2024年10月15日
ワクチンの季節
京都市からの回覧板で、きょうからインフルエンザのワクチン、新型コロナのワクチンの接種がはじまるという案内がありました。75歳以上の高齢者は前者が1000円、後者が2000円だそうです。ワクチンについては危ないと言って接種しない人もあるけれど、私たちはコロナ流行以来、毎年接種してきました。ちょっと接種したあとに痛みが出る程度で副作用も軽く、接種することに問題はないようなので、今年も接種しようと思います。コロナワクチンの有効性については、重症化予防効果が認められているようだし、感染による入院を約40%程度(国内でのデータらしい。国外も含めると最大70%程度まで)予防したという報告もあるようです。たとえ40%でも、とにかく感染したり、重症化したりする確率が低くなるなら接種しておくに越したことは無いと思います。
ただ、長男は、私に接することがあるから、私にうつすようだと困ると考えてくれたのでしょう、最初のころ接種していたようですが、発熱や頭痛だったか、2日間くらい、副反応がきつくて、ちょっと寝込むようなけっこうしんどい目をしたようです。若いから抵抗力が強いせいかもしれません。若い健康な身体だと、たとえ感染してもまず重症化することも稀でしょうから、そんなしんどい目をするなら接種しないでいいでしょう。次男一家は一度コロナに感染したようですが、もちろん重症化することもなく治癒したようです。けれど、けっこうしんどかったようです。
きょうの夕餉
シイタケのガーリックバター焼き
イワシのミリン干し
とんかつとコロッケ
小松菜の胡麻辛し和え
かぼちゃと万願寺唐辛子の煮物
イカの味噌漬け、万願寺唐辛子のジャコ煮ののこりもの
ショウガの炊き込みご飯
(以上でした。今日は昨夕ののこりもの活用の日。パートナーも買い物にいかずにすみ、ほっこり)
先日パートナーのお友達が来た時、毎年四国・内子町の実家の栗をとってきて持ってきてくださる栗を今年も持ってこられたので、きょうはパートナーが栗の皮むきをしていました。毎年大量の栗の皮を剥くのが大変で一日中居間にうずくまって、専用の皮むきでその作業をしていましたが、今回は栗の数が例年よりだいぶ少なかったので、比較的短い時間でできたようです。このクリを蒸して、洋酒に漬けて、パウンドケーキに入れる材料のひとつにするので、お友達もいらしたときにそれが出てくるのを楽しみにしておられるのですが、私も蒸し栗入りのケーキは大好き。
きょうもちょっとだけ電動アシスト自転車を走らせて上賀茂へ行きましたが、ほとんど野菜は出ていなくて、唯一たくさん出ていた、好物のトウガンをまたひとつ買ってきました。大きい重いトウガン一個300円。
帰宅して、今日はフーコーの講義録のひとつ『処罰社会』をまた少し読み進みました。そのあとでプライムビデオで、柄本佑・瀧内公美主演の『火口のふたり』という映画を見ました。荒井晴彦監督の事は何も知りませんでしたが、本来は脚本家のようです。ベテランらしい、周到で見ごたえのある映画でした。R18の映画で、ウエブサイトで見たYouTubeだったかのインタビューで、柄本がR30くらいの作品と言っていたけれど、たしかに日本映画としては強烈に過激と言っていい絡みのシーンのオンパレードでしたが、この作品にとっては必然性のある絡みシーンでした。
私はそれよりも、セリフがすごくいいなぁ、と思って見ていました。柄本も瀧内もインタビューで、何が大変だったといってセリフが一番大変だった、と言っていましたが、たしかに登場人物はこの2人しかいないし、二人の過去を背負った奥行きの深い言葉をさんざん慣れ親しんで過去も熟知した二人が矢継ぎ早に丁々発止でやりとりするのですから、役者は大変だったでしょう。
主人公たちがいるのが秋田になっていて、東北大震災が人々の心に残した深い傷が、直接にはまったく震災を描いた映画などではないのに、主人公たちの気分に色濃く反映されているのがわかるような作品で、その点でもすごいな、と思いました。
瀧内演じる直子が、石巻その他直接に震災の被害に遭った地域に住む友人たちとやりとりしたことを話す中で、被害を免れた秋田にいることを「うしろめたいと感じた」と言うシーンがあります。震災が登場すると言っても、そういう形でしかないのですが、それが実に気が利いていて巧いのです。
物語としては、直子は母親を早く失って柄本演じる賢治の母親、つまり伯母が母親のようにかわいがってきた娘で幼いときから賢治と実の兄妹のように一体的に親密に育ってきたけれど、物心ついてから親たちには知られずに男女の関係を続けてきたのです。しかし、或るとき、賢治は直子を裏切ってつきあっていた別の女性と結婚し、直子は捨てられます。賢治は結婚相手との間に子供ももうけながら、浮気の果てに離婚し、その後は、生きる意欲をなくしたようにずっと東京でろくな仕事にもつかずに「プー太郎」をしています。
それが、或るとき、父親から連絡があって、直子が結婚するから式に出てほしいと言ってきている、というので、賢治は式に出ようとして秋田へ帰省します。
再会した直子は昔と変わらず、賢治に対してはまったく距離感のない接し方で、10日後には結婚式を挙げる身で、賢治を新居に招き入れ、積極的に挑んで、「今夜だけ・・・」と迫り、はじめは拒む様子だった賢治もそれにいったん応じるとまだ若い肉体に火がついたみたいに激しいからみになります。
一晩だけ、という約束だったけれど、ヤケポックリに火がついて今度は賢治のほうがおさまらず、結局二人は、直子のハズバンドになる自衛隊員の男がそこへやってくる日まで、という約束の日時の延期でよって関係を続けることになります。その間に二人の過去が二人の非常によく考えられた会話によって明らかになっていきます。その中で賢治が当時は気づいていなかった直子の想いが次第に明らかになっていきます。直子の一方的な純愛と言っていいそれはとても切ない印象を与えます。
二人のからみは確かに激しいけれど、あまりに自然なので、なんというか、いやらしいといった印象がありません。直子があるとき、腹痛を起こして賢治が腹をさすって介抱してやる場面がありますが、その翌朝ベッドで会話しているとき、直子は結婚してから昨夜みたいなことが起きたらどうしよう、などと言います。亭主に介抱してもれえばいいじゃないか、と賢治は当然のこととして言います。すると直子は恥ずかしい、というので、賢治が恥ずかしい?と直子の言葉を笑います。しかし直子は、私は賢ちゃんとなら何をしても、されても恥ずかしくない。だけどほかの人だと恥ずかしいの、というふうなことを言うのです。彼女にとっての賢治がどういう存在かを、実に巧みなシチュエーションの設定と巧みな会話の中でこうして明かしていきます。そういう展開が非常によく考えられていて感心します。
若いころ、二人は親たちの目を忍んで、デパートの屋上だとか、路地の隅だとか、赤の他人に見られるようなとんでもないところで激しいセックスをするのですが、その思い出をかたるとき、「賢ちゃんはああいうところでするのが好きだったでしょう」というようなことを言いますが、賢治は「だけどおまえも好きだったろう?」などと言います。
けれども直子はそうではなかったのです。「賢ちゃんが好きだったからだよ」と言って涙ぐんで彼女はベッドの中で背を向けます。そういう二人の当時の気持ちのすれ違いのありようが次第に明かされて、直子の一途な想いが明らかになっていくと、彼女の置かれていた立場を考えて、みているほうも切なくなってきます。
この映画は私には少々つらいものでした。途中までみていて、そういうと少々問題があるかもしれませんが(笑)、まるで自分のことを描いた作品のように思えることがありました。
この作品では、一度は直子を裏切った、おそろしく鈍感な男でもある「プー太郎」の賢治は最後まで「プー太郎」であることによって、再び直子と巡り合うことができ、「自分の身体の言い分に従って」生きようと思い、二人にとってハッピーエンドが訪れることを示唆する結末になっています。
「プー太郎」でありつづけることに堪えるということも、とても難しいことだな、と思わずにはいられませんでした。
ただ、長男は、私に接することがあるから、私にうつすようだと困ると考えてくれたのでしょう、最初のころ接種していたようですが、発熱や頭痛だったか、2日間くらい、副反応がきつくて、ちょっと寝込むようなけっこうしんどい目をしたようです。若いから抵抗力が強いせいかもしれません。若い健康な身体だと、たとえ感染してもまず重症化することも稀でしょうから、そんなしんどい目をするなら接種しないでいいでしょう。次男一家は一度コロナに感染したようですが、もちろん重症化することもなく治癒したようです。けれど、けっこうしんどかったようです。
きょうの夕餉
シイタケのガーリックバター焼き
イワシのミリン干し
とんかつとコロッケ
小松菜の胡麻辛し和え
かぼちゃと万願寺唐辛子の煮物
イカの味噌漬け、万願寺唐辛子のジャコ煮ののこりもの
ショウガの炊き込みご飯
(以上でした。今日は昨夕ののこりもの活用の日。パートナーも買い物にいかずにすみ、ほっこり)
先日パートナーのお友達が来た時、毎年四国・内子町の実家の栗をとってきて持ってきてくださる栗を今年も持ってこられたので、きょうはパートナーが栗の皮むきをしていました。毎年大量の栗の皮を剥くのが大変で一日中居間にうずくまって、専用の皮むきでその作業をしていましたが、今回は栗の数が例年よりだいぶ少なかったので、比較的短い時間でできたようです。このクリを蒸して、洋酒に漬けて、パウンドケーキに入れる材料のひとつにするので、お友達もいらしたときにそれが出てくるのを楽しみにしておられるのですが、私も蒸し栗入りのケーキは大好き。
きょうもちょっとだけ電動アシスト自転車を走らせて上賀茂へ行きましたが、ほとんど野菜は出ていなくて、唯一たくさん出ていた、好物のトウガンをまたひとつ買ってきました。大きい重いトウガン一個300円。
帰宅して、今日はフーコーの講義録のひとつ『処罰社会』をまた少し読み進みました。そのあとでプライムビデオで、柄本佑・瀧内公美主演の『火口のふたり』という映画を見ました。荒井晴彦監督の事は何も知りませんでしたが、本来は脚本家のようです。ベテランらしい、周到で見ごたえのある映画でした。R18の映画で、ウエブサイトで見たYouTubeだったかのインタビューで、柄本がR30くらいの作品と言っていたけれど、たしかに日本映画としては強烈に過激と言っていい絡みのシーンのオンパレードでしたが、この作品にとっては必然性のある絡みシーンでした。
私はそれよりも、セリフがすごくいいなぁ、と思って見ていました。柄本も瀧内もインタビューで、何が大変だったといってセリフが一番大変だった、と言っていましたが、たしかに登場人物はこの2人しかいないし、二人の過去を背負った奥行きの深い言葉をさんざん慣れ親しんで過去も熟知した二人が矢継ぎ早に丁々発止でやりとりするのですから、役者は大変だったでしょう。
主人公たちがいるのが秋田になっていて、東北大震災が人々の心に残した深い傷が、直接にはまったく震災を描いた映画などではないのに、主人公たちの気分に色濃く反映されているのがわかるような作品で、その点でもすごいな、と思いました。
瀧内演じる直子が、石巻その他直接に震災の被害に遭った地域に住む友人たちとやりとりしたことを話す中で、被害を免れた秋田にいることを「うしろめたいと感じた」と言うシーンがあります。震災が登場すると言っても、そういう形でしかないのですが、それが実に気が利いていて巧いのです。
物語としては、直子は母親を早く失って柄本演じる賢治の母親、つまり伯母が母親のようにかわいがってきた娘で幼いときから賢治と実の兄妹のように一体的に親密に育ってきたけれど、物心ついてから親たちには知られずに男女の関係を続けてきたのです。しかし、或るとき、賢治は直子を裏切ってつきあっていた別の女性と結婚し、直子は捨てられます。賢治は結婚相手との間に子供ももうけながら、浮気の果てに離婚し、その後は、生きる意欲をなくしたようにずっと東京でろくな仕事にもつかずに「プー太郎」をしています。
それが、或るとき、父親から連絡があって、直子が結婚するから式に出てほしいと言ってきている、というので、賢治は式に出ようとして秋田へ帰省します。
再会した直子は昔と変わらず、賢治に対してはまったく距離感のない接し方で、10日後には結婚式を挙げる身で、賢治を新居に招き入れ、積極的に挑んで、「今夜だけ・・・」と迫り、はじめは拒む様子だった賢治もそれにいったん応じるとまだ若い肉体に火がついたみたいに激しいからみになります。
一晩だけ、という約束だったけれど、ヤケポックリに火がついて今度は賢治のほうがおさまらず、結局二人は、直子のハズバンドになる自衛隊員の男がそこへやってくる日まで、という約束の日時の延期でよって関係を続けることになります。その間に二人の過去が二人の非常によく考えられた会話によって明らかになっていきます。その中で賢治が当時は気づいていなかった直子の想いが次第に明らかになっていきます。直子の一方的な純愛と言っていいそれはとても切ない印象を与えます。
二人のからみは確かに激しいけれど、あまりに自然なので、なんというか、いやらしいといった印象がありません。直子があるとき、腹痛を起こして賢治が腹をさすって介抱してやる場面がありますが、その翌朝ベッドで会話しているとき、直子は結婚してから昨夜みたいなことが起きたらどうしよう、などと言います。亭主に介抱してもれえばいいじゃないか、と賢治は当然のこととして言います。すると直子は恥ずかしい、というので、賢治が恥ずかしい?と直子の言葉を笑います。しかし直子は、私は賢ちゃんとなら何をしても、されても恥ずかしくない。だけどほかの人だと恥ずかしいの、というふうなことを言うのです。彼女にとっての賢治がどういう存在かを、実に巧みなシチュエーションの設定と巧みな会話の中でこうして明かしていきます。そういう展開が非常によく考えられていて感心します。
若いころ、二人は親たちの目を忍んで、デパートの屋上だとか、路地の隅だとか、赤の他人に見られるようなとんでもないところで激しいセックスをするのですが、その思い出をかたるとき、「賢ちゃんはああいうところでするのが好きだったでしょう」というようなことを言いますが、賢治は「だけどおまえも好きだったろう?」などと言います。
けれども直子はそうではなかったのです。「賢ちゃんが好きだったからだよ」と言って涙ぐんで彼女はベッドの中で背を向けます。そういう二人の当時の気持ちのすれ違いのありようが次第に明かされて、直子の一途な想いが明らかになっていくと、彼女の置かれていた立場を考えて、みているほうも切なくなってきます。
この映画は私には少々つらいものでした。途中までみていて、そういうと少々問題があるかもしれませんが(笑)、まるで自分のことを描いた作品のように思えることがありました。
この作品では、一度は直子を裏切った、おそろしく鈍感な男でもある「プー太郎」の賢治は最後まで「プー太郎」であることによって、再び直子と巡り合うことができ、「自分の身体の言い分に従って」生きようと思い、二人にとってハッピーエンドが訪れることを示唆する結末になっています。
「プー太郎」でありつづけることに堪えるということも、とても難しいことだな、と思わずにはいられませんでした。
saysei at 21:55│Comments(0)│