2005年02月03日
『東京タワー』

電車の中で江國香織の『東京タワー』を読んだ。忙しいときほど小説の類が読みたくなるのは逃走本能というものだろう。
この小説はそんなとき読むにはうってつけだ。滑るようになめらかに物語が進行して引っかかるところが一つもない。適当にお洒落で適当にロマンチックで、それぞれ役割を振られた男女が期待を裏切らない範囲で愛し愛され語り振舞う。仕事ができてインテリの年上の女性は美しく魅力的で男の子はみな初々しい。心理描写は細やかだがくどくなく、過不足がない。
いつか必要あって山田詠美や柳美里の小説と比べ読んだことがあるが、彼女たちの作品とは違って、江國香織の小説には、肺腑を抉る悲しみも、凍りつく恐怖も、底意地の悪い企みもない。残念ながら人生はそうつるつると綺麗でお洒落なものではないだろうけれど、ここでは汚いものは見ずに済む。
主要人物たちはいつも飢えたように互いを求めている。<透&詩史>と<耕二&喜美子>は対照的にみえるけれど、後者は前者の戯画にすぎず、二つの「愛」に本当は何の変わりもない。それが愛だと錯覚している限り彼らは満たされることはない。
作者は自然に転化した愛は愛ではないとみなしたいかのようだ。これが現代風の愛のファッションなのかもしれない。けれども、現実の愛は信や不信を経て自然に転化する。
朝起きて眠るまで日に100度も面影が浮かんでくるのを自分でどうすることもできない、というようなことはある。姿を見なければ、声を聞かなければ不安な日々。消し去ろうとしても笑顔が、淋しげな表情が、唇を突き出した怒り顔が、知らん振りのつくり顔が不意打ちする。
けれども、いつかそのすべてが幾重にも折りたたまれて、心の視界から消えてしまう。姿を見なくても、声を聞かなくても、なぜか信じていられるようになる。
不思議なやすらぎがやってくる。それはほとんど何でもないことと紙一重。まるで忘れ去ったかのように、無関心でいられるかのように、いや無関心を「装う」のではない。ほんとうに意識の表に浮かんでくることさえ稀になる。たぶんそのとき愛は自然に転化したのだ。
黙っていても通じ合える、というのはロマンチックな幻想だというのが、いまふうのシニカルな恋愛観なのだろうが、自然に転化した愛の常態は、多かれ少なかれそういうものだろう。これを侮ると、ひどい目にあう。この手の小説が愛だ恋だと描いてみせる意識の戯れは、意識下の巨大な氷山のほんの一角にすぎないのではないか。
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今日は節分。コンビニで豆を買って、赤鬼の面をもらった。豆は多すぎるので、たまたま就活の自己アピールのことなど相談にきて、珍しくながいあいだ二人でお喋りの時間を共にしたYに分けた。クラスでもない、ゼミでもない、私の話の最中はお喋りばかりしていた彼女が、なぜこうして来てくれるようになったのか、たくさんの不思議の中の一つだ。でも、とても嬉しい。
節分にはいつも父が小さな枡に入れた豆を撒いた。私が鬼になり、自分でつくった鬼の面をかぶり、家中の部屋を開け放ち、走り回った。そのあとを丹前姿の父が、にこにこしながら「鬼わぁ?そとっ!」とゆったりと追いかけてくる。その脇をすりぬけて玄関を飛び出し、鬼の面をはずして、今度は「福わぁ?うちっ!」という父の声を待って、にこにこ顔をして入っていく。それから三人で這いつくばって、家中に飛び散った豆を拾い、歳の数だけ食べた。父も母も多すぎるから十歳分を一個で数えるのだと言った。いま思えば小さな家族だったのに、そんなときは大家族のようにあかるく、楽しかった。

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