2022年09月28日
ロシアの悲惨
ロシアは侵略して奪ったウクライナの領土で、残っているロシア派の住民の住民投票を演出して、ロシアへの帰属を正当化する演出をやっているようです。この方式で正当化していくなら、どこへ侵略しても、敵対する民衆を殺したり囚人としてシベリアかどこかへ連れ去ったりして、ロシア支持派の住民だけ残し、住民投票を演出してロシア領土への編入を正当化できるでしょう。実際、プーチンは今後もそういうやり方でロシア(ソ連)崩壊以前のロシア領を取り戻そうという大ロシア妄想にとりつかれているようです。
プーチンがせっぱつまって核兵器を使用しようがすまいが、もうプーチンの行く末はほぼ見えていて、彼は彼の運命をたどるしかないでしょう。しかし問題はそのあとのロシアです。プーチンが権力を長く維持するほど、ウクライナではなくて、ロシア国内の荒廃は急激に進むでしょう。建物が破壊されず、国民の大多数がこれまでどおり生きているとしても、経済的、社会的、文化的な著しい頽廃、荒廃がいたるところで起きて、ロシア社会全体を根幹から蝕むことは疑いのないところです。
そうすると、プーチンを引きずり下ろしてロシアを導く役割を担った指導者(たち)が、運よくまっとうな連中だったとしても、そんな頽落の底に沈んだ社会を再び浮上させるのは至難の業でしょう。自分たちが侵略して破壊したウクライナにロシアは自分たちよりも優先的に再建の元手を差し出さなくてはならないでしょうし、その上で自分たち自身の救いがたい荒廃と頽廃の泥沼から起き上がらなくてはならないのです。
それは下手をすると第一次大戦後のドイツ社会のような状況に陥るのではないかと思います。国民の荒廃、頽廃が極まるとき、その危機に現れるのはナチスのようなファシズムの煽動者たちにちがいありません。傷口が大きければ大きいほど、危機が深ければ深いほど、国民全体で一致団結して克服しようとする超越的なエネルギーの結集を求める声が心に響くからこそ、ファシストたちがその共感を栄養にしてたちまち巨大化していくというわけです。
まだプーチンが他国を侵略している最中にプーチン後を語るのは早すぎるかもしれないけれど、いま悲惨な目にあっているウクライナ国民には申し訳ないけれど、プーチン後のロシア国民の悲惨はおそらくそれよりもはるかに深く長い年月にわたる悲惨となるだろうという気がします。
今日は終日の曇りでした。夕暮れの比叡(高野橋より)。
きょうは府立図書館へ借りた本を帰して、新たに、プラトンの「パルメニデス」と坂部恵さんの「かたり」というちょっと面白そうな文庫本、それに鷲田さんの「顔の現象学」を借りてきました。先般読んだ『平成転向論』の鷲田さんについての記述が面白かったので、昨日は手元にあってまだ読んでなかった彼の『思考のエシックス』を読んでいて、あわせて後期の(だろうと思いますが)具体的な問題を扱ったものも読んでみたくなったからです。
『思考のエシックス』はもともとの彼のアカデミックな専門分野である哲学的な問題をたぶん同僚にあたる哲学者どもを読者として思い浮かべながら書いた論文を集めたものなので、より普遍的な問題が扱われていて、語彙も哲学ジャーゴンにのっとっていて、半世紀こういう文体を避けてきた今の私にはとっても読みづらい、悪文の見本みたいなもので、すぐ投げ出さなかったのは、ま鷲田さんを読むのもこれが最後だろうし、仕方ないか、と少しの間つきあうことにしようかと思ったからで、きのう、きょう付き合ったからと言って、明日もつきあいたいと思うかどうかはわかりません(笑)。
高野橋の反対側の夕空。日が沈むのが早くなり、ちょっとのつもりで書店を覗いて外に出ると真っ暗で、心配したパートナーから携帯に珍しく電話が入って、あわてて帰りました。
きょうの夕餉
鯵のフライ、茄子と万願寺唐辛子とホジソ(紫蘇の実)のフライ。タルタルソースまたはふつうのソース。
鶏の手羽元と根菜(タマネギ、ダイコン、ニンジン、ジャガイモ)のスープ。すばらしく美味しかった。
ブロッコリ
オクラ豆腐
モズクきゅうり
小鮎の佃煮
紫蘇の実の佃煮。この紫蘇はわが家の庭に自生していまや大きく育ってたくさん実をつけている枝を折って来て、1時間ほどかかってパートナーが枝をしごいて、実だけを取り出して煮込んでつくだににしたものです。すごい量の枝だったけれど、佃煮に出来た量は、両手に載るビニール袋いっぱいだけとのこと。でも、あつあつごはんにたっぷり載せて食べるとすごく美味しい。山椒のように辛みはなく、優しい味です。こうして、ごくわずかずつでも、わが家の庭で自然にとれるものがあって、食卓に載せられるのは、なんとも嬉しく、幸せな気がします。
サラダ。
以上でした。
プーチンがせっぱつまって核兵器を使用しようがすまいが、もうプーチンの行く末はほぼ見えていて、彼は彼の運命をたどるしかないでしょう。しかし問題はそのあとのロシアです。プーチンが権力を長く維持するほど、ウクライナではなくて、ロシア国内の荒廃は急激に進むでしょう。建物が破壊されず、国民の大多数がこれまでどおり生きているとしても、経済的、社会的、文化的な著しい頽廃、荒廃がいたるところで起きて、ロシア社会全体を根幹から蝕むことは疑いのないところです。
そうすると、プーチンを引きずり下ろしてロシアを導く役割を担った指導者(たち)が、運よくまっとうな連中だったとしても、そんな頽落の底に沈んだ社会を再び浮上させるのは至難の業でしょう。自分たちが侵略して破壊したウクライナにロシアは自分たちよりも優先的に再建の元手を差し出さなくてはならないでしょうし、その上で自分たち自身の救いがたい荒廃と頽廃の泥沼から起き上がらなくてはならないのです。
それは下手をすると第一次大戦後のドイツ社会のような状況に陥るのではないかと思います。国民の荒廃、頽廃が極まるとき、その危機に現れるのはナチスのようなファシズムの煽動者たちにちがいありません。傷口が大きければ大きいほど、危機が深ければ深いほど、国民全体で一致団結して克服しようとする超越的なエネルギーの結集を求める声が心に響くからこそ、ファシストたちがその共感を栄養にしてたちまち巨大化していくというわけです。
まだプーチンが他国を侵略している最中にプーチン後を語るのは早すぎるかもしれないけれど、いま悲惨な目にあっているウクライナ国民には申し訳ないけれど、プーチン後のロシア国民の悲惨はおそらくそれよりもはるかに深く長い年月にわたる悲惨となるだろうという気がします。
今日は終日の曇りでした。夕暮れの比叡(高野橋より)。
きょうは府立図書館へ借りた本を帰して、新たに、プラトンの「パルメニデス」と坂部恵さんの「かたり」というちょっと面白そうな文庫本、それに鷲田さんの「顔の現象学」を借りてきました。先般読んだ『平成転向論』の鷲田さんについての記述が面白かったので、昨日は手元にあってまだ読んでなかった彼の『思考のエシックス』を読んでいて、あわせて後期の(だろうと思いますが)具体的な問題を扱ったものも読んでみたくなったからです。
『思考のエシックス』はもともとの彼のアカデミックな専門分野である哲学的な問題をたぶん同僚にあたる哲学者どもを読者として思い浮かべながら書いた論文を集めたものなので、より普遍的な問題が扱われていて、語彙も哲学ジャーゴンにのっとっていて、半世紀こういう文体を避けてきた今の私にはとっても読みづらい、悪文の見本みたいなもので、すぐ投げ出さなかったのは、ま鷲田さんを読むのもこれが最後だろうし、仕方ないか、と少しの間つきあうことにしようかと思ったからで、きのう、きょう付き合ったからと言って、明日もつきあいたいと思うかどうかはわかりません(笑)。
高野橋の反対側の夕空。日が沈むのが早くなり、ちょっとのつもりで書店を覗いて外に出ると真っ暗で、心配したパートナーから携帯に珍しく電話が入って、あわてて帰りました。
きょうの夕餉
鯵のフライ、茄子と万願寺唐辛子とホジソ(紫蘇の実)のフライ。タルタルソースまたはふつうのソース。
鶏の手羽元と根菜(タマネギ、ダイコン、ニンジン、ジャガイモ)のスープ。すばらしく美味しかった。
ブロッコリ
オクラ豆腐
モズクきゅうり
小鮎の佃煮
紫蘇の実の佃煮。この紫蘇はわが家の庭に自生していまや大きく育ってたくさん実をつけている枝を折って来て、1時間ほどかかってパートナーが枝をしごいて、実だけを取り出して煮込んでつくだににしたものです。すごい量の枝だったけれど、佃煮に出来た量は、両手に載るビニール袋いっぱいだけとのこと。でも、あつあつごはんにたっぷり載せて食べるとすごく美味しい。山椒のように辛みはなく、優しい味です。こうして、ごくわずかずつでも、わが家の庭で自然にとれるものがあって、食卓に載せられるのは、なんとも嬉しく、幸せな気がします。
サラダ。
以上でした。
saysei at 21:27│Comments(0)│