2005年01月04日
カフカとの対話
きょうから・・・のはずだったけれど、今日は少し映像をみて、少し書いて、少し考えるにとどまった。予期しなかった大切な来客があり、ともに夕食をとり、おうちまで送っていった。
ヤノーホの「カフカとの対話」の中にこんな一節がある。あるときヤノーホが不意の訪問を詫びると、カフカは、それはちっとも構わない、予期せぬ客が迎えられないとすれば、それは弱さなのだ、という意味のことを言う。誰かに貸して返ってこないものだから、いつも座右にあったこの若い頃からの愛読書が手元になくて正確な言葉は確かめられないけれど、弱さ、という言い方がいまも印象に残っている。まだ若い青年であるヤノーホに、人生はいつも不意打ちに似たものじゃないかな、と少しはにかみながら、優しく諭しているようにも聞こえる。
20歳代の生涯で一番苦しかったころに、毎日のように一人で訪れた友人のところがある。生理的にそこに引き寄せられるように、新婚間もない夫婦のマンションに、いわば土足で踏み込むように闖入して、飲み、食い、喋り、友人の言葉の断片を糧にして辛うじて生きていた。まだそのときのことを正面切って振り返る勇気がない。
太宰に「饗応夫人」という短篇がある。とても好きな作品のひとつだ。
ヤノーホの「カフカとの対話」の中にこんな一節がある。あるときヤノーホが不意の訪問を詫びると、カフカは、それはちっとも構わない、予期せぬ客が迎えられないとすれば、それは弱さなのだ、という意味のことを言う。誰かに貸して返ってこないものだから、いつも座右にあったこの若い頃からの愛読書が手元になくて正確な言葉は確かめられないけれど、弱さ、という言い方がいまも印象に残っている。まだ若い青年であるヤノーホに、人生はいつも不意打ちに似たものじゃないかな、と少しはにかみながら、優しく諭しているようにも聞こえる。
20歳代の生涯で一番苦しかったころに、毎日のように一人で訪れた友人のところがある。生理的にそこに引き寄せられるように、新婚間もない夫婦のマンションに、いわば土足で踏み込むように闖入して、飲み、食い、喋り、友人の言葉の断片を糧にして辛うじて生きていた。まだそのときのことを正面切って振り返る勇気がない。
太宰に「饗応夫人」という短篇がある。とても好きな作品のひとつだ。
at 21:29│