2021年03月29日

「啓蒙とは何か」 ~カントとフーコー

 「啓蒙」という言葉は、日常語としては近年あまり使われなくなっているのではないでしょうか。何となく知識を蓄えた連中、知識人たちが、無知な民衆の「蒙を啓く」という、上から目線みたいな語感があって、「自己啓発」のような言葉に置き換えられてきたように思います。

 それでも新聞記事で見かける、会社員の「自己啓発」の事例というのは、どこか外部でやっているビジネスマン向けの経営講座にかようとか、語学教室に通うとか、プログラミング講座にかようなどして、仕事に関係があってもなくても、仕事で義務付けられてはいない、知識やスキルの獲得、向上を目的に、社会人になっても学習活動をやっています、というふうなものが多いようです。学ぼうという意志は自発的なものですが、その中身は自分が持っていない知識やスキルを外部から与えてもらおう、という学校時代の学習と本質的に変わりないもののようにみえます。そこに「啓蒙」という言葉のニュアンスがまだ影を落としているのではないかと思います。

 私自身も、「啓蒙」という言葉を聴くと、そんなふうに外部から何か新しい知識を注入され、刺激されてこちらの「蒙が啓かれる」という、漠然とした受動的な印象をもっていたような気がします。

 哲学者のカントは、『啓蒙とは何か』という、邦訳の文庫本で17ページほどの短い文章でこのテーマを論じて、そんな受動的な意味とは正反対の定義を「啓蒙」(Aufklärung)という言葉に与えています。
  
  啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳。下線部は邦訳で傍点の付された箇所。光文社古典新訳文庫より。以下カントについては同じ)

 カントにとって啓蒙とは、理性の行使だということのようです。ここで「理性」と訳されているのは、従来の邦訳では「悟性」(Verstand)と訳されてきたものですが、少し広い意味だというのでここでの訳者は「理性」と訳しています。
 「啓蒙」は、ドイツ語のAufklärungのauf=on、klärung=clarification(明確化)、ラテン語だとillustratioで、これは光で明るく照らす、というような意味合いでしょうし、英語のEnlightenmentやフランス語のLumièresには光(lumen)というラテン語が埋め込まれているのがわかります。それを思えばカントが理性を行使して、その理性の光で物事を自分で判断できるようになることが「啓蒙」なんだ、と言うのはごく自然な感じがします。

 そこでは外部の知識の受け渡しなどは問題外で、むしろそんな外部のなにか(「他人の指示」と言われていますが)を持ち込むことで、はじめて理性を使う、というようなのは「啓蒙」の反対物でしかなくなってしまいます。自分自身の理性の光によってものごとを明るみに出し、判断できるかどうか、他人によっかかっててしか判断できないか、その一点に、成年か未成年かの区画線があり、啓蒙とは他人に寄っかかってしか理性を行使できない未成年状態から、自ら理性を行使する成年に転じることを言うのだ、と言っていることになります。

 じゃどうして多くの人間たちは、みずから未成年状態にとどまってそこから抜け出せないのか。それは基本的には他人によっかかっていれば樂だから、という経済合理性があるわけだけれど、理性を使う訓練を受けていないからでもある。さらに、人々が理性を行使するのを邪魔したり誤用させたりするような社会的な仕掛けがある。法律だとか、さまざまな決まりがそれで、人間が自分の脚で歩くのを妨げる足枷になっているのだ、とカントは論じています。

 このへんまでは、啓蒙ということを知識の授受みたいなイメージから転換して、カントのいうように他人に指示されてではなく、自ら理性を行使して判断し、行動できるようになることだという考えを前提に置けば、よくわかる議論で、「公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよい」のだが、実際の社会では色々な場面で自由が制約されている、と語り、では「啓蒙を妨げているのはどのような制約だろうか」と問うあたりまでは、なんだか当たり前のことを言っているようにも思えてきます。

 ところが次に、カントが、その「理性の使用」に関して、「公的な利用」と「私的な利用」という区別を持ち出すあたりから、素直に常識的な「公的」と「私的」の語感で読んでいると多少混乱させられます。
 「公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよい」というときの「自由」とは、「自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由」であり、その自由さえあればよい、と言います。では、その「公的に使用する」とか「私的に使用する」とはどういうことでしょうか。

 さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。

 「学者」が何でこんなところに出てくるんだ?とか、「市民としての地位または官職についている者として」というのは「私的」な場面じゃなくて「公的」な場面じゃないのか?とか、この文章に出くわしたときは思いました。

 しかしここで「市民としての地位または官職についている者として」と言われている例として、公的な利害にかかわる業務にたずさわる場合の公務員を挙げているのをみると、これは「公的な」立場であり、「公的な」言動そのものではないか、と言いたくなります。でも、それはカントの言い方では「私的な」場面であり、「私的な」立場であり、「私的な」理性の使用なのです。

 ほかにカントが挙げている「理性の私的な利用」の例、「理性の私的な利用」に制約が課されても仕方がないとするシチュエーションは、例えば上官から命令されて任務に携わる将校は、その命令が目的に適ったものではないなどとあからさまに議論することはできない、とか、市民は課せられた税金の支払いを拒むことはできない、とか、教会の牧師が教区の信徒に語るときには、所属する教会の定めた信条に従って講話を行う責務がある、といったことです。
 こういう時に語る言葉やとる行動は、カントにとっては「理性の私的な使用」によるものです。それは彼によればしばしば制約があるものだし、いつも自由というわけではない。

 他方、「理性の公的な使用」と彼が言うのは、役所であれ軍隊であれ教会であれ、上の例と同様の組織に所属していたとしても、「みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合」における「理性の使用」であって、それはつねに自由であるべきだ、というのですね。

 上の例で言えば、上官の命令で任務に就く立場の将校であっても、「学者として、戦時の軍務における失策を指摘し、これを公衆に発表してその判断を仰ぐことが妨げられてはならない」し、また市民には納税の義務があってこれを拒否することはできず、納税の時期に課税を非難したりすべきではないけれども、他方で「こうした課税が適切でないか公正でないと判断して、学者としてその考えを公表すること」は市民としての義務に反するものではない。また、教会の牧師は所属教会の定めた信条に従って講話する義務があるが、「学者として、教会の信条に含まれる問題点について慎重に検討したすべての考えを善意のもとで公衆に発表し、キリスト教の組織と教会を改善する提案を示すこと」は全く自由だ、と。

 ここで「学者として」というのは、上に述べた「みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合」と読み換えれば理解できます。

 ふつう私たちの日常的な言葉の感覚では、こういうのこそ「私的な場面」であって、役人がお役所では「公的な」言動に終始すべきであり、役所を出て一人の私人に戻れば「私的な」立場で何を言おうがかまわない、と思ってきたのですが、カントの言葉づかいではその逆で、私たちが職業や身分・立場、組織等々の縛りから自由に、誰にも指示されずに理性を行使すべき、一人の個人、閉じた部分社会の一員ではなく、「全公共体の一員」あるはむしろ「世界野市民社会の一人」としての市民にたちもどるときこそが「公的」な場面なのであり、そこでの理性の行使が「理性の公的な行使」と呼ばれるものなのです。

 そして、カントはその「理性の公的な行使』は自由でなければならない、それが私たちが「未成年状態」から「成年状態」へ脱皮すること、つまり「啓蒙」の条件なんだ、と主張しているようです。

 カントの「私的」「公的」の区別は、具体的なイメージとしては、そこに聴衆として参加したり、関わり合いをもつ人々の拡がり、あるいはその人々のつながり、またはそういった人々が関わり合う場といったものが、閉じた集団や組織、閉じた場、閉じた系であるか、或いは反対に、極端にいえば「世界」にまで広がる市民社会という開かれた場、開放系、無限定な多数者であるか、という差異にあるようです。前者が「私的」な場であり、後者が「公的」な場と考えられています。

 カントが人間のあるべき姿と考えていたのは、一方では私たちの日常そのものである、職業人として様々な職業に就き、そのそれぞれがもつルールに従い、その制約のもとで考え、行動し(理性の私的使用)ながら、同時に世界市民の一人である個人として、なにものにも縛られずに、あらゆることを、まったく自由に考え(理性の公的使用)、それを公衆に対して発表する、そんな姿だったんだな、とここまできて、いささか感動させられます。

 でも、私はずっと以前にほかの人の訳でさっと目を通したこの短いカントの文章を、なにかちょっともやっとわからないところがあるけれど(たぶん、私的と公的の使い方をしっかり読み込んでなかったせいでしょうが)、別になにか新しいことが書いてあるようなものじゃないな、という感じで通り過ぎていたと思います。

 しかし、今回改めて新訳でこれを読んだあとに、フーコーの同じタイトルの一文を読んで、このカントの短い文章が孕んでいる問題というのが私などの思いも寄らない重い、大きなものであることが分かりました。フーコーの文章も邦訳の文庫本でわずか30ページほどの短いものですが、私には手に負えないほど濃密な中身だから読んだと言えるかどうかわからないけれど、まあ自分へのメモのつもりで書いて(邦訳を勝手に加工し切り貼りして)みます。フーコーについては以下すべて「啓蒙とは何か」(石田英敬訳。筑摩学芸文庫フーコー・コレクション6 生政治・統治 p362-395)によります。


 フーコーによれば、哲学的思考が自分自身の<現在>について反省しようとしてとってきた方法は次の三つです。
  ①<現在>を、世界のある一つの時代に属するもの、なんらかの固有な特徴によって他の時代とは区別され、あるいは、ある劇的な出来事によって他の時代から隔てられているもの、、として表象するやりかた。
  ②<現在>のうちに、次に起こる出来事を予告する徴(しるし)を読み取ろうとして<現在>を問うやりかた。
  ③<現在>を、新しい世界の夜明けへと向かう推移点として分析するやりかた。

 ところが、カントによる<啓蒙>の問題提起の仕方はこれらとは全く違う、というのがフーコーの考えです。別にカントは「現在と何か」について書いたわけじゃないと思うけど(笑)、カントの「啓蒙」へのアプローチはおのずから<現在>への独特の直截なアプローチになっている、ということをフーコーさんは自分の哲学史的な蘊蓄から、どのパターンでもないぞ、と位置づけてみせたということなんでしょうね。

  カントは、啓蒙をほとんど徹底的にネガティブな仕方で、一つの<Ausgang>、「脱出」、「出口」として定義する

 カントは他のテキストでは、起源を問うたり、歴史的発展の内実を問うたりしているけれども、この啓蒙論に関する限り、一つの全体や、将来の成就から出発して<現在>を理解しようとはしていない。
  
  啓蒙についてのこのテクストでは、問題は純粋な現在性(アクチュアリテ)に関したものなのだ

  彼は、<今日>は、<昨日>にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである
  
 こういうフーコーの評価は、抽象的な言い回しなので、私には読めていないかもしれませんが、カントが「啓蒙」を未成年状態から成年状態へと脱皮することだと考えていることを指して、歴史的なアプローチや訪れるだろう未来の予兆だとか変化していくものの推移点として<現在>をとらえようというのではなく、純粋に今ここで起きる現実として<脱出>、未成年状態でなくなる、という否定性において<現在>を語ろうとしていることを言っているんだろう、と思います。

 次にフーコーはカントが彼のいう「未成年状態」の実例を挙げている所に触れています。カントはこんな風に書いていました。

  わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。(中山元訳。前掲書)

 このカントの言葉を引いた後に、フーコーは「ついでに言えば」として次のように述べています。

  テクストは明示的にはそう言っていないにせよ、三大批判の領域をこの三例に容易に見て取ることができる(石田英敬訳。前掲書)

 こういう指摘にはハッとさせられます。カントが事例を挙げていても、ただ事例の並列としてさらっと読み過ごしていますから、ハハァと感心してしまう。でもほんまにカントさんはそこまで考えてこの三つを例に挙げたんかいな、と思わないでもないけど(笑)。哲学者というのはこういう人なんでしょうね。何気なく具体例をあげているようにみえても、それぞれちゃんと自分の体系の中で区分されるカテゴリーを意識して、それぞれに対応する事例を挙げているというわけです。その体系についてここでは全然ご本人は触れていないけれど、そういう構造を背後に背負った書き方をしている、と。それをちゃんと読み取るほうもすごいけど(笑)。

 この括弧書きは、ちょっと言っておくと、くらいで書かれてこれ以上ここでは詳しく触れられていませんが、後の方で、この論文と三批判の関係にきちんと触れ、その関係を強調すべきだと考えている、と述べたところがあります。カントのこの小論文の重要性を知る上で、さらにカントの「批判」の位置づけについてのフーコーの考えをうかがう上で、とても大事な指摘だから引用しておきましょう。

 この論文は、啓蒙を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとする時(モーメント)であると描いている。ところが、まさしくこの時こそ、<批判>が必要な時なのである。なぜなら、<批判>とは、ひとが認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定するために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とするものだからだ。錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。それに対し、理性の正当的な使用がその原理において明確に定義されたとき、理性の自律性は確保される。<批判>とは、言うならば、啓蒙において成人となった<理性>の航海日誌のようなものだ。

 フーコーはカントからこのような意味での<批判>を継承していったのでしょう。

 いずれにせよ、啓蒙は、<意志>、<権威>及び<理性の使用>の間にそれまでに存在していた関係の変化だと、定義されるのである。

 カントの定義は先に引いた通りで、このフーコーのような言葉で「定義」してはいなかったと思うけど、カントのいう、書物や牧師や医者に判断を委ねてしまうのではなくて、自分で理性を働かせる、ということは、結局、意志、権威、理性の使用という3項のあいだにあった従来の関係を変えてしまうことになるんだ、ということでしょうね。

 次にフーコーが指摘しているのは、カントがいう(未成年状態からの)「脱出」は、両義的な意味合いで提示されている、というようなことです。

 カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている。だが同時に、彼はそれを一つの使命、義務として提示してもいるのである。 

 あとのほうの意味合いで考えれば、人間自身が自分の未成年状態に責任がある、ということになりますから、カントはその点に注意を促している、と。だからこの「啓蒙」が「知る勇気を持て、知る大胆さを持て」という、他者に対すると同時に人々が自身に課す標語を持っていると言っているのだ、とフーコーは述べています。

 ここからフーコーは「啓蒙は、したがって、ひとびとが集団的に構成するプロセスであると同時に、また個人的に実行すべき勇気の行為でもあることになる」と言い、従ってまた、人々はそうした同一のプロセスの要素でもあると同時に行為主でもあり、プロセスの当事者として、そのプロセスを意志的に担おうとする限りにおいて、そのプロセスが起こる、ということになる、という意味のことを、カントの啓蒙についての考え方の論理的帰結として語っています。
 それに続いて彼は次のように書いています。

 カントのテクストにおいて、第三の困難があらわれるのは、まさにそこである。その困難は "Menschheit" (人類、人間性)という言葉の使い方にある。・・・啓蒙のプロセスのなかにとらえられているのは、人類の総体であると理解すべきなのか。そうだとすれば、啓蒙は、地球上の全ての人間の政治的社会的存在に関わる歴史的な変化である、と想像せねばならない。あるいはまた、啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のことだ、と理解すべきなのか。そうだとすれば、その変化とは何なのか、という問いが立つことになる。

 ここでもカントの答えは両義性を孕んでいて、単純そうに見えてかなり複雑なのだ、とフーコーは言うのです。この冒頭の、カントのテクストにおける「第三の困難」という言葉が私にはひっかかりました。じゃ、「第一の困難」、「第二の困難」はどこにある?フーコーは、どこにもそんな風に明示的に書いてくれてはいないのですね。(笑)

 「第三の困難」は人々が啓蒙という集団的に構成するプロセスの一要素でもあると同時に個人として実行すべき行為の行為主でもあるという当事者であって、その当事者が意志的にそう使用する限りでそのプロセスが起こる、という、論理的にみれば循環論法的な矛盾があって、原因はカントのこの啓蒙論における"Menschheit"(人類、人間性)という言葉の使い方がはらむ両義性にある、とフーコーは言っているようですから、それなら、少なくとも「第一の困難」、「第二の困難」の一方は、その前に指摘されていたもうひとつのカントの両義性、つまり、未成年状態からの「脱出」が、「一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけ」ると同時に「それを一つの使命、義務として提示してもいる」という両義性を孕んでいることにある、というところに当たるのかな、と考えたりもしてみたのですが、気にはなるけれど、いま通り一遍の読み方をしただけでは、私にはわかりません。

 Menschheitという言葉がカントの論文で出てくるのは、教会会議みたいなところが、不朽の教義なるものを採用し、それを宣誓によって定め、すべての信者を絶えず監視し、信者を介して国民にも監視を広げて、そんな教義に基づく制度を永続的なものにしようとすることがあるが、人間が啓蒙されることを永久に妨げることを目的とする、そんな契約が締結されてもまったく無効であり、たとえば次の世代の人々が認識を拡張してその教義や契約の誤謬を取り除いたり、啓蒙を推進することを禁じるなどということは「人間性に対する犯罪」というべきだ、と述べているようなところで登場する「人間性」という言葉です。
 カントは「人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにある」のだから、次の世代の人々はこんな(啓蒙を阻害しようとする)決議を廃止することができる、と述べています。

to be continued ・・・

  

saysei at 21:48│Comments(0)

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