2007年06月04日
若冲展
30年ほど前にロスのカウンティミュージアムで、プライスコレクションを見て、趣味じゃないな、と思っていたので、最近になって若冲がえらい人気で、展覧会に100万人も入ったと聞いても、ふーん、とやり過ごしていたのだが、この機会を逃すと次は120年後しか見られない、とかいう脅し文句に、重い腰をあげてパートナーと二人で見に行った。最終日で、展示場へたどりつくまで3時間、観覧に1時間、計4時間の工程だった。
かつての職場の隣にあって、いつでも行こうと思えば行けたのに、よりによって最終日に行くのも酔狂だが、成り行き上仕方なし。久しぶりにパートナーとゆっくりお喋りし、ここちよい初夏の松風に吹かれ、奇特な数千人の来館者の列を眺め、そう退屈はしなかった。
肝心の若冲は、たぶんこの展覧会の目玉だろう襖絵、玉座の背景として描かれた葡萄図などが良かった。
若冲はいまでいえば、画家ではなく、イラストレーターだ。魚介類など描いた図など、小学生向けの動物図鑑のあまり精密でないイラストそのもの。動物ではあるが、生命固有の動きがまったく感じられない。
初期の書画を見れば、この画家は絵にも書にもあまり才能に恵まれず、エネルギーに乏しいことがわかる。動物たちの目にも書の筆づかいにも力がない。
動物絵の中では、群鶏図や白凰図のような平面いっぱいに派手な色合いや図柄を置いたものがいい。釈迦三尊も東南アジアの寺院のような派手な色合いで、およそ仏教的な精神の奥行きを感じさせる要素がなく、表層的にあくまで表層的に視覚を楽しませるように平面に配置された図柄としての釈迦三尊がおわすばかりだ。
若冲の才能は、襖であれ壁であれ、平面的なキャンバスの空間に、その「余白」を最大限に生かしながら要素を配置していく空間構成の才にあるようだ。
むかし国際シンポジウムのパンフレットや報告書を行く種類もつくったとき、プロのデザイナーが学術的な内容の本文をどうデザイン的に処理するか興味深く見ていたことがある。
そのときに、えんえんとつづく文字のフォントは、読みやすさを犠牲にしてでも小ぶりのサイズにし、ページの半分が空白になるほど、「余白」をデザイン要素として重視しつつ視覚的に鮮やかなページデザインをつくりだしていった。
若冲の才能は、そのデザイナーのように、既存の絵柄を巧みに二次元空間に配置し、再構成する能力にあるようだ。目玉の藤の絵はその最も典型的な例だと思う。
なぜいま若冲が若い人にまでもてはやされて、流行しているかは、この資質と無関係ではなさそうだ。若冲はイラストレーターであり、彼の「絵画」は、イラストであり、「ぬり絵」だと考えれば、もっとも基本的な性格に触れたことになるだろう。それは現代のCGのご先祖さまなのだ。
あくまで表層的であり、難しい精神は要らない、視覚的に楽しめればよろしい、という若冲がアメリカ人に好まれるというのも、なんとなくわかるような気がする。
かつての職場の隣にあって、いつでも行こうと思えば行けたのに、よりによって最終日に行くのも酔狂だが、成り行き上仕方なし。久しぶりにパートナーとゆっくりお喋りし、ここちよい初夏の松風に吹かれ、奇特な数千人の来館者の列を眺め、そう退屈はしなかった。
肝心の若冲は、たぶんこの展覧会の目玉だろう襖絵、玉座の背景として描かれた葡萄図などが良かった。
若冲はいまでいえば、画家ではなく、イラストレーターだ。魚介類など描いた図など、小学生向けの動物図鑑のあまり精密でないイラストそのもの。動物ではあるが、生命固有の動きがまったく感じられない。
初期の書画を見れば、この画家は絵にも書にもあまり才能に恵まれず、エネルギーに乏しいことがわかる。動物たちの目にも書の筆づかいにも力がない。
動物絵の中では、群鶏図や白凰図のような平面いっぱいに派手な色合いや図柄を置いたものがいい。釈迦三尊も東南アジアの寺院のような派手な色合いで、およそ仏教的な精神の奥行きを感じさせる要素がなく、表層的にあくまで表層的に視覚を楽しませるように平面に配置された図柄としての釈迦三尊がおわすばかりだ。
若冲の才能は、襖であれ壁であれ、平面的なキャンバスの空間に、その「余白」を最大限に生かしながら要素を配置していく空間構成の才にあるようだ。
むかし国際シンポジウムのパンフレットや報告書を行く種類もつくったとき、プロのデザイナーが学術的な内容の本文をどうデザイン的に処理するか興味深く見ていたことがある。
そのときに、えんえんとつづく文字のフォントは、読みやすさを犠牲にしてでも小ぶりのサイズにし、ページの半分が空白になるほど、「余白」をデザイン要素として重視しつつ視覚的に鮮やかなページデザインをつくりだしていった。
若冲の才能は、そのデザイナーのように、既存の絵柄を巧みに二次元空間に配置し、再構成する能力にあるようだ。目玉の藤の絵はその最も典型的な例だと思う。
なぜいま若冲が若い人にまでもてはやされて、流行しているかは、この資質と無関係ではなさそうだ。若冲はイラストレーターであり、彼の「絵画」は、イラストであり、「ぬり絵」だと考えれば、もっとも基本的な性格に触れたことになるだろう。それは現代のCGのご先祖さまなのだ。
あくまで表層的であり、難しい精神は要らない、視覚的に楽しめればよろしい、という若冲がアメリカ人に好まれるというのも、なんとなくわかるような気がする。
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