2024年09月30日
侯孝賢監督「好男好女」をみる
例よって、処分前の一見、というやつで、台湾の侯孝賢(ホウ‣シャウシェン)監督の「好男好女」を見ました。1995年、台湾と日本の共同製作で、主演は「香港生まれ日本育ち」「18歳で歌手デビュー」して台湾でも日本でも成功したアイドル歌手らしい(というのは私は全然知らないので)伊能静という女優さんです。
私はタイトルをみて中身を軽率に推測判断してしまう傾向があって、大抵はうまくいくのですが(笑)、ときどき、タイトルで何となく見る気が失せて見損なった面白い映画とか、読みそこなった面白い本に、ずいぶんあとになって気づくことがあります。
それで、今回も監督は「悲情城市」で感銘を受けた侯監督なので、ひょっとしたら、タイトルのせいでまた食わず嫌いをやっちゃってたかな、と思って見たのですが、今回は私の軽率な判断のほうが正しかった(笑)
もちろんいい加減な作品ではなく、監督としてはむしろ非常に野心的な作品で、台湾の悲劇的な「白色テロ」と言われる蒋介石独裁下に起きた多数の台湾人住民の殺害事件と現代に生きる退廃的な女性の日常を重ね合わせて見る者に問いかける類の非情に生真面目な作品です。
伊能静演じる梁静(リャンジン)という若い女性はかつての恋人アウェイを3年前に殺され、退廃的な日常生活を過ごしています。その彼女のところに、以前盗まれた、割と赤裸々なことを書いた日記のページがFAXで繰り返し送られてきます。同時に無言電話も繰り返しかかってきます。誰がそんなことをしているのかはまったく分からないし、その意図も最後までわかりません。ただそういう日常を彼女が過ごしている、というだけです。
映像はごく自然に継ぎ目なく、まだアウェイが生きていたころに戻り、肩に入れ墨をした、恐れられた男だったらしい彼は、ほかの女も抱くので彼女はやけになり、彼に食って掛かるけれど、彼は彼女には優しく、彼女がクスリに溺れて退廃に陥ろうとするのを止めようとするシーンがあります。
彼女は以前、映画女優をしていて、その映画制作の場面と、そこからまた自然につながって、つくられていくその映画自体、つまり劇中劇みたいな映画の中の映画が、モノクロではなかったように思うけれど、セピア色でもない、やや褪せた青っぽい色調の美しい映像で、現在のことのように映されていきます。
その映画中の映画というのは、日中戦争のさなか、日本へ留学していた留学生鍾浩東(チェン・ハオトン)・蒋碧玉(ジャン・ピーユ)夫妻と友人3人の計5人の若者が、抗日戦に参加しようと決心して大陸に渡り、中華民国軍の前線支部へたどり着くのですが、そこで取り調べの上、足枷をかけられて拘束され、日本のスパイの容疑をかけられて銃殺ときまり、或る人物の口添えで辛うじて命だけは助かります。
しかし、台湾の良く知られた「白色テロ」の時代(台湾人に対する大陸から入って来たいわゆる外省人の差別的な統治に抗う住民の運動を蒋介石が大陸から軍を送って弾圧、銃撃して多数の住民を殺した事件をはじめ、長年にわたる戒厳令下で、共産主義者扱いされた村人が集団抹殺されるなどの事件を繰り返した)の中で、鍾浩東らも殺されていきます。
その鍾の妻、蒋碧玉を、リャンジンが演じていた、という設定になっていて、生身のリャンジンの現在・過去の生きざまと、彼女が演じる蒋碧玉の生きざまとが重ねて提示されるというわけです。
しかし、これは作品として、その中身がとてもわかりにくく、映画の中の女性と、それを演じる女優の生身の生きざまとをこのように重ねて見せる意味が、もうひとつ観客にうまく伝わってこないのです。
映画の中の映画に出てくる場面の中には、思わずハッとするほど美しい映像があっただけに、あの映画の中の映画をそれ自体で取り出して、正面から「白色テロ」の時代を生きる男女を描く映画を一本撮ってほしかったな、と思わずにはいられませんでした。
映画の終わりに、「1950年代の政治的受難者に」といった言葉が記されていました。
リャンジンの一人住まいの部屋の片隅にあるモノクロテレビが、小津安二郎の「晩春」の一場面を映しているのも、時代を感じ、親しみもおぼえました。それにしても台湾の映画では以前に日本統治に抗って反乱を起こし、殲滅された台湾人を描いた、やはり史実にもとづく映画を見たことがありますが「悲情城市」といいこの映画といい、ひとつの国家の中でかくも残酷な民衆の圧殺が繰り返される民族的な悲劇を経験し、台湾の民衆はその精神的な共同性の深部で、おそらくはいまも本当には癒えない深い傷を負っているのだろうな、と思わずにはいられません。作品の出来、不出来はともかく、この監督がその民族的なトラウマのような深手から目を逸らすことなく、難しい主題に真正面から取り組んでいる姿勢はやはり見事なものだと思います。
私はタイトルをみて中身を軽率に推測判断してしまう傾向があって、大抵はうまくいくのですが(笑)、ときどき、タイトルで何となく見る気が失せて見損なった面白い映画とか、読みそこなった面白い本に、ずいぶんあとになって気づくことがあります。
それで、今回も監督は「悲情城市」で感銘を受けた侯監督なので、ひょっとしたら、タイトルのせいでまた食わず嫌いをやっちゃってたかな、と思って見たのですが、今回は私の軽率な判断のほうが正しかった(笑)
もちろんいい加減な作品ではなく、監督としてはむしろ非常に野心的な作品で、台湾の悲劇的な「白色テロ」と言われる蒋介石独裁下に起きた多数の台湾人住民の殺害事件と現代に生きる退廃的な女性の日常を重ね合わせて見る者に問いかける類の非情に生真面目な作品です。
伊能静演じる梁静(リャンジン)という若い女性はかつての恋人アウェイを3年前に殺され、退廃的な日常生活を過ごしています。その彼女のところに、以前盗まれた、割と赤裸々なことを書いた日記のページがFAXで繰り返し送られてきます。同時に無言電話も繰り返しかかってきます。誰がそんなことをしているのかはまったく分からないし、その意図も最後までわかりません。ただそういう日常を彼女が過ごしている、というだけです。
映像はごく自然に継ぎ目なく、まだアウェイが生きていたころに戻り、肩に入れ墨をした、恐れられた男だったらしい彼は、ほかの女も抱くので彼女はやけになり、彼に食って掛かるけれど、彼は彼女には優しく、彼女がクスリに溺れて退廃に陥ろうとするのを止めようとするシーンがあります。
彼女は以前、映画女優をしていて、その映画制作の場面と、そこからまた自然につながって、つくられていくその映画自体、つまり劇中劇みたいな映画の中の映画が、モノクロではなかったように思うけれど、セピア色でもない、やや褪せた青っぽい色調の美しい映像で、現在のことのように映されていきます。
その映画中の映画というのは、日中戦争のさなか、日本へ留学していた留学生鍾浩東(チェン・ハオトン)・蒋碧玉(ジャン・ピーユ)夫妻と友人3人の計5人の若者が、抗日戦に参加しようと決心して大陸に渡り、中華民国軍の前線支部へたどり着くのですが、そこで取り調べの上、足枷をかけられて拘束され、日本のスパイの容疑をかけられて銃殺ときまり、或る人物の口添えで辛うじて命だけは助かります。
しかし、台湾の良く知られた「白色テロ」の時代(台湾人に対する大陸から入って来たいわゆる外省人の差別的な統治に抗う住民の運動を蒋介石が大陸から軍を送って弾圧、銃撃して多数の住民を殺した事件をはじめ、長年にわたる戒厳令下で、共産主義者扱いされた村人が集団抹殺されるなどの事件を繰り返した)の中で、鍾浩東らも殺されていきます。
その鍾の妻、蒋碧玉を、リャンジンが演じていた、という設定になっていて、生身のリャンジンの現在・過去の生きざまと、彼女が演じる蒋碧玉の生きざまとが重ねて提示されるというわけです。
しかし、これは作品として、その中身がとてもわかりにくく、映画の中の女性と、それを演じる女優の生身の生きざまとをこのように重ねて見せる意味が、もうひとつ観客にうまく伝わってこないのです。
映画の中の映画に出てくる場面の中には、思わずハッとするほど美しい映像があっただけに、あの映画の中の映画をそれ自体で取り出して、正面から「白色テロ」の時代を生きる男女を描く映画を一本撮ってほしかったな、と思わずにはいられませんでした。
映画の終わりに、「1950年代の政治的受難者に」といった言葉が記されていました。
リャンジンの一人住まいの部屋の片隅にあるモノクロテレビが、小津安二郎の「晩春」の一場面を映しているのも、時代を感じ、親しみもおぼえました。それにしても台湾の映画では以前に日本統治に抗って反乱を起こし、殲滅された台湾人を描いた、やはり史実にもとづく映画を見たことがありますが「悲情城市」といいこの映画といい、ひとつの国家の中でかくも残酷な民衆の圧殺が繰り返される民族的な悲劇を経験し、台湾の民衆はその精神的な共同性の深部で、おそらくはいまも本当には癒えない深い傷を負っているのだろうな、と思わずにはいられません。作品の出来、不出来はともかく、この監督がその民族的なトラウマのような深手から目を逸らすことなく、難しい主題に真正面から取り組んでいる姿勢はやはり見事なものだと思います。
saysei at 18:08│Comments(0)│