2017年12月18日
「大旅行紀」と「天安門」
亡父が東亜同文書院の学生のとき、同院で恒例の卒業旅行ともいうべき中国国内の調査旅行をしたときの報告「大旅行紀」が愛知大学で創立60執念記念事業の一つとして2006年、オンデマンド出版されていたのを丸善雄松堂出版から入手することができ、今朝届いたので、早速ページを開いてみると、ありました!
父は第36期生ですが、その28班ほどの中の一つとして3人で江西省、九江・南昌方面へ昭和14年の夏に40日ほどの調査旅行に出かけています。6月1日に上海北駅を出て、報告書の最後、石灰窑の黄石港を見学後、筑後丸に乗船して帰途漢口へ向かうのが7月12日。
その間、蘇州、南京、蕪湖、安慶、小池口で役所や軍、特務機関、憲兵隊、商社などを訪れて現地の状況や貿易、商業などに関しての情報を仕入れ、主目的の九江、さらに南昌に至っています。九江は長江(揚子江)の中流から下流域の南岸に位置し、昔から「南に六道を開き途中五嶺を経る」と言われた交通の要所で、中国の四大米市、三大茶市とされる長江沿岸の重要港湾都市で、「九江孔殷」と言われ、長江がこの付近で諸川を集めて水勢を強めるところとのこと。いまは岡山の宇部だったかが姉妹都市提携かなにかしているようで、人口が500万を超える大都市です。
ここから定期船で湖口へ。戦時中でつい3月ほど前に激戦が行われたような場所ばかり行くので、街も崩壊していて、戦争の爪痕のすさまじさを実感しながらの旅です。宿泊所とてなく、現地の警備隊で仮寝を頼むような旅だったようです。湖口では、後ろの山を越えて1里半も行けば戦いの第一線で敵味方の歩哨が対峙している、といった状況でした。
ここでは町の西北端にある石鐘山に登って、湖口の荒廃した街の光景に息をのむ様子が記述から伝わってきます。石鐘山は詩人蘇東坡(蘇軾)の一文「石鐘山記」で知られています。
昔の書物に、石鐘山には不思議な音を出す石があると記されているのを、後世の士大夫たちはみな信じようともしなかった。蘇東披は地方に赴任する息子を見送り、たまたま石鐘山を通りかかって実際に自分でこれを確かめ、はじめて昔の人の言葉が真実だとわかった。実際に自分で確かめもしないで臆断するのはよくない、というような、どうってこともない内容ですが(笑)、漢文では名文なのかもしれませんね。
「旅行紀」では石鐘山に登る、という記述に、「かの蘇東坡の石鐘山記で有名な所である」とあって、大陸に学んだ彼等にはよく知られていたようです。
九江では南部のいまではユネスコの世界遺産にも登録されている観光名所廬山にも登っています。清少納言が御簾を上げるに際して「香炉峰の雪は簾を撥ねて看る」と教養を顕して中宮定子を微笑ませる例の香炉峰はこの廬山の一峰だそうで、元ネタは九江に左遷されていた白楽天ですね。
(廬山)
廬山では麓の蓮花洞に朝11時半について、そこから石段の嶮峻な登山道を登り、2時間半でようやく前方に牯嶺の街を望む高みに到達し、「奇峰、巨岩、千仭の峡谷あり、雲が悠然と湧き上り、右に飛び、左に舞ふ、正に天下の絶景なり」と感嘆するも、天候急変、不意の雷雨でずぶぬれになって下山したようです。
牯嶺の街、という文字を見て、どこかで見た町の名だなぁ、と思ってネットでこの二字を検索したら、たちどころに「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」のタイトルがわんさと出てきました(笑)。中国人監督で最も注目されるエドワード・ヤンの作品でした。もちろんあの「牯嶺」は台湾で、廬山の麓の街ではありませんが。
(いまの牯嶺)
三人の学生は九江から最終的な目的地南昌へ向かいます。いまの列車で1時間足らずのところです。ここが現代史で記録される地となったのは、1927年8月の武装蜂起(南昌起義)で、革命第一世代の周恩来や朱徳等が指導してここに人民解放軍が誕生したことによるでしょう。
無事に南昌での調査を終えた3人は、長江を遡って大冶というところへ行きます。ここは古来「大冶の劔」が知られた鉄を産する鉱山の中心で、彼らはその鉄山を見学し、この山を背後にもつ鉄鋼の精錬所の街石灰窑を訪れ、さらに積出港黄石港を見学して、旅の目的を終えています。
この報告集の報告文の記述は個人的な感想なども交えた紀行文みたいなもので、おそらく彼らが各地で実際にデータをとったり、訪問先でヒアリングしたりした詳細な調査報告は別途、大学や情報機関のようなところに提出されたのでしょう(これは私の憶測に過ぎませんが)。この「大旅行紀」の限りでは、それほど大した準備もしているように見えない、若い少々無鉄砲な若者三人の愉しくも呑気な戦時下の卒業旅行で、たしかにちょっと前まで戦闘が行われて日本軍が奪還した街とか山巓の要害だとかを泊る宿のあても食事のあてもないまま旅をするのですから「冒険旅行」には違いないけれど、そうした切迫感よりも、意気込んで大旅行に出かけたものの、船はないよ、といい加減にあしらわれて実はあることがわかって、駆け付けたがあとの祭りとか、ヒアリングしてはみたものの、たぶん学生相手と小ばかにされてろくな情報をもらえず憤ってみたり、せっかくの廬山に1人体調を崩していけなかったり、行った二人も天候急変への用意もなくぬれねずみで下山したり、大真面目な報告の行間に、世間知らずの若者の珍道中的な可笑しみも覗けるような旅行記でした。
もちろん関係の絶対性を言うならば、これら同文書院の学生たちの卒業旅行は、昔の江戸幕府の全国に配置した隠密による地方の情報収集と同じで、中国各地の実情を学生たちの脚を使い耳目を使って把握するインテリジェンス活動の一環として位置づけられる性格のものであったかもしれません。もっともこの旅行記に記された程度の観察ではものの役に立ったとは思えませんが(笑)、こういう経験を第一歩としてそのまま中国に残って行政機関や軍で、あるいは民間で活動を続けた人材を生み出していく教育的実習としての意味は大きかったのではないかと思います。
父は卒業後も民間企業(いまのテイジン関連会社)で働き、武義だったか奥地の蛍石を掘る工場の工場長をして500人前後の中国人従業員を指導する立場にあったらしく、母が内地から単身大陸に渡ったときも、1カ月くらい大陸の各地を新婚旅行してまわったらしいので、或いは学生時代からこういう形で大陸各地を訪れていたことが体験としても知識としても役立ったかもしれません。
この旅行記は税も入れると1万円を少し出るので、ちょっと買うのに躊躇したのですが、まぁ親父の痕跡(三人で分担執筆していて、それぞれの執筆分にイニシャルを残しているので、本人の書いた部分がわかる)に触れることができる、滅多にない機会なので、エイヤっと注文しました。
そうしたら、不思議なことに(笑)、それが届いた今日、私がアマゾンのマーケットプレイスで擬古書店をやって売っているものの内から、ちょうど引き換えのように、DVDの「天安門」が売れました。片方は軍国主義日本の国策高等教育機関の学生たちの書いた報告書、他方は現代の中国の歴史的恥部・いまもタブーの天安門事件のドキュメンタリー映画。なにか因縁めいていませんか?(笑)
このDVDはどうも廃盤らしくて、ほかの業者さんは2万円とか、すごい値段で売っていましたが、さすがに原価の倍以上で売るのはちょっとなぁ、とつい消費者心が出て(笑)1万円で出しておいたら、ちゃんと世の中にはそれを求めていて、買って下さる方があるんですね。
中国では絶対に販売できない一枚で、日本でも廃盤になったらどうなるんだ、と思いますが、もともと英語版で日本語字幕がつくやつなので、英語圏では引き続き販売されているのかもしれません。これは優れたドキュメンタリー映画で、天安門を辛くも抜け出した指導者たちの生々しい声がつぶさに記録されています。私自身もニュースの断片的な映像を除けば、このDVDによって、はじめて天安門広場に座り込んだ学生・民衆の指導者たちの実像に触れたような気がしました。それは決して英雄的な人たちでもないし、的確な判断ができた人たちでもない、生命の危険と民衆の命運を担わされた極度の緊張と恐怖の中で混乱もし、味方の中で四分五裂し、怯え、疲労困憊し、身体を震わせ、泣きじゃくりながら自己主張する、たまたま時代と切り結ぶ結果になった幾人かの平凡な若者の姿でした。