2007年10月25日

葬送 4

 第二部の前半(文庫本3冊目)を読み終える。目のまわるような仕事の山に追われ、机に積み上げられて点検を待つレポートの山にプレッシャーを感じながらも、それらから逃れるように車中往復4時間半、「葬送」の世界に没頭できるのは幸せだ。

 親友の奥さんであるヴィヨ夫人に語るドラクロワの言葉、天才の内面をここまでかいくぐることのできる作家の力量にはほとほと感動する。ついに搾り出すように吐かれる言葉「・・・僕という人間を生きることは、・・・僕には荷が重過ぎるのです。・・・・」しかも、そう呟いた途端、彼はただちに後悔を感じるのだ。

 そして、ピエレの自宅に招かれた夜のドラクロア。グロについて論文を書くというドラクロアの、自分とグロとの関わりを通して語るそれ自体興味深い芸術論を堪能したかと思うと、ヴィヨのことでニ、三さりげない会話をかわした帰り際、最後の別れの挨拶をして振り返ったところで彼は「ピエレに肩を二回強く叩かれた。そのときになって彼は初めて今日の宴の催されたことの意味を理解したのだった。」!!この心憎い終わり方はどうだ!本当に作家の語りの見事さに舌を巻く。

 読者はこの第二部の前半だけでも、ここに活写されるドラクロアやショパンを媒介に、友情論や天才論や「芸術と政治」論等々、様々な興味深い論点を引き出して、議論しあうことができるだろう。それに耐えるテキストとしての豊かな多義性を備えた作品だ。

 例外的な力量をもつ作家の作品でなければ、芸術観であれ人生観であれ世界観であれ、作中人物がえんえんと理念を主張したり、抽象的な議論をかわすような作品というのは、理屈っぽくて、作中人物に血が通っているように感じられないものだけれど、この作品ではむしろそういう部分に作中人物の感性が裏打ちされた生々しさがあって、ワクワクするような感動がある。疑いもなく「例外的な作品」だ。

 二月革命の渦中を生きる登場人物たちの内面を通して、その時代と現代とが二重映しに人物たちの背後に鮮明に浮かび上がってくる。この二重の志向性を持ったアンテナも見事なもので、歴史の浅はかな現代的解釈などではなく、作者はショパンやドラクロアに成り切って私たちにとって異国の160年ほども前の世界に全身全霊で飛び込んでいるけれども、それを読んでいる私たちには作者が単身そこを泳ぎきって私たちの生きているこの時代の岸へ戻ってくることが確かに信じられる。

 もしも作品がもっと「現代風」であったら、私たちはそうは感じないに違いない。妙に浅はかな現代の虚像をちらちら見せられるだけだろう。ところがこの作家はそんなものには目もくれずに、「あの時代」に飛び込んでいく。どうやって、どこから「この時代」へ帰ってくるのかは分らないし、そんなことはおくびにも出さないけれど、だからこそ彼が泳ぎきって彼岸から此岸へ帰ってくることが信じられる。読者が彼とともに全く新たな此岸の光景を見るためには彼とともに「あの時代」を生きて泳ぎきるほかはない。

 これだけ深く多元的な個人の内面をワクワクするような生々しさでくぐりながら、また同時にそれら個人の群像の置かれた状況をその背後の構造にまで届くほどの奥行きをもって描き切る社会性を備え、堅固な骨格を備えたバルザックやスタンダールのような小説は日本では稀有だったのではないか。(退屈な「全体小説」はあったけれど)

 こんな作品を3年間も見過ごしていたのは本当にもったいないことをした。やっぱり怠け者の食わず嫌いは結局のところ損をする(笑)。

at 01:38│
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