2006年07月22日

ゆれる(小説)

 監督みずからがnovelizeした作品。これがまたいいから困ってしまう。はじめは、やっぱり映像の人だな、映像作家がポッと小説書いて、いい作品ができるほどこの世界も甘くないよな、などと思って読みすすんでいたら、そのうち、おっ、やるぅ、と思うような箇所に何回も出会って、そのうちすっかりはまって通勤の往復で読んでしまった。

 ストーリーもプロットも映画そのままだけれど、映画は一度観ただけだから、登場人物のさりげない表情や言葉のやりとりや仕草で、また一瞬登場する物で控えめに提示されているもののすべてをとらえることは難しい。

 そうして映像では気づかずにやり過ごしていたものも、文章では明瞭な輪郭をもった像としてつきつけられる。言葉のような抽象的なものより、映像のほうが一目見れば明らかだと私たちはしばしば誤解しているけれど、言葉が喚起する像のほうがずっと鮮明だということを思い知らされるようなところがある。

 映像のほうが両義的で、それが含みとして表現の価値になっているところがあるから、作者は小説化するとき、そこはやりにくかっただろうと思う。主要な複数の登場人物の視点による語りという形を借りているので、その両義性が重要なところで成立しなくなる可能性が大きいからだ。

 そのへんは確かにつらいところはあるけれども、そこもまぁかなりうまく処理できているという印象を受けた。

 しかし、この作品がnovelizationの域を超えて、ひとつの小説作品として自立しているかというと、やっぱりそれなら、基本的に小説の言語として全然違うものになるはずではないか、という疑問を生ずる。

 複数の登場人物の視点による構成は、たしかに、カメラという登場人物に対して第三者的な、小説でいえば客観描写的な映像を小説形式の散文に置き換えるための方法のひとつかもしれないけれど、映像だってその視点をひとつの主観に重ねることはできるから、カメラで撮るからといって小説の客観描写と同一視することはできない。

 そうすると、たとえば事件の決定的なシーンを語る猛の語りが、ただ猛の視線に重ねたカメラのとらえる映像をなぞるのを見るとき、果たしてこの語りは方法的な転換として評価できるものだろうか?あまりにも映像と小説言語との懸隔をやすやすと跳んでいるのでは?と感じてしまう。

 

at 00:14│
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