2025年03月08日
デモクリトス
昨日アップロードしたヒポクラテスがデモクリトスに会いに行ったときのことを報告する書簡を読んで、いくつか気づくことがあります。
ヒポクラテスは、アブデラ市民たちから、デモクリトスが精神に異常をきたし、笑いがとまらない精神錯乱の状態にあると聞き、彼らが一国の運命を左右するほどの賢人として大切に考えてきたデモクリトスの病を治癒してほしいという元老院の依頼を受けるわけですが、アブデラ市民の語るデモクリトスの行状は狂人のそれではなく、市民や家族らに何等迷惑をかけるわけでもなく、できるかぎり人との接触を避けて研究に没頭するために、山中に穴居し、あるいは樹陰に起居する隠者のそれであり、ただ人に対すればひたすら笑い、その笑いを止めることができない点に異様さがあるにすぎず、精神には何らの異常もない賢者にほかならない、とヒポクラテスは判断しています。
そうして実際にアブデラへ出かけて本人に会ってみると、はたせるかなヒポクラテスが想像したとおり、デモクリトスは自らの研究に没頭し、その哲学を完成させようと日々努めている類まれな賢者であり、人との接触を避けて山中の粗末な小屋に暮らし、動物の解剖に没頭し、あるいは狂気について考察しては記載し、さらに人間について探究しているにすぎなかったのです。彼はヒポクラテスの名声を知っており、彼を賓客として迎え、対話します。ヒポクラテスのみるところ、彼に病的なところがみられるとすれば、ただデモクリトスがひたすら笑いつづけて笑いを止める術を知らないように見える所だけだったと言っていいでしょう。
ヒポクラテスはデモクリトスが語るところに、ときに疑問を呈し、反論めいた言葉をさしはさみはしますが、すべてを聞き終えると、深い共感を覚え、感銘を受けて、むしろ自分が「精神治療を受けた」と自覚し、デモクリトスの言葉によって「人間の自然性をきわめる」ことができ、その「真理」を告知すべくここを去ることができる、とまで言います。そしてデモクリトスのおそらくは自制できない笑いの発作といったことはそのこととは別の「身体の治療」の問題として、医師である自身の領域だとみなし、翌日の再会を約しています。
これほどヒポクラテスの心を打ったデモクリトスの言葉とはどんなものだったのか。いまヒポクラテスが書簡で報告するデモクリトスとのやり取りや、デモクリトスの独演に近い長広舌を繰り返し読んでも、それを明確に取り出すのはなかなか困難に思えます。
しかし、デモクリトスの発言全体を見渡して最初に思ったのは、これは躁うつ病患者の躁状態のときの振る舞いに似ているな、ということです。もとより私は精神医療など何もしらない素人ですから、単に過去の経験から類推するばかりですが、これまでに接してきたひと(仕事上接した人もあればゼミの学生さんもありますが)の中に数人、心療内科にかかっていて、みずから躁うつ病だと言っていた人がいます。その中で典型的だった或る学生さんは、他のゼミ生と一緒にわが家へ食事に来た時、最初から最後までずーっと喋りづめで、なんの先入観も予備知識も持っていなかった家人もさすがに驚き気づいて、あとでそのことを話した覚えがあります。
その学生さんは平生はごく普通の学生さんで、言動におかしなところは何もないのですが、いつそういうことが起きるのかは私などには全然わからないのですが、或る時にはそんなふうに明るくしゃべりづめに喋ります。それは、最初のうちは社交性に富んだおしゃべりな人のようにみられ、座全体を明るく活気づけているのですが、次第にその度を超えた能動性に座の人たちが気づくようになると、座全体が微妙な雰囲気になります。他の人があまり喋られなくなると、ますます彼女一人のおしゃべりが座を席捲して、まったく外部からの(たとえば私や家人の)介入で話題や雰囲気をがらっと変えてしまわない限り、永遠に彼女の興奮状態のおしゃべりが続いてしまうような感じになります。
彼女の場合はそういった躁状態と、対照的な鬱状態とが交互にやってくるので、鬱状態のときは突然ゼミにも出てこれなくなるようです。ゼミで分担作業をしているような場合、彼女が資料を持ち帰ったりしていると不都合があるために、私や友人が連絡をとろうとしても、電話にも出ることができません。そんなときは一定の期間そっとしておかないとどうしようもなく、ある日また突然登校して、なにごともなかったように共同作業をしていたりします。
そういう例を身近に体験しているので、デモクリトスがほとんど独演会のように滔々と自説を展開する場面など読んでいると、ちょうどその躁状態のときとそっくりだな、と思わずにはいられません。
デモクリトスは大変な賢人ですから、ひとつひとつの言葉は論理的に正当な意味をもって伝わってくるものだし、ヒポクラテスが共感し、感銘を受け、むしろ自分のほうが「精神治療を受けた」と思うほど深い思想の表現も見られるのかもしれません。けれども、その表現は決して論理的にひとつのテーマを追及し、それを解き明かしていく論理的な手順に即して語るような言葉から成ってはいません。むしろ正反対に、唐突に或ることが語られたかとおもえば、また唐突に別のことに飛び、なにか断定的(独断的)なことが言われ、また別の主題にとびうつっていくというふうに、構成としてはいわば支離滅裂な印象を受けます。
ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によれば、「デモクリトスはまさしく本当に哲学の領域における五種競技の選手だった」(岩波文庫同書下巻p125-126加来彰俊訳)そうで、トラシュロスが記録したというデモクリトスの著作リストを次のように掲載しています。
倫理学関係の著作
Ⅰ ピュタゴラス
賢者のあり方 について
ハデス(冥界)にいる者たちについて
トリートゲネイア(アテネ女神)
Ⅱ 男の卓越性について、あるいは徳(勇気)について
(山羊神)アマルテイアの角(つの)
快活さ(エウテュミアー)について
倫理学覚書
自然科学の著作
Ⅲ 大宇宙体系
小宇宙体系
世界形状論
諸惑星について
Ⅳ 自然について、第一
人間の本性について(あるいは、肉体について)-(自然ンいついて)、第二
知性について
感性について
Ⅴ 味について
色について
種々の形態(アトム)について
形態(アトム)の変換について
Ⅵ 学説の補強
映像(エイド―ロン)について、あるいは、(未来の)予知について
論理学上の規準について、三巻
問題集
(四部作集としては分類されていないもの)
天体現象の諸現象
空中の現象の諸原因
地上の現象の諸原因
火、および火のなかにあるものについての諸原因
音に関する諸原因
種子、植物、および果実に関する諸原因
動物に関する諸原因、三巻
原因雑纂
磁石について
数学関係の著作
Ⅶ 意見の相違について、あるいは、円や球との接触について
幾何学について
幾何学の諸問題
数
Ⅷ 通約不可能な線分と立体について、二巻
(渾天儀の)投影図
大年、あるいは、天文学、暦
水時計<と天(の時間)と>の争い
Ⅸ 天界の記述
大地の記述(地理学)
極地の記述
光線論
文芸・音楽関係の著作
Ⅹ 韻律と調和について
詩作について
詩句の美しさについて
発音しやすい文字と発音しにくい文字について
Ⅺ ホメロス論、あるいは、正しい措辞と稀語について
歌について
語句論
語彙論
技術関係の著作
Ⅻ 予後
養生について、あるいは、養生論
医療の心得
時期外れのものと季節にかなったものに関する諸原因
XIII 農業について、あるいは、土地測定論
絵画について
戦術論、および
重武装戦闘論
(その他)
バビュロンの神聖な文書について
メロエーの神聖な文書について
オケアノス(大洋)の周航
歴史研究について
カルダイオス人の言説
プリュギア人の言説
発熱、および病気のために咳をしている人たちについて
法律の原因(起源)
手製の防具
いやはやすさまじい博学ぶりですね。
わたしたち日本人が中学か高校くらいで習ってきたデモクリトスというのは、古代原子論の創始者または大成者といったところではなかったでしょうか。 前掲『ギリシア哲学者列伝』はその核心を要領よく伝えています。
彼の学説は以下のようなものである。万有全体の始元はアトムと空虚(ケノン)であり、それ以外のものはすべて始元であると信じられているだけのものにすぎない。そして世界は数限りなくあり、生成し消滅するものである。また、何ものもあらぬものから生ずることはないし、あらぬものへと消滅することもない。さらに、アトムは大きさと数において限りのないものであり、それらは万有のなかを渦を巻いて運ばれているのである。そしてそのようにしてすべての合成物を、つまり、火や水や空気や土を生み出すのである。なぜなら、これらのものもまた、ある種のアトムの集積物だからである。また、これらのアトムが作用を受けぬもの、変化しないものであるのは、それらが堅固な性質のものだからである。また、太陽や月は、それらにふいさわしい滑らかで球形の塊り(アトム)から合成されているし、魂(プシュケー)もまた同様である。そしてその魂はまた知性(ヌゥス)と同一のものである。また、われわれがものを見るのは、(対象から生ずる)映像(エイドーロン)が(われわれの眼の上に)落ちてくることによるのである。(前掲書P131-132)
人生の目的については次のような説を唱えたとされています。
万物は必然(アナンケー)によって生じるのであるが、それは、彼が「必然」と呼んでいるところの渦動(ディーネ―)が、万物の生成の原因だからである。また、「快活さ(晴れやかな心境)」(エウテュミアー)が人生の終局目的であるが、これは、一部の人たちが聞き間違えて受けとったように、快楽と同じものではなく、いかなる恐怖や、迷信や、その他何らかの情念によっても乱されないで、魂(心)がそれによって穏やかに落ちついた状態で時を過すことになるもののことである。しかし彼は、この状態を「仕合せ」(エウエストー)とも、またその他多くの名前でも呼んでいる。また、事物のもろもろの性質は、法律や習慣(ノモス)の上でだけあるにすぎず、自然の本来(ピュシス)においては、アトムと空虚(ケノン)があるだけだとしている。― 以上が、彼の考えであった。(同前p132)
デモクリトスの思想をわずかにうかがうことができるのは、ほぼこの記述だけのようです。同書によれば、アリストクセノスが『歴史覚書』で書いているそうですが、プラトンがデモクリトスの著作をすべて燃やしてしまおうとしたそうですが、ピュタゴラス派のアミュクラスとクレイ二アスが、そんなことをしても何の益にもならない、それらの書物はすでに多くの人たちの間に出回っているのだからと言って、プラトンにそのことを思いとどまらせたということです。プラトンはどうやら、哲学者たちのなかで最もすぐれたものになろうとすれば、ソクラテスと同時代の最大の哲学者であったデモクリトスが、自分の競争者になるだろうということを良く知っていたからだ、というのがこの列伝の著者の書いているところです。プラトンがデモクリトスの著作を集めて焼却しようとしたことの傍証として、列伝の著者は、プラトンが「昔の哲学者たちのほとんどすべての人に言及しているのに、デモクリトスには一度もはっきりと言及していないばかりか、デモクリトスに対して何らかの反論をする必要がある場合にさえも、言及していない」ことを挙げています。とても人間くさい話ですね(笑)。
しかしたしかにプラトンにはそういう強引なところがあります。師ソクラテスを慕い尊敬するあまり、本来のソクラテスの思想とは異なる、自分が思い定めたソクラテス像に固執して、著書を一冊も残さなかったソクラテスに代わって、まったく新たな哲学体系を創り出し、「ソクラテス以前」の哲学者たちをいわば抹殺する役割を果たした人物だと言っても過言ではないでしょう。
それはともかく、デモクリトスのこうした宇宙から人間の魂にまで至るすべてを相手にした博学と思考の広がりには、医者として深く医療を極め、医の思想においては抜群のものを備えていたヒポクラテスも幻惑されざるを得なかったかもしれません。デモクリトスの語る言葉は構成的には支離滅裂であったけれど、部分部分をみればそこに高度な知性を感じさせるもので、決して精神錯乱とか精神を病んだというようなものでなかったことは確かでしょうから。
たしかにデモクリトスは「哲学の領域における五種競技の選手」と評されるにふさわしい博学の人で、高度の知性を備えた人物だったのでしょう。しかし、彼の著作リストにあるようなこの世界の万般についての知識をおさめている、ということは、ただ彼が人並み外れた好奇心をもち、彼の生きた時代に知りうる情報をできるかぎりかき集めて、極限まで知的上昇過程をのぼりつめた、ということを意味するだけで、かれがほんものの知性を備えた「賢人」であったかどうかは、それだけでは分からないと私は思います。
ヒポクラテスはデモクリトスに会って彼の語る所を聴き、深く共感し、感銘を受けて帰っていくのですが、私はヒポクラテスとデモクリトスはまったく違うタイプの知識人だろうと思います。ヒポクラテスは当時の医術、医療に関する知識と技術を身に着け、実際に数多くの病人に向き合い、寄り添って、注意深く観察し、病の原因をつきとめるべく推論し、様々な条件を繰り込みながら治療法を考え、実際に治療をほどこして、その経過をつぶさに見、その結果を引き受けてきた実践的な経験を蓄積してきた医師です。彼の活動はできあいの知識の習得による知的上昇、知的対象の拡張にとどまるものではなく、未知の患者に向き合い、自らの知識と技術の有効性の検証を常にもとめられ、それによって自身の知のあり方そのものを不断に修正して再び現実の患者に、病に向き合うという現実過程をその思想に繰り入れることなしには成り立たない活動です。
これに対してデモクリトスの知的探求に、ヒポクラテスの患者あるいは病に相当する現実をその思想に繰り入れる契機がはたしてあったかどうかは、私たちに残された彼の事績や言葉からだけでは正確には判断できかねます。彼が人に会い、交わることを極力忌避し、山中の小屋に独居するような隠遁者のような生活を送っていたという、ヒポクラテスの書簡が伝えることが事実であれば、彼の思想は、動物の死骸の解剖の例のようなごく部分的な実証的契機をもつことはあっても、おおむね既存の知識と、これを再編成する彼の思考力が生み出す思弁的なものであったのではないか、と考える方が自然であるように思います。
彼のいわゆる原子論はその典型的なもので、これを近代の実証的な原子論に結び付けるのは見当違いといわなくてはならないでしょう。
もとより思弁的な哲学に価値がないわけではなく、それ自体が人間の思考の形、ある種の法則性を示すものとして考察の対象となり、論理学的なあるいは心理学的な遺産となることは申すまでもありません。しかし、その思弁が解明をめざした対象の構造や本質をあきらかにするという点では、決定的な時代的制約を蒙らざるを得ないでしょう。実証的な諸学が発達した後世の観点から見れば、その思弁が解き明かしたと信じた対象の姿は、ただその思弁の特徴的なありようを示すだけで、私たちに対象それ自体について何も伝えてくれるわけではないでしょう。
いまヒポクラテスを読んで、彼が時代の思想に倣って人間の構成要素として、血液、粘液、白胆汁、黒胆汁などを挙げるとき、そうした思弁的な部分には何らの価値が認められないとしても、彼が観察した同時代の病の諸症状、患者の姿、そして多くの制約の中で彼が患者に施した治療とその経過、彼がその無数の経験の中から導き出した病というものの姿、医師と患者の関係等々といったことの記述は、二千数百年を経た現在においても、私たちに大きな示唆を与えるものとなっており、他方でデモクリトスがせっかく動物の死骸を解剖しながら思弁的に組み立てた胆汁と理性のありようとの関係といったものは私たちに何も与えてはくれないでしょう。
またデモクリトスがその視野の広さのままに、世の人々の様々な行状をあげつらい、嘲笑するのを聞いても、そこに隠遁者特有の俗世間の人々に対する蔑みの感情をみとめても、私たちの生き方に示唆を与えてくれるようには見えません。むしろヒポクラテスが「このことは家政の上に、舟を造る上に、その他人間生活のあらゆる必要上やむを得ぬところです。」と弱弱しく反論を試みているように、デモクリトスが軽侮し、嘲笑する人々の生きようのほうに、それだけの必然性、「必要性」があるので、デモクリトスの言葉はその必然性に切り込むことはまったくできず、単に外部から隠遁者の眼で嘲笑し、蔑んでみせるだけです。
デモクリトスの長広舌の内容を、あらためて、きわめておおざっぱに三つに分けて考えてみましょう。
ひとつは、ヒポクラテスが訪れたとき、デモクリトスの手には動物の解剖された死体があり、彼の周辺にもそうした動物たちの死骸が集積していて、デモクリトスは「私が動物体を解剖するのは、神の創作に対する私の嫌悪からではなく、膽汁の所在と性質を研究するためです。人間において理知を欠く原因は膽汁の為で、膽汁の多量なところに理知の欠陥があるのです。膽汁は誰にでも自然に備わっています。しかしその量は人々によって異なります。それが過剰にあることは病気です。しかしそのもの自身は良いことの原因でもあれば悪いことの原因でもあります。」と説明しています。
当時、人間を構成する要素として、血液、胆汁、粘液といった単一の要素を主張して、それが変化するのだという言説があったことは、ヒポクラテスの「人間の本性について」という一文の中で知られますが、ヒポクラテスはそのような一元論をとらず、人間はそうした単一のものではないからこそ、治療法も多様でありうるのだと述べていました。しかし、当時はどうやら「胆汁」というのが人間の身体の重要な攻勢要素であり、またその働きを左右する本質的な要素の少なくともひとつだと考えられていたようで、ヒポクラテス自身も次のように述べています。(「人間の自然本性について」)
さて、人間を構成していると私が主張するものは、慣習においても自然本性においても、つねに同一であることを示すと言ったが、これらは血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁であると主張することにする。(「人間の自然本性について」p149 國方栄二編訳『ヒポクラテス医学論集』岩波文庫2022)
かくして、これらの要素の増減によって、人間の体の状態にも変化が起きるとされるのです。
夏になると、血液がまだ強いが、体内で胆汁が増えてきて、秋まで続く。秋になると、血液が減少するが、これは秋の自然本性が血液と反対であるからである。一方、夏から秋にかけて体を支配するのは胆汁である。このことは次のことから知られるだろう。この季節には、人々はひとりでに胆汁を吐き出し、薬を使うと胆汁が一番混じったものを排出する。この事は人々の発熱や体の色からも明らかである。粘液のほうは夏に最も微弱になる。この季節は乾燥して暑いために、粘液の自然本性と反対であるからである。
人間の体で血液が最も減少するのは秋である。秋が乾燥して、既に人間の体を冷やし始めているからである。一方、黒胆汁は秋に最も多く、最も力が強い。しかし、再び冬になると、胆汁は冷却され減少する。そして、雨が多くなり、夜が長くなってくると、そのために粘液が再び増加してくる。(前掲書p154)
デモクリトスが胆汁の働きを研究し、理知との関係を探ろうとしているのも、こういった当時の医学思想のベースの上でのことでしょうし、それはヒポクラテスにとっても馴染み深い考え方だったでしょう。心身相関についての素朴な考え方の中でのことではあっても、実際に動物の死体を解剖して胆汁の流れを把握し、その働きを極めようとする姿勢は、ヒポクラテス同様に、今の言葉で言えば実証主義的な姿勢と言ってよいでしょう。それはあきらかにエンペドクレスなどのような、人間は火と水と土と空気から成る、などという観念的な原素を立てて人間を解釈しようとする「ものを書く技術に属している」(「古い医術について」p40)所説とは異なる、「技術」としての医術によって立つ思想として、ヒポクラテスがデモクリトスと共感しあえる姿勢であったといえるでしょう。
しかし、デモクリトスの胆汁論は動物を解剖して、胆汁がどう体内を流れるかといったことを確認するようなところは実証的であっても、その胆汁の多寡が理知の有無にかかわるかのように考えるのはまったく思弁的な妄想にすぎないことは申すまでもありません。そのため、せっかく彼が多くの動物の死骸を解剖して精密な記述を残したとしても、それが探究として意味をもつのは、その客観的な記述だけだったでしょう。そして記述された対象の人体における働き等々といったことについての思弁的な解釈は、後世からみればすべて無意味なたわごとに過ぎないでしょう。
デモクリトスの長広舌の大部分をなす第二の内容は、いわば人間すべてのいまのありように対する批判的な観点で、デモクリトスが人々との接触を避けて独居し、隠棲者のような生活をするに至った原因のひとつでもあったでしょう。
彼の語るところは多岐にわたり、ごく普通の生活を営む人々の生き方の中にある惰性的なもの、怠惰な繰り返し、無意味な財への執着、無意味な互いの争闘、自制なき欲望、他者への嫉妬、悪意、吝嗇等々、否定的な要素を様々にあげつらい、それらを笑うべきものとして、自身の自制のきかない笑いを正当化するような言辞を弄するのです。
それはそれで俗世間を離れて、隠遁者の眼でその俗世間を見るときに見えるだろう景色一般と変わるところはありません。なにも賢人でなければ見えない景色ではないのです。ここではデモクリトスは、自分だけをそうした俗世間の笑うべきことどもから自由な立場であるかのように、ごくふつうの人々を見下し、嘲笑してみせる、とても凡庸なひとりの隠遁者に見えます。ここでは先に述べたように、彼らには彼らなりの必要性、必然性があるのではないか、というヒポクラテスの言葉のほうが、ずっと重いのです。デモクリトスには、そういう市民生活への凡庸な批判を繰り返す自身を相対化する視点がありません。
最後に、デモクリトスの語った言葉を内容で分類してみたとき、三つ目にあたるのは、医術に触れた部分です。念のため、その部分を再度引用してみます。
「自分は医術というものは何らこれに役立たぬことを懼れる。中庸を得ないために8れは医術に対する猜疑と忘恩とから発するのです。それでひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。多くのものはまた(自分の力で自然に治癒したのだというふうに)自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そしてそれとは反対に、(患者が死んだり治癒しないなど)悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです。術に関して何等の知識を持たぬ多くの人々は身体のためにしてはならないことをします。愚かなものたちは医師に心服せず、また医師が術の証明を与えないために医師の忠言を受け入れないのです。この場合にもまた猜疑ということが働くのです。あなたはこのような人々の愚昧な振る舞いをみていないのでだろうか。」
デモクリトスはその前の長広舌で批判してきた、ごく普通の市民たちの日常生活における様々な場面での否定的なありようを、ヒポクラテスが専門とする医術で直せるとは思わない、そこでは医術は役に立たないだろう、と最初に言います。それはそうでしょう。しかし彼は医術の価値を低くみつもっているわけではなく、非常に高く評価していることが、そのあとに続く言葉でわかります。ただ、その医術の価値を人々は理解しないだろう、とそこまでに批判してきた人々が医術に対してもその価値がわからないだろうと言っているわけです。
私が依拠した訳文は、 「ひとりの病人が救助されるときには彼らはそれを神力もしくは偶然ということに帰するのです。多くのものはまた自己の自然性に帰し、その慈善者、すなわち医師を蔑視します。そして悪い時には慈善者が必ず引き合いに出されるのです」 と書かれていて、上の引用における括弧内の言葉、「自分の力で自然に治癒したのだというふうに」、「患者が死んだり治癒しないなど」は、私が付け加えたものです。元の訳文ではわかりにくいけれど、こういう意味だと思います。
これと同じ趣旨のことが、ヒポクラテスの「技術について」(岩波文庫『ヒポクラテス医学論集』所収)で述べられています。 つまりヒポクラテスの生きた時代には、医術という技術それ自体を認めようとしないソフィストやいかがわしい方法で病を治すと称して金銭をせしめるような呪術師の類がたくさんいたようです。彼らは、医術による治療を受けた人が健康を回復すれば、それは患者の自然力が回復させたのだ(つまりいまでいう自然治癒ですね)、とか単に運が良かっただけだと主張して、医術の役割を認めようとせず、逆に医術をほどこした患者の中に治癒しない者があるときには、医術には何の効力もないのだと主張するわけですね。まさにああいえばこういうで、その種のソフィストがたくさん跋扈していたのでしょう。ヒポクラテスはそういう世界で淡々と患者に向き合い、治療し、医術という技術の価値を正当に主張し、次第に人々の信頼と名声を勝ち得ていくわけです。
デモクリトスのここでの言葉は、彼がそれまでに述べてきた愚昧な人々のありように対する批判の一貫として、ひとつの事例として医術に対する人々の愚かな振る舞いをあげつらった言葉ですが、たぶん医術の例を最後にもってきたのは、喋っている相手がヒポクラテスであり、その医術に対する敬意を表するために、こういう言葉をのべたのでしょう。この部分はヒポクラテスが平生から思っていたこととぴったり一致したはずですから、彼も喜んで聞いたでしょう。ひょっとすると、書簡でデモクリトスとの対話を報告する際に、自分のふだんからの医術に対する考え方や、医術を貶めるような連中への批判をひとことデモクリトスの言葉として付け加えたかもしれませんが(笑)
これでだいたいデモクリトスとヒポクラテスの出会いの場面についての私の感想も終わりですが、以前にも引用したことがありますが、ひとつこの出会いに関する面白いエピソードを前掲の『ギリシア哲学者列伝』の著者が書いているので、もう一度それを引用しておきます。
さて、アテノドロスは『散策』第八巻のなかで、次のような話を伝えている。ヒッポクラテスが彼(デモクリトス)のところへ訪ねてきたときに、彼はミルクを持ってくるように頼んでおいた。そして、持って来たミルクを彼は眺めた上で、これは初子を産んだ黒色の雌山羊のものだろうと言った。それで、彼の観察の正確さに、ヒッポクラテスは驚嘆したのだった。いや、そればかりでなく、ヒッポクラテスには若い娘が同伴していたのだが、最初の日には、彼はその娘に、「今日は、娘さん」と挨拶したが、次の日には、「今日は、奥さん」と挨拶したのだった。実際、その娘は夜の間に処女を失ってしまっていたのである。(岩波文庫前掲書下巻p130)
ちょっとできすぎたエピソードで、笑いをとるために作者または後世の誰かが付け加えた創作じゃないかと思いますが(笑)
saysei at 13:58│Comments(0)│