2024年11月06日

植物の恐ろしい力

 きょうは天気も良かったので、伸び放題だった生垣のプリペットを自動剪定機で刈り込もうというので、二人で庭へ出てそれをやりました。肥料もなにもやらず、ほったらしなので、昔のように密生して葉をたくさんつけて茂ってはいなくて、枯れてしまったのも何本かあって、隙間だらけ。でも伸びる枝は乱雑に伸びているので、それを刈っていったのですが、以前のように緑の高さが揃った生垣という感じではなくて、なんだか枯れかかったようなのが隙間だらけで立っている印象です。

 プリペットの方は簡単でしたが、そのあと、お隣がわが家との境界線上に一列に植えられたカイヅカが背丈ほどになって、この木は一本一本まっすぐ立っているのではなくて、無数の細い柔軟な枝を自在に曲げながら八方に伸ばして互いに絡み合い、ヒマラヤスギみたいな触るととても痛い鋭いトゲトゲの針葉を無数にびっしりつけて、団子状に固まり合った枝を覆いつくしてみえなくして、緑の塊みたいなものになっています。たしかにその緑の葉だけ適度に刈り込めば、とても綺麗な緑に覆われた生垣になるのですが、これがいま、お隣が事情あって放置されているために、どんどん勢いを増して、境界にある木の柵を押し倒してしまいそうに蔽いかぶさって、大きくわが家の敷地へはみ出して来ていました。以前はお隣の御主人が自分で、ちょっと刈らせてもらいます、とわが家の庭へ入って刈ってくれたり、自身が刈るのが難しくなると植木屋に頼んで同様にわが家の庭側から刈らせるようにしてくれていましたが、今はちょっと事情があってしばらく放置されていたので、カイヅカがわがもの顔に境界をはみ出して侵入し、板垣を破壊しそうになるところまできていたのです。

 さすがに放置しておいてはテラスと同様、垣根が倒壊してしまいそうなので、わが家のほうに張り出している一列に植えられたカイヅカのこちら側の面を刈らせてもらいました。緑の葉の塊を刈ると、中から焦げ茶色の細い小枝がびっしりと折り重なった、化け物の皮膚の内側みたいな醜い断層が現われるのですが、この枝がけっこう弾力性があって、剪定機でも非常に刈りにくく、少し太いと剪定機の刃に食い込んで停止してしまったりします。小型の剪定機ではありますが、結構重くて、両手で抱えながらの作業なので、なかなか大変でした。

 実はカイヅカには前にもひどく苦しめられたことがあって、義母が亡くなったときに、家の内外の後始末に毎日のように車で出かけ、パートナーが家の中を、私が庭を担当して、前の道路に面した庭のへりに並ぶ木々が丈高くなって茂り、道路に太い枝がはみ出したり、上の枝が電線にかかるほどになっていたのを、全部自分たちでコントロールできる自分たちの背丈くらいまで刈ってしまう作業を電動鋸をつかって、朝から夕方まで続けたことがあります。それで切った樹木が50本余もあり、刈った枝葉を庭に積み上げたら山のようになりました。これを少しずつ短く刈って、丈夫で大きな頭陀袋に入れたら、徐々にゴミ収集日に2つずつくらい出していた分を除いても、200袋ほどありました。これを2トントラックを借りて、荷台に床から天井までびっしり詰め込んだうえ、もともと持っていたバンにもいっぱい積み込んで、北山の市のゴミ焼却場まで運んだのでした。

 このときに最も苦労したのが、道路に面した庭の境に立っていて樹木類ではなくて、隣家との境にずらっと立って茂っていたカイヅカでした。6~7本はあったでしょうか。丈も2.5~3mくらいはあったでしょうか。幹も太いけれど、それより厄介なのはそこから八方に伸びた太い枝、さらにそこから無数に伸びるより細い枝、最後は無数の針葉をつけた柔軟性のある細い枝にいたるまで、柔軟で油っけたっぷりで、枝だけれどポキッと折れてくれるような枝ではなくて、機械的にカットするしかどうしようもない枝で、それも角度を考えないと簡単にはカットできない枝。しかもこれが何十センチかの狭い間をおいて植えられた樹なので、伸びた柔軟な枝がくねくねと曲がって互いに絡み合い、たとえ幹を切ったところで、全然倒れも傾きもしないのです。もう上のほうの枝ががっしりと絡みあって梃子でも動かない巨大な塊をつくっていて、ひとつひとつのからみあい、曲がりくねった枝を切って切って切りまくらないとどうにもならない代物でした。

 しかも、針葉とはいえ、互いにからみあって鬱蒼とした状態なので、電動鋸で切っていても振動でものすごい埃がたつし、しかもこの樹はなにか油性の成分を多く含んでいるらしくて、顔などがべっとりしてくるのですね。きょうはあのときに比べればごくわずかな量をカットしただけですが、それでも無数の目に見えない粉塵飛沫を浴びていたようで、事後に洗面所でいくら顔を洗っても、最初は石鹸を受け付けず、3度、4度と洗って、ようやくそれら油性の成分が落ちるというしつこさでした。

 おまけに枝をそうやって大変な苦労をして落としても、落とした地面は針の山みたいなことになって、なまじな履物をはいてそこを歩いたら確実に足をやられます。私は長靴を履いてトレーナーのズボンを長靴の中に入れて処理していたのですが、それでも気づかないうちに長靴の中に小さな針葉が入り込んでチクチク痛かったのを覚えています。

 今日も後の掃除はパートナーがやってくれたのですが、危険だからそのままゴミには捨てられないので、小さくカットした枝葉を新聞紙にくるんで、針葉で手など怪我しないように始末してからゴミ袋に入れるという手間のかかるゴミでした。

 このカイヅカという樹木は、葉が幹を包み隠し、豊かについた針葉をうまく刈り込めば外観はきれいな緑の樹にみえるので、よく生垣に使われるのですが、いったん処分するとなると実はほかの木とは比較にならないほど扱いが厄介な樹木で、こんなものを隣家との境の生垣にと植えたりするのはとんでもない間違いです。わが家のブロックの南の角のおうちも、最初から植わっていたんじゃないかと思いますが、生垣にこのカイヅカが使われていて、いまや2m以上の丈になって何本か立っています。このあいだおうちのかたが少し刈っているのを見ましたが、少しほうっておくと大変な目に遭うことでしょう。

 この種の生垣に使ったり、玄関先や庭に植える木、あるいは団地のならびの街路樹などとして植える樹木については、よくよく植物のことを熟知した専門家がやらないと、なまじっかな業者がやるとあとで住民はひどい目に遭います。次男宅にもともと植わっていた3本くらいのケヤキなどもひどいもので、狭い庭の縁に植えられたケヤキがあれは何メートルくらいか、2階の高さを超えるほどに成長してその枝を屋根をこえて洗濯物干し場まで伸ばすほどになり、その大量の落ち葉が屋根に落ち、樋を詰まらせ、ガレージの屋根に積もり、下手すると電線にひっかかるといったふうに始末に困る無用の長物となっています。うち1本は根元からたしか切ってしまったはずですが、まだたぶん2本残っていて、いまごろは毎日落ち葉を大量に横の道路に落としているでしょう。

 団地を二つに分けている道路に面したところには、団地の街路樹みたいな形で、道路に面した家々の前庭のところにもこのケヤキが植えられて、いまはすっかり大木になっています。落ち葉を落とすだけならまだいいのですが、その根っこたるやものすごい勢いで前庭を侵食し、逆方向に伸びて舗道の舗装を地中から突き上げてボコボコにします。こんな樹をよくも舗道のすぐわきに並べたものだと思います。ほんとうに公団住宅の担当者や受託した造園業者はこうした街路樹の樹種について無智蒙昧だったと言わなくてはならないでしょう。

 わがブロックの庭にも、実はあっても意味のない、おそらく処分に困るだろう樹木がいくつかあるようです。そのひとつはわが家のすぐ裏に立っている2本のクヌギです。善意の人だったおとなりの御主人が、どういうつもりだったのか・・・或いは団地の子供たちが、どんぐり拾いを喜ぶと考えられたのか・・・なんの益もないクヌギを植えられたようです。それまでは、春にこの共同庭を美しい花園にしてくれる各種の桜や、梅や、実のなるスモモの樹を植えたりされていたのですが、どういうわけかクヌギを植えられたようで、これがいまコントロールのきかない見上げるばかりの高さになって、たしかに秋になれば大きめのドングリの実を落としはするけれど、他に何のとりえもなく、私たちの視界を遮る、夏は暑苦しいばかりの無用の長物と化しています。

 あれは何というアニメでしたか、善と悪の軍勢が戦うとき、兵力の劣る善のほうの味方をして動き出したのが森の樹々たちで、その根を長く鋭い鞭のように振るって敵軍を攻撃する、迫力のあるアニメーション映像を作り出していた作品を見たことがありますが、改めて考えてみると植物と言うのはほんとうに恐ろしい力をもっていますね。
  
 動物と違ってあのアニメ映画のように瞬時に動き出して牙や爪を武器に襲い掛かってはこないけれど、それはただ時間の尺度がわれわれ動物と異なるだけで、少し油断をしていると、もう我々人間の手に負えないほどに巨大化したり、枝を大きく広げて繁茂したり、目に見えない地中で堅固な根を張っていたり、着々と攻撃の歩みを続けて、人間が気づいたときにはもうどうにもならない状態にしてしまうことはごく普通のことなのではないでしょうか。

 その典型例が以前にテレビでみたことのある、アンコールワットの遺跡です。あれはたしか世界遺産にも指定されたすばらしく美しい宮殿ですが、長く放置されて周囲から植物に侵蝕されて、もう柱も床も天上も、それを構成する石材もぼろぼろになって、いつ崩壊するかわからない、というより、いつ森林の植物たちに呑み込まれてしまうかもわからない、という危機的な状況だという、その映像を放映していたことがありました。その後適切な対策をして保全しおおせているのかどうか、わたしは知りませんが、あれをみたときは、わずかな隙間からでも建物の内部まで入り込んで、ひとつひとつの石材などをがんじがらめにして、力づくで崩壊させ、倒壊させ、あるいは強力な腕のような枝をからめて包み込み、みずからのうちに呑み込んでしまうような植物の恐るべき力を目の当たりに見たような気がしました。わたしたち時間尺度の短い日々を生きている人間にはなかなか植物のおそろしさが目に見えないけれど、ほんとうは動物よりもはるかに壮大なスケールでおそろしい力をもった存在なのかもしれません。


きょうの夕餉

★ちぢみ
 ニンジン葉、ニンジン、キムチ、干しエビ、ベーコンのチヂミ

★鮭の塩焼き
 鮭の塩焼き

★ジャガイモ厚揚げチクワ小松菜の煮物
 ジャガイモ、厚揚げ、チクワ、小松菜の煮物

★小松菜と焼き椎茸
 小松菜と焼き椎茸のポン酢

★アラ炊きののこり
 アラ炊きののこりもの

★赤だし
 白菜、シイタケ、小松菜、半熟卵入り赤だし

(以上でした)

 きょうは岩波文庫の『日本書記』の第一冊を少し読んでいて、巻末の補注を読みだすとこれがとても面白くて、しばらくそれを読んでノートしたりして楽しんでいました。混沌の中から最初に出てくる神様「国常立尊」の「トコ」が元来は「床」で、土を盛り上げた台を言うんだとか、「立」の日本語「タツ」は見えなかったもの、存在しなかったものが、活動しはじめて、下から上に姿を現すという意味で、「トコタチ」とは、「土台(大地)が出現し、大地が姿を現わす意」だといったところ。

 あるいは古事記や万葉集の万葉仮名は、百濟経由で入って来た五、六世紀の揚子江下流地域の発音によって日本語の音にあてはめたものだけれど、日本書記の万葉仮名はそれより100年もあとの、北方中国の長安、洛陽の発音に拠っているため、子音にも母音にも多くの違いがあって…に始まる話。

 そして高天原と言うのは、私は九州のどこやらにあると思っていたのですが、神話的には天にあるわけだけれど、もうひとつ政治思想的な意味から考えていくと、これは皇都であって、実は大和のことで、高天原というのは大和を天上に反映させてものだという話、これは津田左右吉の学説らしいのですが、とんと無知な私はこれまで知らなかったのでずいぶん啓蒙されました。







saysei at 22:06│Comments(0)

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