2025年01月23日
「ヴェニスの商人の資本論」
久しぶりに、たまたま本棚で手にとった岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』の冒頭に収められた書名と同じタイトル論考を読みました。私が買ったのは1986年11月に出た初版第10刷で、この本は買ってすぐ読んだと思いますが、当時は柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』経由で読んだので、剰余価値がなぜ、どのようにして生じるのか、という、思想的な観点で読んだ経済学の論点を、柄谷の友人(?)らしい専門の経済学者がどう説明するのか、という関心から読んでいたように思います。
いま読んでみると、岩井―柄谷らの剰余価値論は彼らが繰り返し書いたり語ったりしてきたせいで、もう常識化していて、はじめて知った当時の目新しさはなくて、むしろシェイクスピアが描く当時のヴェニスの共同体的な世界の終焉と商業資本主義的な世界に塗りつぶされていく転換期がそれぞれの登場人物群に見事に形象化されていることを指摘している、シェイクスピアの演劇の読み解き自体が興味深く、時代の深部に届くシェイクスピアの想像力、表現力の見事さをいまさらながら教えられるようなところがありました。
もとより岩井が概念的に分析してみせるような分析的認識が作家にあったわけではなくて、作品を書く中で彼の生きた時代の中で登場人物たちが自然に、必然的に時代の中でのそれぞれの生きよう、それぞれの役割を演じていくうちに、まさにそういう現実世界を凝縮した世界が出来上がったに違いないのですが、まるで岩井が絵解きしてみせたようなはるか後の時代の私たちがようやく解き明かすような精緻な概念的分析をあらかじめすべて作家が頭脳の内に持っていて、それをそれぞれにふさわしい人物像にいわば当てはめて書きでもしたかのような倒錯した感じを抱いてしまうほど、作品そのものが時代を鮮やかに映す鏡のように、と言ってもまだ足りないくらい、まさに時代そのものが産みだした、額に年号でも刻まれた赤子のように、奇跡的な作品だったのだな、とあらためて思いました。すべて文学のほんものの古典というのはそういうものなのかもしれませんが・・・逆に言えば岩井の読み解きが鮮やかで説得的だったということだと思います。
まあこういう読み方というのは文学を純粋に楽しんで読むことから言えば邪道というのか、いかにも学者的な読み方で、昔、スタンダールのいくつかの短編を集めた文庫本の解説に、訳者の桑原武夫が、それらの作品がいかにスタンダールの生きた時代の本質を射抜くような要素を備えているかを述べた解説を書いているのを読んで、なるほどな、と納得させられながら、それは文学者というより社会学者か歴史学者のような読み方だな、と多少違和感を覚えたことがありましたが、今回も岩井の分析に感心はしながらも、その絵解きの鮮やかさに、正直のところなんだかシェイクスピアのこの作品を、これが「ヴェニスの商人」だ!と銘打ったマンガに仕立てられてしまったようなある種の違和感を覚えもしたのでした。岩井にそんな意図があるはずもないけれど、どや?これで「ヴェニスの商人」という作品はあますところなく、すっかり絵解きしてやったぜ!というふうな(笑)感じを強いられるようなところがあって、やっぱりシェイクスピアってそんなもんじゃないだろう!という反発心が沸き起こってくる(笑)
これも昔々の話だけれど、ある文筆家が書いていたことで、白戸三平の「忍者武芸帖 影丸伝」を全巻もっていた中学生だったか知り合いの子に借りて、読み終わったので返すときに、「面白かったよ」とあいさつ代わりに言うと、その少年は何を言うか、というような反発心をあらわにして、「一度読んだくらいでこの作品がほんとにわかるはずがないよ」と言った、というような、そのころ若年の子たちにも熱烈な愛読者が増えていた白戸三平にまつわる、ちょっとしたエピソードだったのですが、なんとなくその少年の気持ちがよくわかるような気がしたのですね。
もちろんその文筆家はプロの評論家だから、白戸三平の劇画くらいは、概念的な言葉を駆使して、時代と重ね合わせて説得力のある批評文に仕立てるくらいは朝飯前だったと思うのですが、それを読むごく普通の読者は、ああその作品はそういう作品なんだな、と納得してしまって、肝心の白戸三平の劇画など読まないかもしれないし、読んでもその評論家の目でしか読まずに通り過ぎていくだけかもしれません。しかしこの場合私は、その白戸三平の劇画を全巻、何十回も繰り返して読んできた少年の読み方のほうがホンモノだと思うのです。もちろんまだ概念的な言葉もろくに操作できない中学生くらいのことだから、プロの評論家のように鮮やかな分析をしてみせることはできないでしょうが、「わかる」ということが、単に作品を或る概念装置にかけて、概念的な言葉に置き換え、適当に操作してみせることでしかないとすれば、そんなことはできないけれども、ただ何十回も繰り返し作品を読んで味わい、なにか心の中に沸き立つものを感じている少年の読みのほうに、ほんとうの「わかる」があるのではないか、と。
いまはまだうまくこのことと関連づけて言葉にできないのですが、わたしがブログで間歇的に書いてきた、「半知の医」での「患者の目でみた」ということと、対照的な専門的な医師によるものの見方との違いにも、いま書いてきたようなある種のずれ、行き違い、差異というものがあるのではないか、と考えているところがあるのです。まぁそのことを書きだすと長くなると思うので、またいずれ「半知の医」を書き進めることができれば、その中で考えていきたいと思っています。
きょうの夕餉

きょうは鴨鍋でした

追加の具。きょうは野菜をいっぱい食べたい、ということで鴨鍋になりました。鴨肉は入れることはもちろん入れるのですが、主として美味しい鴨の出汁を得るためで、鴨肉そのものはやや硬めで、鍋に入れてそう特別おいしいというものでもありませんが、「出汁の素」としては最高に美味しいですね。
鍋が煮詰まってくる頃には、もう具よりも汁そのものが美味しくて、取り皿に残った汁は一滴のこさず啜ってしまいます。ご飯にかけて食べても美味しいですね。

いつものモズクきゅうり酢

あとは残りもののカマスのから揚げ

これも残りもの

シメにひときれ、ふたきれのスグキなど
(以上でした)
今日もあたたかな日でした。アーちゃんの餌ののこりに、20羽以上の雀さんたちが集まってきていました。メジロの姿は見ませんでしたが、お隣の庭にショウビタキの雄らしい小鳥の姿を見ました。色鮮やかなオレンジ色の胸が見えましたが、ほんの一瞬、低い木の枝から枝へぴょんぴょん飛び移って飛び去っていったので、写真撮影どころか、肉眼でよく確かめることもできませんでした。人なれして、群れで動く雀などとまったく違って、やはり野生のメジロやショウビタキは用心深いし、動作が機敏で、姿を見せてもあっという間に飛び去ってしまって、目の前でぐずぐずしていることはほとんどないようです。
きょうも左肩から背にかけて朝からかなりきつい凝りがあって、叩いたり揉んだりするのもちょっと怖い感じがあったので、カロナールを服用して、なんとかしのぎました。頭痛になってしまうとたまらないので、それを未然に防ぐためには仕方がなかったのです。ロキソニンよりは腎臓に優しいはずなのですが・・・
いま読んでみると、岩井―柄谷らの剰余価値論は彼らが繰り返し書いたり語ったりしてきたせいで、もう常識化していて、はじめて知った当時の目新しさはなくて、むしろシェイクスピアが描く当時のヴェニスの共同体的な世界の終焉と商業資本主義的な世界に塗りつぶされていく転換期がそれぞれの登場人物群に見事に形象化されていることを指摘している、シェイクスピアの演劇の読み解き自体が興味深く、時代の深部に届くシェイクスピアの想像力、表現力の見事さをいまさらながら教えられるようなところがありました。
もとより岩井が概念的に分析してみせるような分析的認識が作家にあったわけではなくて、作品を書く中で彼の生きた時代の中で登場人物たちが自然に、必然的に時代の中でのそれぞれの生きよう、それぞれの役割を演じていくうちに、まさにそういう現実世界を凝縮した世界が出来上がったに違いないのですが、まるで岩井が絵解きしてみせたようなはるか後の時代の私たちがようやく解き明かすような精緻な概念的分析をあらかじめすべて作家が頭脳の内に持っていて、それをそれぞれにふさわしい人物像にいわば当てはめて書きでもしたかのような倒錯した感じを抱いてしまうほど、作品そのものが時代を鮮やかに映す鏡のように、と言ってもまだ足りないくらい、まさに時代そのものが産みだした、額に年号でも刻まれた赤子のように、奇跡的な作品だったのだな、とあらためて思いました。すべて文学のほんものの古典というのはそういうものなのかもしれませんが・・・逆に言えば岩井の読み解きが鮮やかで説得的だったということだと思います。
まあこういう読み方というのは文学を純粋に楽しんで読むことから言えば邪道というのか、いかにも学者的な読み方で、昔、スタンダールのいくつかの短編を集めた文庫本の解説に、訳者の桑原武夫が、それらの作品がいかにスタンダールの生きた時代の本質を射抜くような要素を備えているかを述べた解説を書いているのを読んで、なるほどな、と納得させられながら、それは文学者というより社会学者か歴史学者のような読み方だな、と多少違和感を覚えたことがありましたが、今回も岩井の分析に感心はしながらも、その絵解きの鮮やかさに、正直のところなんだかシェイクスピアのこの作品を、これが「ヴェニスの商人」だ!と銘打ったマンガに仕立てられてしまったようなある種の違和感を覚えもしたのでした。岩井にそんな意図があるはずもないけれど、どや?これで「ヴェニスの商人」という作品はあますところなく、すっかり絵解きしてやったぜ!というふうな(笑)感じを強いられるようなところがあって、やっぱりシェイクスピアってそんなもんじゃないだろう!という反発心が沸き起こってくる(笑)
これも昔々の話だけれど、ある文筆家が書いていたことで、白戸三平の「忍者武芸帖 影丸伝」を全巻もっていた中学生だったか知り合いの子に借りて、読み終わったので返すときに、「面白かったよ」とあいさつ代わりに言うと、その少年は何を言うか、というような反発心をあらわにして、「一度読んだくらいでこの作品がほんとにわかるはずがないよ」と言った、というような、そのころ若年の子たちにも熱烈な愛読者が増えていた白戸三平にまつわる、ちょっとしたエピソードだったのですが、なんとなくその少年の気持ちがよくわかるような気がしたのですね。
もちろんその文筆家はプロの評論家だから、白戸三平の劇画くらいは、概念的な言葉を駆使して、時代と重ね合わせて説得力のある批評文に仕立てるくらいは朝飯前だったと思うのですが、それを読むごく普通の読者は、ああその作品はそういう作品なんだな、と納得してしまって、肝心の白戸三平の劇画など読まないかもしれないし、読んでもその評論家の目でしか読まずに通り過ぎていくだけかもしれません。しかしこの場合私は、その白戸三平の劇画を全巻、何十回も繰り返して読んできた少年の読み方のほうがホンモノだと思うのです。もちろんまだ概念的な言葉もろくに操作できない中学生くらいのことだから、プロの評論家のように鮮やかな分析をしてみせることはできないでしょうが、「わかる」ということが、単に作品を或る概念装置にかけて、概念的な言葉に置き換え、適当に操作してみせることでしかないとすれば、そんなことはできないけれども、ただ何十回も繰り返し作品を読んで味わい、なにか心の中に沸き立つものを感じている少年の読みのほうに、ほんとうの「わかる」があるのではないか、と。
いまはまだうまくこのことと関連づけて言葉にできないのですが、わたしがブログで間歇的に書いてきた、「半知の医」での「患者の目でみた」ということと、対照的な専門的な医師によるものの見方との違いにも、いま書いてきたようなある種のずれ、行き違い、差異というものがあるのではないか、と考えているところがあるのです。まぁそのことを書きだすと長くなると思うので、またいずれ「半知の医」を書き進めることができれば、その中で考えていきたいと思っています。
きょうの夕餉

きょうは鴨鍋でした

追加の具。きょうは野菜をいっぱい食べたい、ということで鴨鍋になりました。鴨肉は入れることはもちろん入れるのですが、主として美味しい鴨の出汁を得るためで、鴨肉そのものはやや硬めで、鍋に入れてそう特別おいしいというものでもありませんが、「出汁の素」としては最高に美味しいですね。
鍋が煮詰まってくる頃には、もう具よりも汁そのものが美味しくて、取り皿に残った汁は一滴のこさず啜ってしまいます。ご飯にかけて食べても美味しいですね。

いつものモズクきゅうり酢

あとは残りもののカマスのから揚げ

これも残りもの

シメにひときれ、ふたきれのスグキなど
(以上でした)
今日もあたたかな日でした。アーちゃんの餌ののこりに、20羽以上の雀さんたちが集まってきていました。メジロの姿は見ませんでしたが、お隣の庭にショウビタキの雄らしい小鳥の姿を見ました。色鮮やかなオレンジ色の胸が見えましたが、ほんの一瞬、低い木の枝から枝へぴょんぴょん飛び移って飛び去っていったので、写真撮影どころか、肉眼でよく確かめることもできませんでした。人なれして、群れで動く雀などとまったく違って、やはり野生のメジロやショウビタキは用心深いし、動作が機敏で、姿を見せてもあっという間に飛び去ってしまって、目の前でぐずぐずしていることはほとんどないようです。
きょうも左肩から背にかけて朝からかなりきつい凝りがあって、叩いたり揉んだりするのもちょっと怖い感じがあったので、カロナールを服用して、なんとかしのぎました。頭痛になってしまうとたまらないので、それを未然に防ぐためには仕方がなかったのです。ロキソニンよりは腎臓に優しいはずなのですが・・・
saysei at 22:36│Comments(0)│