2006年07月31日
北斎と広重
昨日は京都文化博物館で「北斎と広重展」を見た。ちょくちょく画集で目にし、また数点ずつならば色々な美術館で目に触れたこともある二人の浮世絵も、これだけシリーズごとにまとまった数を見せられると、インパクトがまるでちがう。
とりわけ北斎の千変万化の自在な構図の見事さには惚れ惚れした。浮世絵の名所図会などは、いまの観光名所絵葉書に相当して、いかにその地域の魅力を伝えて人寄せをするかというメディアだったのだろう。
松島はここから、天橋立はここから、宮島はここから見るのが一番、というような日本人の得意な景物をとらえる俳句のような定型的な視点の堅固さを前提に、その強固な定型をさえ打ち破る斬新な視点、というよりほとんど破天荒な試み。
浮世絵の真髄は構図にある、という圧倒的な印象を受ける。その視点の、従ってそこで定まるフレームと、その中に配される要素の配置の巧みさ、堅固さ、斬新さ。そして、その配置によって生じる遠近の表現技法の多彩さ。幾重にも重なる山々の色合い、明暗、ぼかし、焦点の絞られた前面の人物や着物の柄の細密さと粗い遠景、画面の全体に降る雨にしても、春雨と夏の驟雨をみごとに描きわける繊細さ。
とりわけ北斎の千変万化の自在な構図の見事さには惚れ惚れした。浮世絵の名所図会などは、いまの観光名所絵葉書に相当して、いかにその地域の魅力を伝えて人寄せをするかというメディアだったのだろう。
松島はここから、天橋立はここから、宮島はここから見るのが一番、というような日本人の得意な景物をとらえる俳句のような定型的な視点の堅固さを前提に、その強固な定型をさえ打ち破る斬新な視点、というよりほとんど破天荒な試み。
浮世絵の真髄は構図にある、という圧倒的な印象を受ける。その視点の、従ってそこで定まるフレームと、その中に配される要素の配置の巧みさ、堅固さ、斬新さ。そして、その配置によって生じる遠近の表現技法の多彩さ。幾重にも重なる山々の色合い、明暗、ぼかし、焦点の絞られた前面の人物や着物の柄の細密さと粗い遠景、画面の全体に降る雨にしても、春雨と夏の驟雨をみごとに描きわける繊細さ。
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