2020年11月10日
沈痾自哀の文(山上憶良)
万葉集の中で山上憶良の作品が集中している巻の五に、「沈痾自哀の文」というのが採録されています。学生時代に買って以来ボロボロになっても傍に置いて時々見ている旺文社文庫の桜井満訳注『現代語訳対照万葉集』の現代語訳でその中の言葉をひろってみます。
ひそかに思うに、朝夕に山野で狩をして鳥獣を食べている者でさえ、やはり災害にあわずに世を渡ることができ、また、夜昼河や海で魚を釣ったり網で捕えたりする者でさえ、やはり幸せを受けてこの世を過ごしている、言うまでもなく、私は生を受けてから今日に至るまで、みずから身を修め善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない。それだから、仏・法・僧という三宝を礼拝して、一日として勤行しにということはなく、諸神を敬い重んじ、一晩として忘れるということがない。ああ恥ずかしいことだ、私はいったい何の罪を犯した報いで、こんな重病になったのであろうか。
冒頭から嘆き節です(笑)。みずから身を修め、善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない、・・・ホンマカイナ、と思うところはありますが、まあ彼の歌を詠んでも公的な仕事の場での同僚たちの間でも嫌われている様子もなく、また妻子を愛する良き家庭人でもあったらしいことがうかがえるので、信じてよいのかもしれません。こういうところは私とは違うので、私の場合は因果応報、悪事の報いだよ、と言われても、そうかもしれんな(笑)と思わなくもありません。でもこれに続く、、その病に苦しむ様子は、まったく憶良さんとかわるところがなく、同病相憐れむといったところです。
最初に病気にかかってから、年月はだんだんと重なった。いま年は74で、髯髪も白髪交じりで、筋肉の力も弱く疲れやすい。ただ年老いたばかりでなく、さらにこの病気になった。諺に「痛い傷に塩をかけ、短い材(き)の端までも切る」というのは、まさにこのことである。手足は動かず、関節はみなうずき、体ははなはだだるく、まるで鈞石を背負っているようである。布につかまって立ち上がろうとすると、翼が折れた鳥のようであり、杖にすがって歩こうとすると、びっこのロバのようである。
本当にお気の毒というしかない、惨憺たる状況ですね(笑)。でもこれが歳をとって病を得るということで、いまの私もまったく憶良翁と異なるところがありません。
思わず笑ってしまったのは次のようなところです。
昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った。特に楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景などの如きに至っては、皆世に存在した良い医者であって、治せない病気はなかったという。こうした医者を望んでもとてもいないであろう。もし聖医や霊薬に巡りあえたら、乞い願わくは、五臓を切開し、百病を捜し求め、膏肓という体内の奥底までも尋ねて行き、病気の逃れ隠れている所をはっきりさせたいことだと思う。
笑えるのは、「昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った」として、歴史上の名医の名を挙げ、今の世では「こうした医者を望んでもとてもいないであろう」と言っているところです。古代の昔も現代も、こういう悩みは同じなんですね(笑)。憶良の時代は日本人がやっと文字を(中国文字を借りて)使うようになった時代だから、歴史というのは存在しないわけで、記録は口承でしかないから、名医はみんな中国の医者。自分たちの歴史とは、中国の歴史だったんでしょうね。少なくとも文化的な伝統とか継承とかに関わる知識階級にとっては、自分たちの「いま」とつながっているのは、すべてが日々の生活のうちに還流して完結していた日本列島の住民たちの世界ではなくて、大陸の進化した文明の「むかし」であって、そこに連続した意識をもっていて違和感はなかったのかもしれません。
ところでもう少し先のところで、憶良は「仏典では『この人間世界の人の寿命は120歳』と」書いてあると言っています。今の人間の寿命も最高齢の人を考えるとそのあたりにきているらしいから、その仏典(『寿延経』とか言ってますが)の説は案外当たっているのかもしれませんね。
任徴君は、「病は口から入る。だから君子はその飲食を節制するのだ」と言った。この理によって言えば、人が病気になるのは、必ずしも妖鬼のしわざばかりではない。・・・(中略)・・・私の病気はおそらく飲食の招くところであって、自分で治せるようなものではないらしいということを知った。
病は気から、という諺はよく聞きますが、昔から(中国古代の昔から、「病は口から入る」という認識があったんですね。これは現代の医学からみても、かなり当たっているでしょう。古代は魑魅魍魎妖鬼の類が横行する時代のように言われていますが、こういう憶良の言い方などみると、半分くらいはそういうものを信じているけれども~というより、なにかそういう超自然的な力の存在を想定せざるを得ないと感じているけれども~一方では、非常にリアルな合理的な認識をちゃんとしていたんじゃないか、という気がしますね。それはもちろんふだんの生活の中で飲食の如何が病の発病と関係があるという経験を繰り返すことで形成された生活思想の一端であって、それが古代的な魑魅魍魎妖鬼の存在と同居していたんだろうと思います。あまり後者に力点を置きすぎて、古代はその種の現代人には想像しがたい精神世界だったように思うのは間違いじゃないかという気がします。
「帛公略説」に言うことには、「伏して思いみずから励むのは、この長生きをしたいがためである。生は貪るべく、死は恐れるべきである」と。天地の最大の福徳を生という。だから、死人は生きている鼠にも及ばないのである。王者諸侯であろうともいったん息の根が絶えると、金を山のように積みあげても、誰が富裕だと思おうか。威勢が海のように広大であっても、誰が富貴だと言おうか。「遊仙窟」に言うことには、「死人は一銭の値打ちもない」とある。
人は生きている間が華で、死んだら鼠にも及ばず、一銭の価値もない、と(笑)。これは厳しいですね。ちょっと死者を冒涜しすぎじゃないでしょうか。まぁ少しあとでさすがに自ら反省はしていますが。自分自身が間近に死を控えている身だと実感しているから、思わず吐き捨てた捨て台詞。
人の命のはかなさ、人生の虚しさを語って再び自分の病についての愚痴です。
今私は病気のために悩まされ、寝たり起きたりすることもできない。とにかく、なすすべがない。不幸の最もはなはだしいものが、すべて私に集中している。「人が乞い願えば天が聞き入れてくれる」という。もしそれが真実なら、仰ぎ願わくは、「すぐにこの病気を除き、幸いに平復することができるようにー」と。死人を鼠に喩えた。恥ずかしいことだと思っている。
最後に引用するのは、等しく人に訪れる死の恐怖とそれゆえの生の虚しさを語って、なかなかの名文だと思うので、読み下し文の方で引用しておきます。
世に恒(つね)の質(もの)無く、所以(ゆゑに)陵谷(りょうこく)も更(あらた)め変わる。人に定まれる期(とき)無し、所以に寿と夭と同(ひと)しからず。撃目(まばたき)の間に百齢已(すで)に尽き、臂(うで)を申(のば)すの頃(ま)に千代も亦た空し。旦(あした)には席上の主と作(な)るも、夕には泉下の客と為る。白き馬の走り来るも、黄泉(よみ)に何ぞ及ばん。隴上(はかのべ)の青き松は空しく信(あざむかぬ)剣を懸け、野中(のべ)の白き楊(やなぎ)は但(た)だ悲風に吹かる。是(こ)れ知る、世俗には本(もと)隠れ遁(のが)るるの室(へや)無く、原野には唯だ長夜の台(うてな)有るのみなるを。
先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖(あがな)いて免(まぬが)るること有らば、古人誰か価金(あがないのかね)無からん。未だ独り存(ながら)えて、遂に世の終りを見る者を聞かず。所以(ゆえ)に維摩大王も玉体を方丈に疾(や)ましめ、釈迦能仁(のうにん)も金容を双樹に掩(かく)せり。内教に曰く、黒闇の後に来るを欲せざれば、徳天の先に至るに入ること莫(な)かれ、と。故に知る、生まるれば必ず死有ることを。死を若(も)し欲せざれば、生まれざるに如かず。況(ま)してや縦(たと)い始終の恒(さだ)まれる数(ことわり)を覚るも、何ぞ存亡の大いなる期(とき)を慮(はか)る者ならんや。
俗道の変化は目を撃つがごとく、人事の経紀(けいき)は臂を申(の)ぶるが如し。空しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきょ)を行き、心力共に尽きて寄(やど)る所無し。
(最後の2行以外、この書き下し文だけは福永光司によるものを引用)
この世には永久不変の本質というものがなく、丘が谷になり谷が丘に変わる。また人にも定まった寿命というものがなく、長寿と夭折との差がある。あっという間に、百年も過ぎ、背伸びをする間に、千年も空しく去る。朝には宴会の主人としてふるまっていても、夕方にはもう黄泉の客となっている。白馬がいくら走って来ても、死のすばやさにはとても及ばない。墓の上の青松に空しく信義の剣がかかり、野中の墓地の白楊は、いたずらに悲風に吹かれている。ここにおいて、この世にはもとより死から免れて隠れ住むべき部屋はなく、荒野にもまた永久に続く夜の台、すなわち墓があるばかりであることを知った。昔の聖人たちもみな世を去り、近く聞えた賢人も留まってはいない。もし金で死を免れることができるものなら、古人の誰が死を免れるべき金がなかろうかー。これまで一人として生き長らえて、世の終りを見届けた者があることを聞かない。それゆえに維摩大士も玉体を方丈の室に病み、釈迦如来も尊い容姿を沙羅双樹で掩われたものでもある。仏典に言うことには、「黒闇天女が後ろから追って来ることを欲しない時には、功徳大天が先に来るのを受け入れるな」と言っている。(功徳大天とは生の女神であり、黒闇天女は死の女神である)。このことから、生まれた以上は必ず死ぬものだ、ということがわかる。死をもし望まない時には生まれてこないに限る。ましてや、たとえ始めがあれば終りがあるという世の道理を悟ったとしても、どうしてその生死の大事な定めを思い知ることができよう。
世の変転は瞬きをするほど短い間であり、人事の筋道は肘を延ばすほど短い間である。空しく浮雲と共に大空を行くようであり、心力共に尽きて寄る所もない。(現代語訳は桜井満訳より引用)
こういう文章を読むと、万葉の時代の歌人が同時代人のように身近に感じられます。
ひそかに思うに、朝夕に山野で狩をして鳥獣を食べている者でさえ、やはり災害にあわずに世を渡ることができ、また、夜昼河や海で魚を釣ったり網で捕えたりする者でさえ、やはり幸せを受けてこの世を過ごしている、言うまでもなく、私は生を受けてから今日に至るまで、みずから身を修め善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない。それだから、仏・法・僧という三宝を礼拝して、一日として勤行しにということはなく、諸神を敬い重んじ、一晩として忘れるということがない。ああ恥ずかしいことだ、私はいったい何の罪を犯した報いで、こんな重病になったのであろうか。
冒頭から嘆き節です(笑)。みずから身を修め、善行を志し、ついぞ悪事をなす心を抱いたことがない、・・・ホンマカイナ、と思うところはありますが、まあ彼の歌を詠んでも公的な仕事の場での同僚たちの間でも嫌われている様子もなく、また妻子を愛する良き家庭人でもあったらしいことがうかがえるので、信じてよいのかもしれません。こういうところは私とは違うので、私の場合は因果応報、悪事の報いだよ、と言われても、そうかもしれんな(笑)と思わなくもありません。でもこれに続く、、その病に苦しむ様子は、まったく憶良さんとかわるところがなく、同病相憐れむといったところです。
最初に病気にかかってから、年月はだんだんと重なった。いま年は74で、髯髪も白髪交じりで、筋肉の力も弱く疲れやすい。ただ年老いたばかりでなく、さらにこの病気になった。諺に「痛い傷に塩をかけ、短い材(き)の端までも切る」というのは、まさにこのことである。手足は動かず、関節はみなうずき、体ははなはだだるく、まるで鈞石を背負っているようである。布につかまって立ち上がろうとすると、翼が折れた鳥のようであり、杖にすがって歩こうとすると、びっこのロバのようである。
本当にお気の毒というしかない、惨憺たる状況ですね(笑)。でもこれが歳をとって病を得るということで、いまの私もまったく憶良翁と異なるところがありません。
思わず笑ってしまったのは次のようなところです。
昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った。特に楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景などの如きに至っては、皆世に存在した良い医者であって、治せない病気はなかったという。こうした医者を望んでもとてもいないであろう。もし聖医や霊薬に巡りあえたら、乞い願わくは、五臓を切開し、百病を捜し求め、膏肓という体内の奥底までも尋ねて行き、病気の逃れ隠れている所をはっきりさせたいことだと思う。
笑えるのは、「昔は良い医者がたくさんいて、人々の病気を救った」として、歴史上の名医の名を挙げ、今の世では「こうした医者を望んでもとてもいないであろう」と言っているところです。古代の昔も現代も、こういう悩みは同じなんですね(笑)。憶良の時代は日本人がやっと文字を(中国文字を借りて)使うようになった時代だから、歴史というのは存在しないわけで、記録は口承でしかないから、名医はみんな中国の医者。自分たちの歴史とは、中国の歴史だったんでしょうね。少なくとも文化的な伝統とか継承とかに関わる知識階級にとっては、自分たちの「いま」とつながっているのは、すべてが日々の生活のうちに還流して完結していた日本列島の住民たちの世界ではなくて、大陸の進化した文明の「むかし」であって、そこに連続した意識をもっていて違和感はなかったのかもしれません。
ところでもう少し先のところで、憶良は「仏典では『この人間世界の人の寿命は120歳』と」書いてあると言っています。今の人間の寿命も最高齢の人を考えるとそのあたりにきているらしいから、その仏典(『寿延経』とか言ってますが)の説は案外当たっているのかもしれませんね。
任徴君は、「病は口から入る。だから君子はその飲食を節制するのだ」と言った。この理によって言えば、人が病気になるのは、必ずしも妖鬼のしわざばかりではない。・・・(中略)・・・私の病気はおそらく飲食の招くところであって、自分で治せるようなものではないらしいということを知った。
病は気から、という諺はよく聞きますが、昔から(中国古代の昔から、「病は口から入る」という認識があったんですね。これは現代の医学からみても、かなり当たっているでしょう。古代は魑魅魍魎妖鬼の類が横行する時代のように言われていますが、こういう憶良の言い方などみると、半分くらいはそういうものを信じているけれども~というより、なにかそういう超自然的な力の存在を想定せざるを得ないと感じているけれども~一方では、非常にリアルな合理的な認識をちゃんとしていたんじゃないか、という気がしますね。それはもちろんふだんの生活の中で飲食の如何が病の発病と関係があるという経験を繰り返すことで形成された生活思想の一端であって、それが古代的な魑魅魍魎妖鬼の存在と同居していたんだろうと思います。あまり後者に力点を置きすぎて、古代はその種の現代人には想像しがたい精神世界だったように思うのは間違いじゃないかという気がします。
「帛公略説」に言うことには、「伏して思いみずから励むのは、この長生きをしたいがためである。生は貪るべく、死は恐れるべきである」と。天地の最大の福徳を生という。だから、死人は生きている鼠にも及ばないのである。王者諸侯であろうともいったん息の根が絶えると、金を山のように積みあげても、誰が富裕だと思おうか。威勢が海のように広大であっても、誰が富貴だと言おうか。「遊仙窟」に言うことには、「死人は一銭の値打ちもない」とある。
人は生きている間が華で、死んだら鼠にも及ばず、一銭の価値もない、と(笑)。これは厳しいですね。ちょっと死者を冒涜しすぎじゃないでしょうか。まぁ少しあとでさすがに自ら反省はしていますが。自分自身が間近に死を控えている身だと実感しているから、思わず吐き捨てた捨て台詞。
人の命のはかなさ、人生の虚しさを語って再び自分の病についての愚痴です。
今私は病気のために悩まされ、寝たり起きたりすることもできない。とにかく、なすすべがない。不幸の最もはなはだしいものが、すべて私に集中している。「人が乞い願えば天が聞き入れてくれる」という。もしそれが真実なら、仰ぎ願わくは、「すぐにこの病気を除き、幸いに平復することができるようにー」と。死人を鼠に喩えた。恥ずかしいことだと思っている。
最後に引用するのは、等しく人に訪れる死の恐怖とそれゆえの生の虚しさを語って、なかなかの名文だと思うので、読み下し文の方で引用しておきます。
世に恒(つね)の質(もの)無く、所以(ゆゑに)陵谷(りょうこく)も更(あらた)め変わる。人に定まれる期(とき)無し、所以に寿と夭と同(ひと)しからず。撃目(まばたき)の間に百齢已(すで)に尽き、臂(うで)を申(のば)すの頃(ま)に千代も亦た空し。旦(あした)には席上の主と作(な)るも、夕には泉下の客と為る。白き馬の走り来るも、黄泉(よみ)に何ぞ及ばん。隴上(はかのべ)の青き松は空しく信(あざむかぬ)剣を懸け、野中(のべ)の白き楊(やなぎ)は但(た)だ悲風に吹かる。是(こ)れ知る、世俗には本(もと)隠れ遁(のが)るるの室(へや)無く、原野には唯だ長夜の台(うてな)有るのみなるを。
先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖(あがな)いて免(まぬが)るること有らば、古人誰か価金(あがないのかね)無からん。未だ独り存(ながら)えて、遂に世の終りを見る者を聞かず。所以(ゆえ)に維摩大王も玉体を方丈に疾(や)ましめ、釈迦能仁(のうにん)も金容を双樹に掩(かく)せり。内教に曰く、黒闇の後に来るを欲せざれば、徳天の先に至るに入ること莫(な)かれ、と。故に知る、生まるれば必ず死有ることを。死を若(も)し欲せざれば、生まれざるに如かず。況(ま)してや縦(たと)い始終の恒(さだ)まれる数(ことわり)を覚るも、何ぞ存亡の大いなる期(とき)を慮(はか)る者ならんや。
俗道の変化は目を撃つがごとく、人事の経紀(けいき)は臂を申(の)ぶるが如し。空しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきょ)を行き、心力共に尽きて寄(やど)る所無し。
(最後の2行以外、この書き下し文だけは福永光司によるものを引用)
この世には永久不変の本質というものがなく、丘が谷になり谷が丘に変わる。また人にも定まった寿命というものがなく、長寿と夭折との差がある。あっという間に、百年も過ぎ、背伸びをする間に、千年も空しく去る。朝には宴会の主人としてふるまっていても、夕方にはもう黄泉の客となっている。白馬がいくら走って来ても、死のすばやさにはとても及ばない。墓の上の青松に空しく信義の剣がかかり、野中の墓地の白楊は、いたずらに悲風に吹かれている。ここにおいて、この世にはもとより死から免れて隠れ住むべき部屋はなく、荒野にもまた永久に続く夜の台、すなわち墓があるばかりであることを知った。昔の聖人たちもみな世を去り、近く聞えた賢人も留まってはいない。もし金で死を免れることができるものなら、古人の誰が死を免れるべき金がなかろうかー。これまで一人として生き長らえて、世の終りを見届けた者があることを聞かない。それゆえに維摩大士も玉体を方丈の室に病み、釈迦如来も尊い容姿を沙羅双樹で掩われたものでもある。仏典に言うことには、「黒闇天女が後ろから追って来ることを欲しない時には、功徳大天が先に来るのを受け入れるな」と言っている。(功徳大天とは生の女神であり、黒闇天女は死の女神である)。このことから、生まれた以上は必ず死ぬものだ、ということがわかる。死をもし望まない時には生まれてこないに限る。ましてや、たとえ始めがあれば終りがあるという世の道理を悟ったとしても、どうしてその生死の大事な定めを思い知ることができよう。
世の変転は瞬きをするほど短い間であり、人事の筋道は肘を延ばすほど短い間である。空しく浮雲と共に大空を行くようであり、心力共に尽きて寄る所もない。(現代語訳は桜井満訳より引用)
こういう文章を読むと、万葉の時代の歌人が同時代人のように身近に感じられます。
saysei at 15:42│Comments(0)│