2005年02月19日
さびしんぼう

大林宣彦の「さびしんぼう」は不思議な映画。古美術を鑑定するような目で見ると、きっと破綻だらけの作品だ。「どうなることかと思いました」とは、今日も2人で見ることになった相方の言。ほんとうに前半を見ていると八方破れの喜劇かと錯覚する。それも上品なユーモアとは言い難い、少々お下品で、泥臭いドタバタの笑い。誇張が鼻につくところも少なくはない。
が、後半になると、すっかり主人公の視線になりきって、風に髪をなびかせて自転車に乗っていく富田靖子を追い、<さびしんぼう>の現われるのを心待ちにし、最後に憧れの人が小走りに闇に消えていくと胸がふさがる思いがし、とどめは雨の中で彼を待ち、その胸に顔をうずめて死んでいく<さびしんぼう>。まるで自分の腕の中で恋人が死んでいくように切なくて、緩んでいた涙腺が一気に全開。
このときの富田靖子は、ほとんど演技なしの自然体でいながら、観る者の心の芯をとらえて放さない最高の<演技>。その後、彼女の他の出演作も見たけれど、少しもいいと思わなかった。こんなに魅力的な輝きもたった一度で終ってしまうのかと思うと儚くなる。
中嶋朋子の「ふたり」のほうが作品としては完成度がずっと高いけれど、この作品は完成度なんてどうでもよくて、深く心の底に突き刺さって、偏愛という言葉がふさわしいほれ込み方をする以外にない作品。
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「チャーリング・クロス街84番地」は、昔偶然レンタルビデオで見つけて、その後品切れでなかなか手に入らなかった作品。今回DVDで手に入れることができて、初めて大きな画面で観ることができた。これも本当に不思議な作品。NYの「貧乏作家」とLondonの古書店主との古書をめぐる往復書簡が原作で、とりたてて事件らしいことも起こらない。にもかかわらず、少しも飽きさせずにぐいぐい引っ張っていく。
私にとってはこれは「愛」の理想形。どんな恋愛映画を観るよりも泣けてしまう。アンソニー・ホプキンスがうまいのは沢山の映画で見慣れていて、やっぱりすごいなぁと思うけれど、アン・バンクロフトの表情のチャーミングなこと!
本好きにはたまらない映画。原作は江藤淳の訳した文庫本かペンギンのペーパーバックで12ドルで手に入る。そして、それを読むと、往復書簡の中に登場する「ピープスの日記」(これも邦訳や新書の紹介がある)やジョン・ダン詩集が読みたくなる。
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庭の椿が咲いた。玄関に活けられた花は、一日で落ちた。信長のように潔い死に方だけれど、既に馬齢を重ねて、秀吉にも家康にもなれない私は、葉となり茎となり、枯れてしぼんで崩れ落ちるまで立っていたい。

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