2024年08月29日

遠からず処分する本の撮影

 きょうはまだまだ本棚を占領する多くの本を眺めてため息をついたあげく、ふと思いついて、いまのうちにそれらを撮影しておいて、元気のある時、一挙にマーケットプレイスなりメルカリなりに出品して処分できるように準備だけしておこう、というわけで、白い紙を敷いて一冊ずつ本をのせ、表紙を撮ったり裏返したり、立てたりしてパチリパチリ。おう、これが全部売れたらン万円くらいにはなるかも、などとまったくの、とらぬ狸の皮算用などしておりました(笑)

 いつも1年くらいはご無沙汰していて、ある日突然電話で久しぶり、なんてかかってくる古い女性の友人から電話があり、彼女は画家(絵と写真の組み合わせというのか・・・)なので、こんど京都市内で個展を開くから来ないか、と。もちろん残念ながらそんなところへ出かけることはリスクが高すぎてまったく不可能なのでご辞退させてもらいましたが、もう彼女も齢80かと…世界をまたに飛び回りながら(いまはスリランカにいるそうですが)よくまあこの歳まで絵を描きつづけていられるなぁ、と感心します。

 話の最後に共通の友人の電話を訊かれたのですが、手元になくて2階へ行かないと分からないというと後でメールを送るから教えて、と言われてOKして電話を切ったのですが、その電話に出るのにパートナーに呼ばれて2階から急いで8段ほどの階段を下りてくるだけで呼吸困難を起こしそうになるほど息が切れて咳が連続して出て、はじめのうちは電話口で話すのもつらいほどで、とても友人の電話番号を調べにまた2階まであがる元気がなかったのです。

 彼女は私のブログもたまに見てくれているようで、それを読んでいると自転車で走ったりしていて元気そうに思えるし、自転車で個展に来れないか、というのですね。私があまり暑くない日に電動自転車に乗ってヘルメットにマスクの勇ましい姿で出かけるので、近所の方たちも、あの人案外元気そうじゃない?なんて思っていてくださるのかもしれないのですが、まぁ実は棺桶に両脚突っ込んでいまして、なんて、そうそうひとさまに触れ回るような話題でもないし、元気と思われていて悪いことはなにもないし、とパスしているのですが、さすがにお前自転車にのれるんなら、私の個展に自転車でくればいいじゃん、と言われるとね(笑)・・・

 もうひとつ彼女が言った言葉に、「うつる病気じゃないんでしょ?」というのがあって、これにはずっこけ、思わず笑ってしまいました。彼女らしいなぁ、と思ってね。ご心配なく、あなたにわたしからこの病気が「うつる」ことは金輪際ありませんから(笑)。でもあなたが私に(風邪やコロナやその他のあらゆる感染症を)うつす可能性はあるんですよ、と言ってもよかったけれど、まあやめておきました。
 昔から彼女はそんなふうに相手の立場や事情を思いはかるようなタイプではなくて、自分がこう思ったらそう言えばいいじゃないの、そうすればいいじゃないの、というストレートな、実にはっきりした性格なので、それはどうこう言ったって「治る」ようなものではないので(笑)。そして、そういう無邪気な幼女のようなあっけらかんとした自己中心の自我の強い押し出しこそが彼女そのものだし、そこが彼女の強さで、アーチストとしての彼女を支えてきたものだと思うし、ある意味では彼女の魅力でもあるのですからね。ただ、こちらが少し弱っているときは、こたえることがなきにしもあらず、ではあるのですがね(笑)

 そして電話を切ってから、友人の電話、電話、と思って探しながらふと思ったのは、そういえば私自身が彼に電話をかけたことなんて、少なくともこの5,6年、あるいはもっとずっと以前から、一度もないんじゃないか、ということでした。
 そして、電話を教える、と思ったとき、ふっと心の中になにか抵抗を感じたのはなぜだろう、と考えてみました。そうすると、いまの若い人は、電話なんて(ごく親しい友人や家族以外には)かけないだろう、ということに思い当たります。
 考えてみれば電話というのは、いつも相手の事情などおかまいなしで、突然相手を電話口へよびつける強制的なメディアです。最近は据え置き電話にかかってくるのは、なにかの勧誘でなければ、詐欺の電話くらいのもので、ほとんどが迷惑電話です。ひとにコミュニケーションを強制するような、こういうメディアを日本人は好きではなく、それに代わるメディアが登場してくると、どんどん離れていきました。技術的にもそういう日本人のこころに適合するように、固定電話が携帯に、スマホになり、電話よりもメール、ライン等々へと変化していきました。

 その根底には、ひととひととの関係のありかたにおいて、できるかぎり相手に自分が影響を及ぼさないようにしよう、干渉したり、その人のリズムを乱したりしないようにしよう、という考え方、昔のような熱い、べたべたした人間関係を拒み、出来る限り淡い関係のありようを求めていく志向性が働いているように思います。
 私のような世代の者でもその点では若い人と同じで、人との関係はごく一部の例外を除いて、そういう淡いものであるほうが過ごしやすいと思っています。それは相手に対しても同じことで、自分の存在で相手に影響を与えるようなことはしたくない、相手のいまのありように干渉する結果になるようなことはしたくない、自分の波紋を相手の領域にまで広げたくない、というところがあります。

 だから、もともとそういう志向性にとって、旧式の電話というメディアは適合的ではないのですね。旧式のメディアをよく使うパートナーやその友達の奥さんたちも、電話をかけるときはかならず最初に「いま、いい?」と相手の都合を訊いてから用件をしゃべりはじめます。最初から「●●です!」などと名乗って相手の都合もかまわずいきなりしゃべり始めるような人は、ごくまれです。そういう人はだいたい想像力のない人、人の事情や立場を思いやることのできない人、として、あの人はああいう人だから、とちょっと特殊な目で見られているでしょう。

 これまでの半世紀ほどのあいだ、日本人はそういう繊細で微妙な人間関係のありようを、いっそう繊細に磨き上げ、そのための技術をも磨き上げてきたのではないかと思います。だからその間、こういう日本の人間関係の場を離れて海外でたくましく生き抜いてきた人に、それを分かれ、という方が無理なのかもしれません。もっとも、生来のキャラがそうである可能性もあるので、どっちがどうだかは分からないのですが(笑)

 まあそんなことを、きょうのちょっとした出来事から感じ、また考えさせられました。

 もちろん彼女にはメールの返事で友人のメールアドレスを知らせました。強制的なメディアである電話を好む人もあるでしょうし、双方がそれを好むならそうすればいいので、あとは本人たち次第。それを決めるのは仲介する私ではないので、私は連絡のつくメルアドを知らせるだけにとどめる、というのが私なりの配慮というわけです。


きょうの夕餉

 ★オクラ豆腐 
 オクラ豆腐のだしかけ

★トウガンと鶏団子のスープ煮
 トウガンと鶏団子のスープ煮

★蒸し鶏と生野菜(タマネギ、スプラウト)
 蒸し鶏と生野菜(タマネギ、スプラウト)

★小鯵のから揚げ
 小鯵のから揚げ

★茄子の糠漬け
 茄子の糠漬け

(以上でした)

 きょう大谷の始球式に登場したデコピンはすごい役割を見事に果たしたらしいですね。監督が大谷のホームランよりデコピンの始球式のボール運びのほうに感心していたそうです。(私はSNSを丹念にみないので、すべてパートナーからのマタギキですが・・・そのほうが想像力が働いて光景が目にうかぶようです)



 

saysei at 22:17│Comments(0)

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