2024年07月31日
藤原道綱のこと
「平安時代~気の向くままに」というタイトルで書いている歴史・文学のエッセイで、『蜻蛉日記』の第7回として、「道綱のこと」後篇をようやく今日書き終えてアップロードしました。少し時間がかかったのは、『蜻蛉日記』と『小右記』から道綱について書かれた記事を、とにかく全部辿ってみよう、と思って拾い始めたら、結局『蜻蛉日記』は全部、『小右記』も角川ソフィア文庫の抄録ではあるけれど、分厚い文庫本一冊全部、読み直すことになってしまったからでした。でもそのおかげで、ずいぶん楽しめました。
道綱は道長とは腹違いの兄弟で、本妻の子ではなく妾の子だったので、道長ら本妻の息子たちほどではなかったけれどもやはり父親のコネで大納言にまで出世はするのですが、権力の中枢に重要な座を占めるほどの公卿が当然備えるべき知識、経験、技量を養われる機会もなく、ただ夫の来訪を待ち、夫のつくる愛人に嫉妬の炎を燃やし、たった一人の息子道綱を溺愛するだけの「道綱の母」による事実上の母一人子一人の家庭で育てられた道綱は、筆頭大納言としての公務も満足にこなせず、身分・地位だけは高みに達しますが、同僚公卿たちからはまったくの無能者とみなされるようになってしまいます。形の上ではほとんど権力の頂点に達するほどの高みにのぼることができたのですが、まったく実質を伴わず、言ってみれば道長の手駒に使われただけに終わる、或る意味では哀れな存在に思えます。
彼の登場する記事を拾い集めてみても、なにか公的、政治的意味があるわけでも、個人としての深みが垣間見られるわけでもなく、たぶんほとんど意味はないのですが、道長らの影に隠れてほとんどまともに顧みられることもないこの人物が、どういう人間だったのか、ちょっと興味を覚えて辿ってみたわけです。彼の母が書いた『蜻蛉日記』に登場する限りでの、青年期二十歳くらいまでの彼は、ちょっとした宮廷の行事(賭弓や舞人としてのつとめなど)などでも人に勝るとも劣らない活躍を見せて両親が誇らしく感じるなど、むしろ優等生のようにさえ見えます。知性のほうはどうだったか分からないけれど、時折しか来ない父親と、よその女にうつつをぬかす夫を拒んだり反発したり心休まることのない母との間をなんとかつなごうと一所懸命なけなげな息子で、どこといって特別ひとに劣るような人物像にはみえません。
そうしてみると、やはり後に朝廷の官職を得て昇進していくにつれ、彼がもちまえの優しい心根だけではどうすることもできない、朝廷文化の伝統、しきたり、有職故実の知識と経験の圧倒的な不足が彼を苦しめ、周囲の公卿たちから軽んじられる主因となったのでしょう。
それは彼の資質的な能力や努力不足というよりは、やはりそうした環境に適応できるような教育をしてこなかった父兼家の罪ということになるでしょう。
当時の結婚をめぐる制度あるいは慣習、一夫多妻的な妾制度に苦しめられる女ごころをあからさまに描いたのが『蜻蛉日記』かもしれないけれど、一番の犠牲者は道綱であったといえるかもしれません。「道綱の母」には少なくともそうした自身のありようを選んだり拒んだりする選択の契機があったはずですが、その息子には自分が成人するまでそうした選択肢自体がなかったことは確かでしょうから。
実資に「小右記」で、自分の名前くらいしか書けず、一も二も分からないやつ、と蔑まれた道綱が、いささか哀れに思えました。
きょうの夕餉

トウガンと干し椎茸、豚肉のチキン味のスープ。蒸しどりを蒸したときにでてくる蒸し汁や、砂肝のコンフィの煮凝りなどを入れることで濃い奥行きのある味になったスープ。だからこのスープと蒸しどりの料理とはたいていセットになります。

蒸し鶏と砂肝の中華風あえ物。カイワレ、タマネギ、パクチー添え。からし醤油をつけていただきました。

もやしとゴーヤのチャンプルー。

ヒラスの味噌づけ。硬めの身ですが、味はとても美味しかった。

コリンキーの醤油漬け

茄子の糠漬け

食後に一口甘いもの、というので葛餅
(以上でした)
きょうも暑かった。このところ夕方6時すぎてから、庭の鉢などに水まきをします。さすがにこの暑さが続いて雨が降らないと、ハーブをはじめ葉っぱ類はしおれてしまいます。芙蓉は最初の一輪が咲いて喜んでいたら、あれから一輪も咲きません。あの一輪が先走りすぎていたのかな。たしかにうちの芙蓉はかなり咲くのが遅かったな、と思います。そのうちに咲いてくれるでしょう。
玄関脇の、われわれが「リュウゼツラン」だと思っていた植物が、ほったらかしなのに、今年も竜の舌のような棒状に巻いたような薄紫の花を幾本も咲かせています。サツキの並びには、先日來食べていたライチの種を埋めたので、芽が出ないかと毎日こちらも水をやっていますが、簡単には芽を出してくれそうにありません。
道綱は道長とは腹違いの兄弟で、本妻の子ではなく妾の子だったので、道長ら本妻の息子たちほどではなかったけれどもやはり父親のコネで大納言にまで出世はするのですが、権力の中枢に重要な座を占めるほどの公卿が当然備えるべき知識、経験、技量を養われる機会もなく、ただ夫の来訪を待ち、夫のつくる愛人に嫉妬の炎を燃やし、たった一人の息子道綱を溺愛するだけの「道綱の母」による事実上の母一人子一人の家庭で育てられた道綱は、筆頭大納言としての公務も満足にこなせず、身分・地位だけは高みに達しますが、同僚公卿たちからはまったくの無能者とみなされるようになってしまいます。形の上ではほとんど権力の頂点に達するほどの高みにのぼることができたのですが、まったく実質を伴わず、言ってみれば道長の手駒に使われただけに終わる、或る意味では哀れな存在に思えます。
彼の登場する記事を拾い集めてみても、なにか公的、政治的意味があるわけでも、個人としての深みが垣間見られるわけでもなく、たぶんほとんど意味はないのですが、道長らの影に隠れてほとんどまともに顧みられることもないこの人物が、どういう人間だったのか、ちょっと興味を覚えて辿ってみたわけです。彼の母が書いた『蜻蛉日記』に登場する限りでの、青年期二十歳くらいまでの彼は、ちょっとした宮廷の行事(賭弓や舞人としてのつとめなど)などでも人に勝るとも劣らない活躍を見せて両親が誇らしく感じるなど、むしろ優等生のようにさえ見えます。知性のほうはどうだったか分からないけれど、時折しか来ない父親と、よその女にうつつをぬかす夫を拒んだり反発したり心休まることのない母との間をなんとかつなごうと一所懸命なけなげな息子で、どこといって特別ひとに劣るような人物像にはみえません。
そうしてみると、やはり後に朝廷の官職を得て昇進していくにつれ、彼がもちまえの優しい心根だけではどうすることもできない、朝廷文化の伝統、しきたり、有職故実の知識と経験の圧倒的な不足が彼を苦しめ、周囲の公卿たちから軽んじられる主因となったのでしょう。
それは彼の資質的な能力や努力不足というよりは、やはりそうした環境に適応できるような教育をしてこなかった父兼家の罪ということになるでしょう。
当時の結婚をめぐる制度あるいは慣習、一夫多妻的な妾制度に苦しめられる女ごころをあからさまに描いたのが『蜻蛉日記』かもしれないけれど、一番の犠牲者は道綱であったといえるかもしれません。「道綱の母」には少なくともそうした自身のありようを選んだり拒んだりする選択の契機があったはずですが、その息子には自分が成人するまでそうした選択肢自体がなかったことは確かでしょうから。
実資に「小右記」で、自分の名前くらいしか書けず、一も二も分からないやつ、と蔑まれた道綱が、いささか哀れに思えました。
きょうの夕餉

トウガンと干し椎茸、豚肉のチキン味のスープ。蒸しどりを蒸したときにでてくる蒸し汁や、砂肝のコンフィの煮凝りなどを入れることで濃い奥行きのある味になったスープ。だからこのスープと蒸しどりの料理とはたいていセットになります。

蒸し鶏と砂肝の中華風あえ物。カイワレ、タマネギ、パクチー添え。からし醤油をつけていただきました。

もやしとゴーヤのチャンプルー。

ヒラスの味噌づけ。硬めの身ですが、味はとても美味しかった。

コリンキーの醤油漬け

茄子の糠漬け

食後に一口甘いもの、というので葛餅
(以上でした)
きょうも暑かった。このところ夕方6時すぎてから、庭の鉢などに水まきをします。さすがにこの暑さが続いて雨が降らないと、ハーブをはじめ葉っぱ類はしおれてしまいます。芙蓉は最初の一輪が咲いて喜んでいたら、あれから一輪も咲きません。あの一輪が先走りすぎていたのかな。たしかにうちの芙蓉はかなり咲くのが遅かったな、と思います。そのうちに咲いてくれるでしょう。
玄関脇の、われわれが「リュウゼツラン」だと思っていた植物が、ほったらかしなのに、今年も竜の舌のような棒状に巻いたような薄紫の花を幾本も咲かせています。サツキの並びには、先日來食べていたライチの種を埋めたので、芽が出ないかと毎日こちらも水をやっていますが、簡単には芽を出してくれそうにありません。
saysei at 21:50│Comments(0)│