2021年08月31日

「フィールド・オブ・ドリームズ」をまた見る

 昨日NHKプレミアムだったか、「フィールド・オブ・ドリームズ」を放映していたので、何度目になるか分からないけれど、また見てしまいました。先日この映画のロケ地に撮影の折に建設された球場で、大リーグ(MLB)初の試合が実際に行われ、ヤンキースとホワイトヘッドが8対8のところホワイトヘッドが逆転サヨナラホームランで勝ったことや、映画の場面さながらに選手たちが球場を囲むトウモロコシ畠から現れたり、映画に主演したケビン・コスナーも来て、ここは天国会?という映画の中のシューレス・ジョーや父親の言葉を言うシーンもニュースで紹介されていました。

 あの報道を見て、もう一度見たいな、と思っていたら、タイミングよく放映してくれたのは、きっと視聴者からも要望が多くて、NHKがそれに応えたのではないかという気がします。味なことをするものです。

 こんかいまたこの映画を見て、あらためてつくづく感嘆させられたのは、こんなどこにでもありそうな、父と子のちょっとした葛藤で心に生じた傷を抱えて長い年月を過ごした中年男の自己回復の話を、これだけの現実にはありえない、しかし人々が現実であってほしいと強く願うことによって本当に現実になってしまうかのような世界、よくもまあ見事に創り上げたものだ、という、作家と映画作家のすばらしい創造力でした。

 ケビン・コスナー演じる主人公は、60年代の若者に広がった自由と旧秩序、旧世代への反抗の精神が素地になった時代の空気に浸り、かといってこれといった夢も持てず、ただ父親に反抗して家を飛び出し、冴えない人生を送って、気づけばアイオアの片田舎でトウモロコシ畑を耕す貧しい農家を営む、妻子持ちの冴えない中年男になっています。

 その彼がある時、トウモロコシ畑の中にいて、「つくれば彼がやってくる」という不思議な声を聴きます。繰り返し聞こえるその声の意味は彼にもわかりません。何を作ればなのか、誰が来るというのか・・・その謎がことのはじまりで、少しずつ彼に、そしてみている観客の私たちにもその謎が解き明かされて行きます。その謎解きの為に主人公が動き出し、他者と関わりを持っていくプロセスがこの映画の時間を自然な形で引っ張っていきます。

 私たちには当初見えていず、彼自身も気づいていない、物語の始まる以前の、物語発生の核心の所に、若い日の彼と父親との葛藤と、そこで彼が心の傷を負って中年になるいままで、自分でそれと自覚することもなく抱えてきている、という過去があります。そして、そんな若い日の彼を形づくっていた、60年代アメリカの若者の風俗、文化、思想。生き方・・・彼が生きて来た時代の空気、そのときには彼の目にも見えなかっただろう空気が、いまは確かに具体的な色や形を備えて存在していたことが、観客の私たちにも鮮やかに見えてきます。

 私のようにその時代を彼と同じように若者として生きた凡庸な者にも、この映画が涙無くして見られないのは、ただストーリーや俳優の演技の卓抜さだけではなく、確かに存在しその中で生きていたのに、自分には見えていなかったあの時代の空気が、たまらない哀切の情を込めて全篇の背後を流れているからです。

 彼の良き理解者である妻アニーは、最も明瞭にその空気を体現し、象徴する人物ですが、その描き方は絶妙で、滑稽な人物になりかねない、ギリギリのところで、私たちにとってはこの上なく共感でき、最高に好ましいキャラクターとして踏みとどまっています。そのギリギリの距離感に、この作品を創り出した作家(あるいは映像作家)の、あの時代への絶妙な距離の取り方が示されています。

 ストーリーなんか追うより、見て無い人はぜひ見てほしいので、これでやめておきますが、映画を素晴らしいものにしている、いくつも要素の中で、やはりキャスティングのすばらしさに触れないわけにはいかないでしょう。
 ケビン・コスナーもとても良かったけれど、妻アニーを演じたエイミー・マディガン、子役のギャビー・ホフマン、それに何と言ってもシューレス・ジョー・ジャクソンを演じて、その存在感だけで他の俳優では絶対ダメだったろうと思わせレイ・リオッタ、それからこの人も亡くなった肉親が生きている家族の強い願望でこの世に現われれば、こういう表情をしているほかはないな、と思わせるような風貌を野球のマスクをとってあらわした父ジョン・キンセラ役のドワイヤー・ブラウン、それから「ヴェラクルス」や「許されざる者」(イーストウッドのではありません)などの西部劇でさんざん見てきて私もファンだった、ドクター・グラハム役のバート・ランカスター、60年代若者文化と切っても切れない関係にあるサリンジャーがモデルの作家テレンス・マンを演じたジェーームズ・アール・ジョーンズと、綺羅星のようなキャスティングです。

 私はフィル・アルデン・ロビンソンという映画監督をたぶんこの映画でしか知らないのですが、これ一作で充分でしょう、という感じです。
 先ほど俳優名を確認するためにウィキペディアで映画名を検索してその記事を見たら、この作品は米国でアカデミー賞作品賞、脚色賞、作曲賞にノミネートされたそうですが、海外で8つの映画賞にノミネートされ、5つの賞を受けたそうですが、そのうち4つは日本の賞だったそうです。ひょっとしたら日本人好みなのかな(笑)。まぁ野球をやっている国は世界にそう多くないはずだし、これだけ野球が特別なものとして描かれるのは米国くらいかもしれません。

 その意味ではアメリカにまだ若者の夢と希望があり、同時にそれゆえ反抗に意味があるとも感じられた60年代を限りない哀切さをもって歌い上げたファンタジーだともいえるし、恐らく批評家的な冷徹な目でアートとして作品を評価すれば、大甘なロマンチスト向きファンタジーということになるところはあるでしょう。
 しかし私などは、どんなにプロの批評家が称揚しがちな、社会性やら政治性やらの「問題意識」を孕んだ作品だとしても、ごくありふれた観客の心を動かさない作品を少しもいい作品だと言いう気にはなれないし、ひとに見ろ見ろと熱心に勧める気にもなれません。この映画は、文句なしに何度でも見ることをお勧めします。

saysei at 15:28│Comments(0)

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