちの憑依に自らの心身をあけわたすホンモノの俳優や作家たちは、いつも自分自身の心身をすり減らすようなトレーニングを繰り返し、うまく憑依したときには自分たちの心身が空っぽになって、あとには荒廃しか残らないようなすさまじい経験を繰り返しているに違いないのでしょうが・・・
小説技術とか技巧といった言い方は、それを使いこなす「作者」しか見ていない。ある若い作家が古めかしい「モダニズム」(形容矛盾だけれど)風のケレン味たっぷりの文体の「小説」を書いて、ちょっとほめられたせいか「文体なんてどうにでも書ける」とエッセイで書いているのを読んだことがある。はは、この人にとって「文体」ってそんなもんなんだ、と呆れながら読んだ記憶がある。
小説なんて所詮そういうものだ、と思えば、もちまえの「技術」で「技巧」をこらした「文体」を自由自在に使い分けることのできる「作者」という虚像を信じることもできるのだろう。
でも『葬送』という作品を読む読者の前にあらわれれるのは、そういう「作者」ではない。言ってみればショパンやドラクロワの内面の声が直接聞こえてくる。もちろん私たちはこれが一人の作家が書いた小説であることを知っているので、もう少し正確に?言えば、彼らの霊が現れる。作者は恐山の巫女にすぎない。
第二次大戦後の、科学的合理主義万能の教育を受けてきたせいか、私の場合、テレビのワイドショウみたいなのに登場する類の超自然現象なるものは頭から信じていないし、「・・・かもしれない」とか「絶対無いとはいえない」とかさえ思わない。科学がいま説明できないことは無限にあるけれども、だからといって非合理的・非科学的な説明を受け入れる気にはなれない。
けれども、恐山の巫女のような存在や現象については、近頃テレビの人気者になっているようないかがわしい「占い師」などとは全く別の、ある根拠をもった存在であり、現象であると考えている。
そして、ホンモノの作家というのは多かれ少なかれ、恐山の巫女のような、シャーマン的な資質を持った者なのだろうと思う。『葬送』のような作品を読んで、そこから聴こえてくるショパンやドラクロワの声を聴くと、そう思わざるをえない。
こういうことは神秘的な現象でも非合理な現象でもなくて、私たちの現代の日常の中にもけっこう見られることだと思う。例えばすぐれた俳優のみごとな演技の中に、私たちはそういう資質を見ないだろうか?
鬼気迫る演技というのがあるけれど、本当に見ていて、役柄の人物が乗り移ったとしか思えないような迫真の演技に息を呑むことは、そう稀な体験ではない。
私は記憶力が悪いから、俳優さんが分厚い脚本を全部おぼえ、登場人物の長広舌を数度読んだだけですらすら言えるようになる、という話を聞くと、それだけでなにか超能力者を見るような気がする。
もちろん長年の訓練や慣れということも大いにあるには違いないし、それなしにはそういう奇跡も起こらないことは確かなのだろうけれど、どうもそれだけではないような気がする。
ショーン・コネリーとか、アンソニー・ホプキンスとか、ダスティ・ホフマンとか、ロバード・デニーロとか、日本で言うと誰だろう・・・大竹しのぶとか小林薫とか、あぁ二宮君なんかもそういう資質があるかな。
見ていてほんとに憎らしいくらい巧い、と感じる。そして巧いを通り越して、こりゃ役柄の人間に憑かれたな、としか思えないようなときがある。昔、大竹しのぶがトーク番組に出て、自分は脚本を読んで科白を言う段になったらすぐに心身ともその人物になりきれる、というようなことを言っていた。科白を暗記するというようなことではなくて、それがもう読んだ瞬間に自分=その人物の言葉として口から出てくるらしい。ああいうのは、現代のシャーマンなんでしょうね。
そういう意味では、私たちのまわりにいっぱいシャーマンがいて、しじゅう過去の亡霊を呼び出してもらっては、そういう亡霊たちと生きているように対話し、その振る舞いを目の当たりにしながら、過去と現在の入り混じった時空に生きているのかもしれません。
もちろん、そんな亡霊たちの憑依に自らの心身をあけわたすホンモノの俳優や作家たちは、いつも自分自身の心身をすり減らすようなトレーニングを繰り返し、うまく憑依したときには自分たちの心身が空っぽになって、あとには荒廃しか残らないようなすさまじい経験を繰り返しているに違いないのでしょうが・・・
at 11:28│