2020年11月11日
スナップショット28 武谷三男と坂田昌一
理論物理学者の武谷三男さんと坂田昌一さんを間近に見たのはたった一度、二人そろって私が通学していた大学で開催された講演会に来てくれたときのことだ。私はまだ自分の実力もわきまえずに同じ学部へ入って来た多くの学生と同様に理論物理がやりたい、などと夢を抱いて大学に入学して間もない1回生だったはずだ。
どんなタイトルの講演だったかも、彼らを呼んだ主催者が大学だったのかどうかも覚えていない。私が記憶しているのはわずかに、講演後部会に分かれ、比較的少人数の学生に囲まれて質疑に応じた坂田さんの表情くらいのものだ。
そのころ理学部で理論物理の研究などを目指そうという学生にとって、日本初のノーベル賞受賞者として日本中に知られた湯川秀樹さん、或いはそれに続いて良く知られていた朝永振一郎さんを別にすれば、次の世代の理論物理学の最先端を走っていると思われた坂田さんや、日本の理論物理学の展開を科学史的に分析して戦前からその進むべき道を正しく方向づけてきた理論家としての武谷さんは憧れの的だった。
武谷さんの戦前からの文章を集めた『弁証法の諸問題』(第11冊1964年3月刊)は、分からないところもたくさんあったけれど、最初から最後まで熱心に読んだおぼえがあり、私にしては珍しく売り払ってしまわず、半世紀以上たったいまも手元にある。
この著書の中で、武谷さんは、マルクス主義的な立場を明確にしながらも、当時のマルクス主義者らに支配的だった、技術とは「労働手段の体系」だとする見解を批判し、「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。」という名高い技術の定義を示した。
1946年1月の論文だから、敗戦後間もない時期に書かれたものだが、技術の定義として、いまにいたるまで、これ以上のものはない。
このころにもずっと後にも、武谷技術論には階級的視点が欠如しているとか、社会的観点が抜けているとか、バカなことを言う連中がやまほど出て来たが、技術の本質は自然と人間を媒介するものだというところにあるので、その内在的過程に階級だの社会的観点だのを外挿しようとするから、「プロレタリアートのための科学」などという奇妙な「科学」が唱える者が出てきたりしたのも、いまでは嗤える昔話だ。
自然科学とは外的自然の認識という、それ自体が実践的な活動であり、技術とはその認識によって得られる客観的法則性の意識的適用だ、というこの考え方は、その後の私の科学や技術に対する考え方の根幹を形作ってきた。
この定義は、科学と技術との関係をものの見事に、明晰にズバリと言い切っていた。その後科学や技術について考える上で、この定義で支障を感じたことは一度もない。
また、彼のこうした考え方は、理論と実践を観念的に分離してとらえるような自称マルクス主義者の誤謬を私に教え、政治的実践においても、デモに参加するようなことだけを実践と思い込んでいるような連中を批判的に見る観点を与えてくれた。
武谷さんがすでに学生時代から物理学史を検討する過程で導き出していたらしい、いわゆる「武谷三段階説」は、武谷さんがすでに昭和9年、卒業論文で唱えていた科学史的認識だったようだ。
…俗流認識論が、物理学の認識は経験から法則を抽象し、数学的に記述することであるといっていることは、全くの無意味であることを知った。わたしは昭和九年、卒業論文において、物理学の認識は、その発展において一つの重要な注目すべき段階、すなわち何がそこにあるか、いかなる構造になっているかということを知る段階を経、これをふみ台にしなければならないこと、原子核物理学の当時の状態は、まことにこのような段階にあり、素粒子の発見と原子核構造の解明の時期であり、矛盾はこの方向に吸収されることを指摘したのである。
これをわたしは実体論的方法と名づけ、これによりわたしは新カント派や、マッハ的な立場を完全にすてて唯物論の哲学に向って進んだ。(「現代物理学と認識論」より)
現象と本質、というのはもろもろの哲学をはじめ、誰もが言う認識のカテゴリーなので、武谷三段階説のポイントが「実体論的段階」を認識過程の重要な段階として認めたところにあることが、この文章でもよくわかる。さらにその少し先で、彼はあらためて三段階説を定式化して述べている。
物理学の発展は、第一に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第二に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第三にそれが相互作用のもとにいかなる運動原理にしたがって運動しているかという、即自かつ向自的な本質論的段階の、三つの段階においておこなわれること・・・(同前)
彼は理論物理学者として、こうした科学史的認識に依拠して、当時の理論物理学の研究に現実的な方向付けを与えようとし、例えばニールス・ボーアの相補性理論を厳しく批判している。もとより私に相補性理論の意味するところが理解できるわけもなかったけれど、武谷さんの記述から学んだことは、どんなにすぐれた理論物理学上の発見をした学者であっても、自分の仕事に対する彼自身の解釈が正しいか否かはまた別であり、解釈のほうはその人の世界観や認識論的な方法上の制約によって誤ることがあり、それは理論物理学の認識自体が実践的に試されるのとは別に、認識論的な根拠が試されなければならない、ということだった。
こうした見解は、理論物理学者に限らず、様々な分野で偉業を成し遂げた人々が、自分の成し遂げたことの意義を必ずしも正確に語るとは限らないこと、まして優れた仕事をした人がかならずしも別の領域のことに対してもまともな認識が示せるとは限らないことを私に教え、のちのち、一級の科学者が原子力や原発のことで馬鹿なことを言ったり、ノーベル賞受賞者が社会的な問題については誤った凡庸なことを発言するような場面で、冷静にそれらを批判的に聴く上で、私に大きな影響を与えたと思う。
のちに同じ大学へ来て講演した哲学者の鶴見俊輔は武谷三段階論を高く評価していた。ただ、そのときに「科学論をやるなら、(武谷のように)みずから科学者として、その技術も学んでやるべきだ」と言ったのが、既に数学や物理で落ちこぼれかけていた私にはひどくこたえた(笑)。もちろん、自然を対象とする認識である科学と、その科学を対象とする認識である哲学(認識論)とが全く別のものであることは武谷さんが書いていた通りで、鶴見さんのこういう言い方は原理としては両者を混同した誤謬に過ぎない。
しかし科学史の研究が扱う対象が科学という自然認識のありようである以上、科学の深い正確な理解なしに成り立たないことも明白であって、いくら科学史を研究し、科学者の成し遂げた結果としての現代科学の知識を身につけても、自らが第一線の科学者として研究の先端に身を置かずに例えば量子力学や素粒子論における自然認識のありようの正否を正しく言い当てることができるだろうか、という疑問は当然生じる。
その疑念がある以上、実際に科学の研究に携わる科学者たちの多くが、科学史的研究や科学哲学(認識論)などというものは、科学的実践の結果を合理的に説明するだけの哲学者のやることで、実際の科学研究の指針として役立つようなものではない、と考えるのも無理はないところがある。
武谷さん自身は科学哲学(認識論)は哲学自体としての根拠をもって成立するものであり、科学研究の指針となるべきものだと考えていたけれども、実際に武谷さんの言説が当時の若い理論物理学者たちに、指針として一定の影響力をもっていたとすれば、それは武谷さん自身が第一線の理論物理学者として同じ研究者仲間から評価される活動しているからではないか、という疑問を拭い去ることはできなかった。
そう考えると、理論物理の方はあきらめて科学史のほうへ傾きかけていた思いにもつまづきが生じた。
それでも武谷さんの著作はその後私が物を考える上でのベースを形作るものの考え方のひとつになって定着していったと思う。
いま読むと、冒頭でスターリンの言語学や毛沢東の著書を推薦したり、ルイセンコを評価したり、マルクス主義に取り込まれたヘーゲル的な概念で三段階説を定式化したり、いたるところでエンゲルスの自然弁証法に影響された考え方や語彙が使われ、唯物弁証法によらなければ正しい認識に到達することはできない、といった感じで、読むに堪えないと思う読者も多いだろうが、それは時代的制約というものだろう。
このころはまだ戦後民主主義者、戦後マルクス主義者が全盛の時代で、日本の知識人の間ではソ連や中国のまだ一枚岩に見えていた「社会主義」への幻想が支配的だった。その中で武谷さんが、エンゲルスなどのいわゆる自然弁証法の発想や語彙にどっぷりとつかった物言いをしていたのも無理はないと思うし、それにもかかわらず、マルクス主義的な技術論を批判して独自の技術論を打ち立てたのは高く評価すべきことだと、いまも思う。
当時理学部の同級生だった友人で、父親が私たちの大学で自然科学系の教授をしていた男から、その父親が「武谷など読んでいるとろくな研究者にならん。数学とか物理とかを一所懸命やっていればいいんだ」と言っている、と聞かされたことがあった。のちに父親と同じ大学の教授として科学者の道をまっとうに歩んでどこやらの学長だか副学長を勤めた彼と、研究者にもなれずに単なる風来坊になった私とを見れば、彼の父親の忠告は当たっていたわけだ(笑)。
けれど、私自身は当時も今も、彼の父親の言うところは、私のような出来の悪い学生への忠告としては正解かもしれないが、本当に科学研究の先端を拓くような優秀な学生に対しては間違っている、と思っている。
…科学者たちの間には、これまでの科学論の無能にたいする反感から、「そういうことをいっても何にも役に立たない」という言葉が口ぐせになり、何にたいしてでも、形式的にこの言葉をいいさえすればよいという風潮がある。物理学が、方法の問題の反省なしには、原理的な重要な点の打開はつねに不可能であったことは、すでに科学史のしめすところである。原理的にどうでもよいような問題をやっている人間は、何らこのような問題になやむ必要はない。しごく平穏無事でなにも「いわなく」ても、ことはすむのである。物理学の第一義的な問題ととっ組んでいる人は、つねにこのような点で頭をなやましているのである。(同前)
当時、「物理学の散歩道」と題して、日常的な身の回りの現象を物理学の応用でちょっとした実験をして見せて解説する面白い読み物が出版されて、結構読まれていた。私も楽しんで読んでいた。たとえば、背広をハンガーにかけておいたら、ほんとうに皺が伸びるのか、というようなこと(笑)を実際に実験で確かめて、素人にもわかるように力学的に説明する、というような本だった。
この講演会の時、武谷さんだったと思うが、「物理学の第一義的な問題と取っ組む」気のない人は、「物理学の散歩道」でも散歩していればいいんですよ、というふうな随分皮肉っぽいことを言っていたのを記憶している。彼は戦後すぐに(1946年3月)「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」という一文を書いて、哲学者を始め広く人文系の文化人らにも衝撃を与えたけれど、自身はあくまでも「物理学の第一義的な問題と取っ組んでいる」という強い自負を持っていたのだろう。
いま私の手元に残っている彼の著書は『弁証法の諸問題』(理論社)と『原子力発電』(岩波新書)だけだが、後者は一度手放してしまっていたので、福島の原発事故後に改めて古本で買い求めて通読した。福島原発事故はむろんのこと、スリーマイル島の原発事故もチェルノブイリ原発事故もまだ起きていない時期の記述にもかかわらず、現在でも原発関係の図書として最重要の必読基本図書と言っていい著作だと思う。
被爆のいわゆる「許容量」について流通している考え方に対する批判と再定義など、今もそのまま通用する。
福島原発で露呈された「原発ムラ」の原子核工学や原子力発電関係のいわゆる専門家たち、時の政権の掌の上でころがされた学者たちのご先祖にあたる連中のことも鋭く批判している。
そのご菊池正士氏が米国から帰ってきて、原子炉をつくるべしという意見を出した(雑誌『科学』1952年9月号)。その夏頃、日本学術会議の茅誠司氏と伏見康治氏が秘密裡に原子力計画を進めていることを、八月の終り頃になって素粒子論の若手研究者たちが探知し、問題にしはじめた。これは政府部内に原子力のための委員会をつくり、それによって研究費をとろうという計画で、政府、自由党の政治家と連絡があるらしいということであった。原子力こそ計画をたてるならフェアに公開の討論を大いになすべきだのに、暗々裡にやっていることが若手学者たちから非難のまとになった。(『原子力発電』序にかえて)
日本学術会議というのは、このころからどうしようもない連中がトップを牛耳っていたんだな、と苦笑せざるを得ないが、政権とつるんで御用学者たちのやることは、いつも国民に対して閉ざされ、情報公開を拒み、少数の政権に取り込まれた連中だけで、隠密裡、暗々裡にやってのける、ということがよくわかる。
彼らの末裔が日本の原発を絶対安全と保障してきた「原発ムラ」の学者たちだ。武谷さんが批判した当時は、まだしも多くの物理学者や原子核工学の専門家たちが、こうした政府と癒着して秘密裏に原子炉を創ろうというものたちに反対する立場を維持していた。しかし福島原発が起きる頃には、老いも若きもそうした分野の専門家として生きていくためには、御用学者として「原発ムラ」の住人にならざるを得ないほど状況は悪化していた。その結果が福島原発事故であることは明らかだ。
原発から出る「死の灰」廃棄物処理の問題への危惧も、武谷さんはこの本の中で強調している。しかし、彼は原子力の研究自体を否定してはいない。
若手物理学者の多くは、原水爆の今日の状勢の下では原子力の研究は一切否定すべきであるという見解であった。これに対して私の考えは、大国の核兵器独占、科学における機密体制を打破することが小国の1つの役割であり、日本のような被爆国がその主導権を取るべきであるというのであった。そのうえ日本においてわれわれ物理学者の主張は少数派であるから、たとえ原子力研究を否定しても、茅、伏見両氏らと政府が結びつけば、無原則的に推進されることは明らかであった。そのために、核兵器と、原子力の平和利用の間に明確な分離をするための原則を樹立すべきであると考えたのである。(同前)
当時の若手物理学者の多くが原子力の研究を一切否定すべきだと考えていた、というのは、事実だとすれば、今の状況とは本当に隔世の感がある。そして武谷さんの考え方は意外にも思える。スマイリー島原発事故やチェルノブイリ原発事故を経験したのちであったなら、武谷さんはどう考えただろうか、とは思うけれども、彼のこの時の考え方は、もちろん今の私たちから見れば原子力の負の面について楽観的に過ぎるように思えるだろうが、私は原理的にはしごくまっとうな議論だと思う。
彼の書いている「当時の若手物理学者の多く」の考え方は、いまでは朝の光の中に消えていく星の数よりまだ少なくなってしまった、かつての京大原子炉実験所の「熊取六人衆」と呼ばれた硬骨の研究者たち、反原発の立場に立つために生涯冷や飯を食わされ、研究費や昇進で明らかな差別を受けながら研究を続けてきた原子力安全研究グループの面々に受け継がれていただろう。他方、武谷さん的な考え方は、私が愛読してきた吉本(隆明)さんの『反核異論』などの論理と響き合うところがあると思う。
それはともかく、武谷さんの風貌は物理学者というよりやや気難しい評論家のように見えた。のちに江藤淳を知ったときに、見かけだけだけれど、顔立ちは違っても、何となく印象が似ているような気がした。陽性か陰性かといえば、陰性で、対他的に極めてシャープな批判的言辞が繰り出されるけれど、資質は内向的だと思われた。
これに対して坂田昌一さんは陽性で、外向的かどうかは分からないけれど、ソフトな印象を受けた。のちに考古学者の佐原真さんに接したとき、考古学少年がそのまま大人になって考古学者になったんだな、という印象を受けたけれど、坂田さんも少年時代に何か素朴な物理学的な現象に関心をもって好奇心を育てるうち、そのままの延長で理論物理学者までなってしまった、というふうにみえた。その眼は好奇心に輝く少年の目のように明るく澄んで、人懐っこそうにみえた。
分科会では一人の講師を囲んで学生たちとの質疑応答を交わすということだったので、武谷さんと坂田さんとどちらの分科会に行こうかと迷ったけれど、武谷さんの考え方はその一般向け著書でよくわかっていたので、その種の著書がなかったか、私が読んでいなかった坂田さんの分科会の方に参加した。何が話されたのか今では全く記憶にないけれど、坂田さんは学生たちの質問に対して終始にこやかに、本当に丁寧親切に答えていた印象だけが残っている。
坂田さんは、私たちの周辺で二中間子論でノーベル物理学賞の有力な候補者だと噂されていたけれど、学生の私たちにその理論が理解できるはずもなく、受賞の件は坂田さんの逝去で沙汰止みになってしまった。かれはイデオロギー的には当時、武谷さんと軌を一にして、私たちからみれば一心同体のようにいつも一緒にいるな、という印象を受けたけれど、武谷さんが先に引用した「哲学はいかにして有効さを取り戻しうるか」や、原子力発電について、物理学の領域を越えた思想的、社会的発言を盛んにおこなったのに対して、坂田さんの方はそうした方面でそれほど目立った発言や著書は無かったように記憶している。
当時はまだ日本ではマルクス主義、ソ連や中国のいわゆる「社会主義」への幻想が支配的であったから、武谷さんや坂田さんの発言もそうした進歩的文化人の言説の中にあったし、その政治的傾向は当時の日本共産党の路線に対して同伴的であったと思う。
その後、スターリン批判、中ソ対立、日本共産党と中国共産党の対立、文化大革命等々が生じる中で、武谷さんや坂田さんの思想や立場にどんな変化があったのか、なかったのか、もはや物理学とは関わりのない世界にはみ出た上に、思想的には吉本さんの安保闘争以後のいわゆる前衛批判、日共批判、中ソ共産党批判、進歩的文化人批判等々、一連の著作を読んで深甚な影響を受けて、もはや武谷さん流の「マルクス主義」にも全く関心を失った私には、フォローする気持ちも失せ、その後の二人について知らない。
ただ、番外のエピソードとしてちょっと書いておきたいのは、大学の教養部の時代に、クラスでベトナム戦争反対の決議をして、ビラをつくり、京都駅前などで自主的な署名活動をしたことがある。その折に集めたカンパを旅費に、クラスを代表して、数人の友人と東京のデモ行進に参加することになった。日共系だの反日共系だのといったことは、私たちにはどうでもよかったが、クラスで主導権をもっていたのが民青の連中だったせいか、日比谷公園の日共系の労働者や学生らの相当な規模のデモ隊に加わった。
出発予定の時刻が来ても出て行かないので何事かと思えば、今ここを空けると反日共系の連中がなだれ込んでくるから、公園に立ち入らせないよう占拠をつづけてほしい、というようなことだったらしい。そんなこと知るか!さっさと出発してデモに移れ‼というのが私たちの考え方だったけれど、まんまと党派的な意向に利用されてしまい、このときに日共系の党派的なものの考え方、自発的な民衆の意志を自分たちの党派的な思惑の為に好きなように利用する体質をささやかな体験のうちに覚り、その後の日共の様々な局面でのやり方やものの考え方を見抜く上でいい経験になった。
それはともかく、このとき散々待たされて真っ暗になってから公園を出たデモの中で、私の隣にいたのが坂田という学生だった。私は初対面だったが、一緒に行ったクラスメートの一人で民青の学生が、あれは坂田昌一の息子だ、と教えてくれた。クラスは違うが、同じ学年らしい。じゃ、やっぱり君と同じ民青なのか、と訊くと、いやぁ、彼が親父さんを見習ってくれるといいんだけど・・・とこぼすような言い方をしたところをみると、彼はどうやら民青ではなかったらしい。
細面で、細い目がどこか気弱な印象を受けたせいか、偉い親父さんを持つと大変なんだろうな、などと思ったのを覚えている。同じ理学部だというから、下手をすれば理論物理でもやって、親父さんと全く同じ道を歩むことになる。それは大変だろうな、と。
しかし彼は内向的というのでもなさそうで、割合平気で話しかけてきて、飄々とした軽みを感じさせもした。デモの最中だからほんの一言、二言かわしただけで、何を喋ったかも覚えてはいないが、父親のことは彼はもちろん私も口にしなかったことだけは確かだ。
あれは公園を出てどれくらいあとのことだったか、高架下へ行く直前くらいだったと思うが、向こうに大勢の機動隊員がずらっと並んでいるあたりで、自然発生的に高揚したデモ隊の一部が両手を広げて広い道幅いっぱいに広がる、いわゆるフランスデモを始めて、右へ左へ、激しくうねった。私がいたあたりもその波が来て、自然に気持ちが高ぶり、積極的にその波に乗ろうと手をいっぱいに広げようとした。
すると、手をつないでいた隣の坂田が、そんな私をいさめるように、「きょうはフランスデモはやらないから」と冷静に言って、手をひろげようとはしなかった。ちょっと笑みを浮かべて、けれども断固とした調子で、穏やかに諭すように言い、その一瞬で彼に対する私の印象は一変した。私は自分を恥じておとなしくもとの態勢に戻った。
右へ左へ、デモ隊が少し揺れはじめると、たちまち、行く手を封じて並んでいた機動隊員たちが、一斉に走り寄ってきて、私たちの横にピッタリ張り付いて盾を押し付け、うねりを押さえこみ、フランスデモの広がりを封じ込めにかかった。機動隊の盾が、ガチャガチャぶつかる鈍い金属音が緊迫感を高めた。彼らの組織的に統率のとれた力は圧倒的で、私たちの動きはすぐに封じられた。
たったそれだけのことだけれど、あのとき隣にいて手をとりあって夜の東京の街をデモ行進したのが坂田昌一さんの息子だった、ということと、きょうはフランスデモはやらないから、と穏やかに言った彼の表情はずっと記憶していた。その後は学内でも確か一度も彼に出会ったことはないし、彼がどんな生き方をしたのかも知らない。
今回坂田昌一さんをただ一度まぢかに観たときのことを書こうと思って、ふと彼の事を思い出し、ネットで調べてみると、1968年に京都大学の理学部を卒業した茨城大学の名誉教授らしい坂田文雄という人に行きついた。1944年生まれというから、同じ学年だろうし、あの坂田君に間違いないだろうと思った。プロフィールによれば、その職歴が「東京大学原子核研究所理論部助手」から始まっているので、やはり親父さんと同じ理論物理学を専攻したのだろうか。
そのサイトには彼の写真が添えられていた。恐らくすでに70歳を越えた今の年齢に近いとき撮られた写真で、白髪交じりの皺のある老顔には違いないが、その少し気弱そうな、優しい目は、まさにあの坂田君にほかならない、とすぐに直観できた。
彼は原子力関係の専門家として堂々たる人生を歩み、京大にも非常勤講師として戻って来たことがあり、最後はフランスのオルセー原子核研究所にも勤務したらしい。
彼とはあのデモのほんのひと時だけの接触だったけれども、いまも鮮明に彼のことは覚えている。もちろん私の大学入学時の憧れの研究者の一人だった坂田昌一さんの息子だったせいではあるけれど、親父さんとはまた全然違った資質を持つ青年として一瞬で強い印象を与えたことも間違いない。