2022年06月30日

《自己陶冶》の日々

  フーコーによれば「生活の《私的》側面とか、個人の行為の価値とか、自分自身にいだく関心とかに、ますます大きな地位をあたえるような《個人主義》の、ヘレニズムならびにローマの世界における増大」が見られるということです。(引用はすべてフーコ―著田村俶訳『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』第二章より。以下同じ)

 その背後には、「政治的で社会的な枠組みの弱体化」があり、「個々の人間は国家のなかに組込まれる程度が以前にくらべて弱まり、相互にますます切離され、いっそう自分に依存するようになったので、哲学のなかに、いっそう個人本位の行動指針を探し求めたに違いない、というのである」とフーコーは伝聞形で通念に距離を置く言い方をしながらも、一旦は、必ずしもこれを頭から否定するわけではない微妙な言い方をしています。

 しかし、それにつづいて、キリスト教的な禁欲苦行の動きが「自己の自己への関係の、ただし私的生活の諸価値の下落という形式のもとでの、きわめて顕著な強化として現われた」こと、「しかもこの動きが修道共同生活の形式をおびたとき、それは修行生活の実践のなかに存在しえた個人主義的なものにたいする明白な拒否を表わした」ことに注意を促し、「帝政期に表明された性にかんする厳格な態度の要請は、増大していく個人主義の表われであったとは思われない」と明確にこの傾向を「個人主義」として集約することに否定的な見解を述べています。

 では彼はかわりにそうした一見個人主義的傾向と見えるものにどんな言葉(概念)を与えているかといえば、それは「自己の陶冶」です。
 フーコーは、先の個人主義を否定する言葉につづけてこう言います。「その要請の脈絡は、むしろ、かなり長期にわたる歴史的影響力をもった、だがこの時期に頂点に達したある現象によって特徴づけられている。すなわち、《自己の陶冶》とでも名づけてよい事態の進展であって、その陶冶においてこそ、自己の自己への関係は強化され、高い評価が与えられたのである。」

 《自己の陶冶》とは、ソクラテスが神に委託された言葉として、自らを裁く裁判官たちを前に語ったように、「配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてである」ということ、「人が自分自身に専念し自分自身に配慮し(heautou epimeleisthai)なければならないという観念」だ、とされ、それは生活術、つまりさまざまな形式をもった生活技術(technē tou biou)を伴うものだったということです。

 こうして「自己への配慮(希 epimeleia heautou, 羅 cura sui)を主題とした生活術のゆるやかな展開のなかで、帝政期の最初の二つの世紀は、一つの大いなる曲線の頂点、つまり、自己の陶冶にかんする一種の黄金時代、と見なしていい」ということになります。ただし、「この現象がかかわるのは、量的にはきわめて限られた社会集団、つまり文化の担い手であって、technē tou biou (生活技術)が何らかの意味と何らかの現実性を持ちうる社会集団に限定されるのは言うまでもない」と断わっています。

 この自己への配慮、自分自身への専念という主題はストア派をはじめ多くの哲学者の言説の中で繰り返されます。いま私たちの多くが手にとるセネカやマルクス・アウレリウスの遺した書物はそうした理念とそれに必然的に伴う実践的な生活術の記述に満ちています。

 「このepimeleia(配慮、自己への配慮のこと)は、時間を必要としている。しかも、この自己陶冶にふりあてるのが適切な配分を一日のなかや一生のなかで定めることは、自己陶冶の重大問題の一つである」・・・というわけで、セネカやエピクテトス、マルクス・アウレリウスは、人が自分自身に取り組むことに割くべきこの時間に言及しています。
 
 時として自分の通常のさまざまな活動と中断してまでも時間を割いておこなう心の修行によって可能になるのはどんなことなのか。フーコーは次のように要約しています。

自分自身と差し向かいになること、自分の過去をまとめること、過去の生活のすべてに目を配ること、着想をえたいと思う教訓や模範に読書をとおして慣れ親しむこと」であり、「しかも、自分のさまざまな活動から解き放たれて、欲望の静まる老年期を活かしつつ、セネカが哲学上の仕事で行なったように、スプリナが快適な生活の静けさのなかで行なったように、自己の掌握に完全に没頭すること」が可能になる、と。

 この部分を読んで、いま平均余命が著しく伸びた日本で多くの退職者にして後期高齢者が、半ば衒いから「終活」などと実は本気で明日にでも死ぬだろうなどとは露ほども考えていないくせに(笑)、ぼつぼつとやっていることというのは、こういうことなんじゃないか、と腑に落ちるような気がしたのです。

 古代ローマの帝政期などとは違って、宗教的なしばりも政治的なしばりも共同体のしばりも、もはや無いも同然のゆるゆる状態になり、個人主義の理念にいたってはお神輿に載るほどに少なくともタテマエ的にはこの社会に蔓延している中で、こうした傾向が強められることはある意味で当然のことでしょう。

 ただし、タテマエ的な理念としての個人主義は蔓延しても、これとフーコーが峻別してみせたセネカやエピクテトス、マルクス・アウレリウスのような《自己陶冶》は私たち第二次大戦後の日本人の多くが忘れ果てていた理念ではなかったかと思います。

 私自身も、ただの本好きとして様々な哲学者、思想家の書いた文章には触れてきたけれど、いま挙げたような哲学者たちは、同時代の人たちにとって生身の人間としては魅力のある人物であったかもしれないけれど、残された言葉は、どう生きようと勝手だろうと思える他人の人生に、こうすべし、ああするべからず、と恣意的な当為を持ち込んで、ありきたりの人生訓をもったいぶって語っただけの書物に思えて、最初から毛嫌いして洟もひっかけなかった、というのが正直のところです。

 しかし、たぶん、そこには重大な落とし穴があったので、いまようやく自分がそれを必要とする時になったらしいことを、ギリギリのところで感じているのかもしれません。

 周囲を見渡してみると、少しまえには、マルクス・アウレリウスの岩波文庫版がベストセラーになっていると聞いて驚いたことがありましたし、数年前に、年賀状だけのおつきあいを何十年もつづけている、もと熊本県の文化担当課のお役人だった当時働き盛りだったかたが定年を迎えて退職されたのちのある年の賀状に、「セネカに没頭しています」といった添え書きをひと言、書いていたことがありました。彼とはセネカどころか哲学だの思想だのといった話は、仕事でおつきあいしていた数年の間、一言も交わしたことが無かったので、ちょっと驚いたのです。

 おそらく私だけではなく、私たちいまの日本で老後を迎えている人たちの少なからぬ人たちの間に、これまでにないほど「自己への配慮」、「自己陶冶」へと向かう強い傾向が生じる理由があり、様々な欲望から解放されて、いまは静かに自分自身と向き合い、自分の生きていた時間の全てに目を配り、自分なりにまとめようと、それぞれに残された日々の中にそのための時間を配分し、その実践を可能とするようそれぞれの生活技術を活用して暮らしているのだろうと思うのです。

saysei at 12:53│Comments(0)

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