2024年11月02日
<影響>について
きょうは一日中雨で、家の中にこもっていました。インフルのワクチン予約日が昨日でよかった。歩くのはもう100mでもちょっとしんどいので、近くの店に行くにも電動アシスト自転車なしでは行けなくなってしまって、雨の降らない日でないとちょっとした近間の外出もできません。天気予報がくるくる変わるので油断はできないけれど、明日は天気が回復するようなので、リハビリ自転車に乗れそうです。やや野菜が冷蔵庫に乏しくなってきたらしいので(笑)
あれこれ本棚の本を引っ張り出して読んだりしていましたが、ずいぶん久しぶりに吉本さんの『初期歌謡論』を拾い読みしました。古今集を読んでいるので、いつかもう一度『初期歌謡論』を読み返そうとは思っていたのですが、おそるおそる拾い読み(笑)。でもやっぱりガーンとやられてしまいました。
「歌体論」のところを読んでいたのですが、平安初期の漢詩人たち、あるいは歌人たちが、憧れの六朝詩以来の中国の詩人たちの詩の規範をいかに無理をして万葉以来のわが国の歌の規範に取り込もうとしてきたかを、具体的な歌謡や初期歌学の病体論を取り上げて論じているのですが、その中で「影響」ということの本質についての鋭利な考察があって、ハッとさせられたのです。
この吉本さんの著作は、出版直後にもその後にも最低2回は通して読んでいたので、もう一度読むとああこういうことだったなぁ、とまざまざと思いだすのですが、ふだんはすっかり忘れていたのです。
どういうことかと言うと、吉本さんも例えば古今集の歌と唐詩選に入っている漢詩とを並べて、その類似性に言及し、それはそれでありきたりの国文学者も考えそうな漢詩文の影響について語りはするのですが、すぐに、「しかしこういう方向で影響を拾いあげてゆくとだんだん徒労のおもいがしてくる」とほんとうの内心のありようを吐露し、こんな語句の類似を探すような方法で、はたして本質的な「影響」が語れるのだろうか、と自問します。
「影響が深刻になるほど詩句の表面上の類似は薄れてくることは疑いない。そこであらためて影響とはなにか、を問い直さなくてはならなくなってくる。」と、ここからはいかにも吉本さんならではの本質的な問いかけと探求がはじまります。
そこに出てくる例が埴谷雄高に対するドストエフスキーややポーの「影響」ということが何を意味するか、それは決して詩句の類似を探して似た表現がみつかった、というようなレベルではなく、感性の質もプロットの構成もまったく異なる才能が、「いわば質的な分離を強いられるような根底的な影響」つまり埴谷雄高が埴谷雄高でしかありえないところまで追い詰められ、影響を与えたとされる作家からの分岐を強いられるとき、はじめて本質的な影響関係を云々することができる、という論旨です。
だから和歌についても、漢詩文と類似の詩句を探したり、漢詩文の影響と短歌謡の変貌を対比させたりしても本質的な意味での<影響>を語ることはできないのであって、「むしろ漢詩文のおおきな影響をうけながら、分離してきた短歌謡の原質をこそ探し求めるべきである。そこに真の影響の問題があらわれるとしかおもえない。」と。
ああ、そうだったなぁ、この箇所にいたく感動して、赤線引いたんだったなぁ(笑)などと思い出すのですが、そんなこともすっかり忘れて、国文学者としては優秀な片桐洋一さんの「全注釈」にもっぱら依存しながら古今集を一首ずつ読み味わう中で、片桐さんに教えられる漢詩文の詩句と古今集に登場する言葉との類似性に影響関係を見て安心しているような自分がいて、きょうはちょっと自己嫌悪に陥らざるを得ないところがありました。吉本さんの本質的な方法を学んできたはずなのに、これじゃ凡百の国文学者らの皮相な「影響」論と何も変わらんなぁ、と。
実際、この事に限らず、吉本さんのように既存の「専門家」などのありきたりの考え方や方法にとらわれずに、つねに根底的(radical)に問い直してものごと本質を極めるという思想的な姿勢をとることは本当に凡人には難しいことだなぁ、と思います。
既存のありきたりの方法に依拠したほうが、ずっとたやすいし、それはそれで目に見える「エビデンス」も挙げられるし、凡人にも理解しやすく、そのこと自体はまんざら嘘ではない(笑)のですから、楽なのですね。
そして、その種の既存の方法は、凡人であってもただ10年、20年とコツコツ学び、知識を広げ貯えていく努力さえ惜しまなければ、それなりに「専門家」として博覧強記を誇れるようなストックができるわけで、圧倒的多数の専門家というのはそういう存在にすぎないし、そういう専門家の通説なるものが学界の常識になっていくのだと思います。
しかし、おそらくそれはどこかで本質的な問いかけを忘れてしまった職業的なルーチンに過ぎず、常に一番大切なことがどこかへ押しやられ、忘れ去られているのではないかと思います。そのことをきょう久しぶりに『初期歌謡論』を読んでいて、あらためて感じました。
きょうの夕餉
バターナッツかぼちゃのスープ。もう1カ月以上台所の床に転がしてあったバターナッツかぼちゃ、やっときょう使ったようです。とても甘くておいしいスープになりました。
生ハム、きのこ、レモンクリームのペペロンチーニ
鶏肉のプルーン煮。ウィスキー、白ワイン煮込み
グリーンサラダ
パン
チーズ
(以上でした)
「ガン・スモーク」(シリーズ2)の計4枚のDVD、とうとう全部見てしまいました。明日から食後の休憩に見る楽しみがなくなってしまった ^^;
あれこれ本棚の本を引っ張り出して読んだりしていましたが、ずいぶん久しぶりに吉本さんの『初期歌謡論』を拾い読みしました。古今集を読んでいるので、いつかもう一度『初期歌謡論』を読み返そうとは思っていたのですが、おそるおそる拾い読み(笑)。でもやっぱりガーンとやられてしまいました。
「歌体論」のところを読んでいたのですが、平安初期の漢詩人たち、あるいは歌人たちが、憧れの六朝詩以来の中国の詩人たちの詩の規範をいかに無理をして万葉以来のわが国の歌の規範に取り込もうとしてきたかを、具体的な歌謡や初期歌学の病体論を取り上げて論じているのですが、その中で「影響」ということの本質についての鋭利な考察があって、ハッとさせられたのです。
この吉本さんの著作は、出版直後にもその後にも最低2回は通して読んでいたので、もう一度読むとああこういうことだったなぁ、とまざまざと思いだすのですが、ふだんはすっかり忘れていたのです。
どういうことかと言うと、吉本さんも例えば古今集の歌と唐詩選に入っている漢詩とを並べて、その類似性に言及し、それはそれでありきたりの国文学者も考えそうな漢詩文の影響について語りはするのですが、すぐに、「しかしこういう方向で影響を拾いあげてゆくとだんだん徒労のおもいがしてくる」とほんとうの内心のありようを吐露し、こんな語句の類似を探すような方法で、はたして本質的な「影響」が語れるのだろうか、と自問します。
「影響が深刻になるほど詩句の表面上の類似は薄れてくることは疑いない。そこであらためて影響とはなにか、を問い直さなくてはならなくなってくる。」と、ここからはいかにも吉本さんならではの本質的な問いかけと探求がはじまります。
そこに出てくる例が埴谷雄高に対するドストエフスキーややポーの「影響」ということが何を意味するか、それは決して詩句の類似を探して似た表現がみつかった、というようなレベルではなく、感性の質もプロットの構成もまったく異なる才能が、「いわば質的な分離を強いられるような根底的な影響」つまり埴谷雄高が埴谷雄高でしかありえないところまで追い詰められ、影響を与えたとされる作家からの分岐を強いられるとき、はじめて本質的な影響関係を云々することができる、という論旨です。
だから和歌についても、漢詩文と類似の詩句を探したり、漢詩文の影響と短歌謡の変貌を対比させたりしても本質的な意味での<影響>を語ることはできないのであって、「むしろ漢詩文のおおきな影響をうけながら、分離してきた短歌謡の原質をこそ探し求めるべきである。そこに真の影響の問題があらわれるとしかおもえない。」と。
ああ、そうだったなぁ、この箇所にいたく感動して、赤線引いたんだったなぁ(笑)などと思い出すのですが、そんなこともすっかり忘れて、国文学者としては優秀な片桐洋一さんの「全注釈」にもっぱら依存しながら古今集を一首ずつ読み味わう中で、片桐さんに教えられる漢詩文の詩句と古今集に登場する言葉との類似性に影響関係を見て安心しているような自分がいて、きょうはちょっと自己嫌悪に陥らざるを得ないところがありました。吉本さんの本質的な方法を学んできたはずなのに、これじゃ凡百の国文学者らの皮相な「影響」論と何も変わらんなぁ、と。
実際、この事に限らず、吉本さんのように既存の「専門家」などのありきたりの考え方や方法にとらわれずに、つねに根底的(radical)に問い直してものごと本質を極めるという思想的な姿勢をとることは本当に凡人には難しいことだなぁ、と思います。
既存のありきたりの方法に依拠したほうが、ずっとたやすいし、それはそれで目に見える「エビデンス」も挙げられるし、凡人にも理解しやすく、そのこと自体はまんざら嘘ではない(笑)のですから、楽なのですね。
そして、その種の既存の方法は、凡人であってもただ10年、20年とコツコツ学び、知識を広げ貯えていく努力さえ惜しまなければ、それなりに「専門家」として博覧強記を誇れるようなストックができるわけで、圧倒的多数の専門家というのはそういう存在にすぎないし、そういう専門家の通説なるものが学界の常識になっていくのだと思います。
しかし、おそらくそれはどこかで本質的な問いかけを忘れてしまった職業的なルーチンに過ぎず、常に一番大切なことがどこかへ押しやられ、忘れ去られているのではないかと思います。そのことをきょう久しぶりに『初期歌謡論』を読んでいて、あらためて感じました。
きょうの夕餉
バターナッツかぼちゃのスープ。もう1カ月以上台所の床に転がしてあったバターナッツかぼちゃ、やっときょう使ったようです。とても甘くておいしいスープになりました。
生ハム、きのこ、レモンクリームのペペロンチーニ
鶏肉のプルーン煮。ウィスキー、白ワイン煮込み
グリーンサラダ
パン
チーズ
(以上でした)
「ガン・スモーク」(シリーズ2)の計4枚のDVD、とうとう全部見てしまいました。明日から食後の休憩に見る楽しみがなくなってしまった ^^;
saysei at 21:44│Comments(0)│