2020年08月25日
スナップショット17 安藤忠雄さん
建築家安藤忠雄さんを間近に見たのは、多分一度だけ、大阪府の芸術文化センター(仮称)構想の企画会議の時だったと思う。木村重信さんを座長とする委員会で検討していたこの計画の事務局の手伝いを私のかつての勤務先が大阪府の担当部局から受託していたのだが、私はその主担当ではなく、別のプロジェクトとの関係で確かめたいこともあり、また受託組織として委員会の際に一応スタッフを二人出していますよ、というエクスキューズの為に、枯木も山の賑わいという意味もあったのだと思うが、主担当にくっついて会議に陪席した。
この計画の内容についても、もうおぼろげな記憶しかないが、美術が専門の木村重信さんが取りまとめ役になっていたので、芸術文化センターという仮称で検討してはいたけれど、中身は美術系のギャラリーだったと思う。同じころに私は大阪市で計画していた舞台芸術総合センター(仮称)計画の裏方で主担当をしていて、その計画と一部でもバッティングするのではないか、という点を確認するために、木村さんには別の機会に、彼が任されているこの府の芸術文化センター構想について、どんなものを考えているのかヒアリングに行った。そのとき彼は、府のほうは、一応メンバーにホール関係(音楽家だったかもしれない)の人も入ってはいるが、あくまでも美術系の施設にするつもりだから、市の構想とは全然バッティングしない、と確言していた。
委員会にも私は確か一度しか陪席していないので、安藤さんがそのメンバーであったことと、座長が木村さんだったことは覚えているけれど、全員でほんの5,6人だったにもかかわらず、ほかのメンバーが誰だったか記憶にない。おまけに、この委員会で検討した結果、その施設ができたのかどうかも情けないことに記憶がない。1980年代のことで、おそらくバブル景気の中で構想されて、バブル崩壊とともに頓挫したのではなかったかと思う(当時はそうして頓挫したその種の公共文化施設計画がたくさんあった)が、或いは中身や名称を変えて曲がりなりにも実現していたのかもしれない。
この会議で座長のはずの木村さんが一人よく喋っていて、座長が先にそんなに喋ったらほかの人は喋りにくかろうに、などと思ったことだけは覚えているけれど、中身の方は記憶がない。安藤さんもそう頻繁に発言してはいなかったと思うけれど、強く印象に残っているのは、何とも言えない存在感があったせいだろう。少なくとも大阪圏では名の知れた文化人から成る委員たちの中で、安藤さんはむしろつとめて存在感をなくすように控えめな態度をとっていたように思うけれど、いったん発言すると、その声はいわゆる「ドスの効いた」、迫力のある声だった。
それでも発言内容は今では何も覚えていない。
会議は何ということもなく木村さんペースで委員たちがそれに同意して、原案をオーソライズして終わったが、会議が終わってから木村さんは委員たちに、ちょっと一緒に一杯やりましょう、というような誘いかけをして、委員たち数人はそのまま残っていた。
私と同僚は、府の人と共に事務的な手じまいをし、座長にだけ挨拶してさっさと帰社しようとエレベーターに乗り込んで下りようとしたところへ、安藤さんが一人乗り込んできた。私の同僚は、安藤さんとも何度かこの計画の委員会で会い、個人的に依頼や説明をし、謝金渡しなどもして既に顔見知りだったので、一人でやって来た安藤さんに、「あれ?今から飲みに行くんじゃないんですか?」と訊いた。
安藤さんはニヤッと笑って、「どうもエライさんたちは苦手で」・・・
思わず笑ってしまった。安藤さんはすでに「住吉の長屋」(1976)で建築界に衝撃を与え、おそらくこの会議の少し前に完成していただろう「六甲の集合住宅」(1983)などとともに、そのころ盛んに一般の雑誌でも取り上げられ、おそらく最も脚光を浴びている建築家だったのではないかと思う。私たち後世代から見れば、もうエスタブリッシュメントになってしまった旧世代の建築家たちに対して全く新しい独創的なスタイルで挑戦状をたたきつけ、私たちの生活スタイルまでひっくり返してしまうような衝撃を与える最前衛の建築家として、どうみても「一番エライ」人はあなたでしょう、と思うような人だったからだ。
その後も安藤さんは、中之島プロジェクトで大阪市の中央公会堂の中に卵型の空間を創ってしまう「アーバンエッグ計画」(1988)で私たちを驚かせ、北海道の「水の教会」や茨木市の「光の教会」(1989)といった斬新な現代の宗教空間を創造し、私自身も彼が設計したから、という理由で、「姫路文学館」(1991)、「陶板名画の庭」(1994)、「直島コンテンポラリーアートミュージアム”オーバル“」などの現物を見に行ったものだ。
でも彼本人に間近に会えたのはあの委員会のあとのエレベーターの中でほんの一瞬だけだった。その後、ただ一度、どこかが主催した全国的な文化行政か何かの会議かシンポジウムに合わせて企画された目玉イベントとして彼が講演したとき、何百人かひょっとしたら千人以上もの来場者が詰めかけた会場の比較的前の席で彼の講演を聴いたことがあった。
久しぶりに見る彼は、相変わらず内側に強烈なエネルギーを秘めた人のように存在感があり、喋り方にも迫力があった。彼は高校時代にプロボクサーのライセンスを取ってフェザー級のボクサーだった時期があるらしいが、あの精悍な顔つきはまさにプロボクサーのもので、頭でっかちな知識人タイプの対極にあるものだった。そういう人が喋ると、言葉も筋骨たくましい肉体を持つようなところがあって、なまじっかな文化人の言葉とは違って信頼感があった。
彼は私の同僚によれば、私たちのような事務局の手伝いをしているだけの若いスタッフにも「エライさん」めいた緊張感を強いるようなところはまるでなく、私の一瞬の出会いの際も、少しはにかみがちな優しい人物に見え、講演会で一人演壇で語っている強面の印象とはだいぶ違っていた。
しかし、彼は怒るとものすごく恐いひとで、自分の主宰するアトリエでは腹を立てるといきなりスタッフに灰皿を投げつけたりするそうだ、などという噂をたまに聞くことがあった。そんな噂を伝える人が現場を見たわけでもないし、ひょっとしたら、すぐ灰皿を投げつける癖があるらしい蜷川幸雄の話とごっちゃになっているのではないか(笑)と思わないでもなかったが、そんな噂を聞いた人はあの強面の顔を思い出して嘘でも納得してしまうのではないか(笑)と思わないでもない。
実際、或る時テレビで安藤さんを追っかけたドキュメンタリー番組のようなものがあって、自分のアトリエでの彼の仕事ぶりも垣間見せてもらったが、その中では例の強面そのままに、スタッフの若い「東大出」の何人かの若い建築家のたまごをこっぴどく叱りつけていた。叱られる東大君のほうは緊張のあまりコチコチに固まってしまって、一言も発することもできず直立不動で叱責されていた。「あれはコワイよなあ、あの顔でやられたら」(笑)と私は一緒に見ていたパートナーに言ったものだ。
安藤さんファンのパートナーは、「でも自分は破天荒な前半生で一流の建築家になったのに、自分の事務所で使うのはやっぱり東大生なのね」とちょっとがっかり(?笑)していた。
私は建築については無知で、住宅については住む人が住みよい家であればいいし、仕事で関わりのある公共文化施設などは、使う人にとって使いやすい施設であればいい、と考えてきたので、「住吉の長屋」がトイレに行くにも雨が降れば傘の要る中庭を通らなければならない、などというのを聞くと、私にそんな甲斐性とコネがあったとしても、自分の住む家は彼に設計してほしくないと思った。
もちろん彼の設計の建築史的な意義だとか、彼の建築思想の意味など、私はまったく理解していないけれども、ある時、自動車メーカーのポルシェ展に行き、その図録を隅から隅まで見てポルシェの歴史に触れたとき、自分なりに安藤さんの挑戦について分かるような気がしたことがあった。
ポルシェのスタイルを日常生活に乗り回す乗用車に適用すれば、それはきっと使いにくい車だろう。ポルシェはスピードに徹底的にこだわり、もちろんエンジンなどメカの革新なしにそれは不可能だったろうけれど、何よりも特徴的なあの流線型のモデルのようなデザインから高速化を遮るものを全部取っ払って、自動車レースでぶっちぎりの首位を走り続けた。そのあげくただポルシェだけを狙い撃ちにして出走車の規格条件を変更し、ポルシェがレースに出場できないようにする、といった陰謀がめぐらされたりもしたそうだ。
ポルシェはそんな車で、一見して日常的に私たち庶民が乗り回すような車とは縁もゆかりもないように見える。けれども、ポルシェはその中身もスタイルも、世界の自動車の進化の先端をかつてない高みに導き、大きな影響を与えたことがいまでは良く知られているようだ。
デュシャンがブランクーシやレジェら友人のアーティストたちと航空展を訪れ、展示会場を見て回ったあとで突然ブランクーシに「絵画は終わった。このプロペラに勝るものをいったい誰がつくれるか。どうだね、君は!?」と問いかけたという。最新鋭の工業技術が生み出した機能美が、自分の感覚に依拠して美を生み出してきたアーチストとしての彼に衝撃を与えたのだろう。そして彼がこの時に受けた衝撃が、「レディ・メイド」と呼ばれる一連の作品を生み出すきっかけになったこともまたよく知られている。
美と機能について、しばしば機能的にすぐれたものは美しい、と言われる。デュシャンが衝撃を受けた航空機の部品のデザインはそういうものだったかもしれない。しかし、美と機能はときに乖離することがあると思う。いや、むしろ常時乖離し、その乖離があるところまで大きくなると、その乖離を一挙になくすような内発力が働いて、機能と美が一致する幸福な瞬間を実現するのだ、と言った方が適切かもしれない。
機能と美のいずれが先を行くかはその時々で違うのだろう。ポルシェの場合はもちろんエンジンを始め機能的な革新があったに違いないけれど、素人目にはあの流線型のボディが示すような美がつねに先導して、その機能を引っ張っていったように見える。デュシャンに衝撃を与えた航空機の部品など工業製品の例をとれば、逆に機能の追及がその美を生み出していったと言えるだろう。
住宅は人が住みやすく、公共文化施設は利用者が使いやすいものであることが望ましいという原則は不変だと思う。けれども、ときにそこにみられる美と機能の調和がより高い次元での両者の調和への志向を妨げるものと化してしまうとき、これに挑戦し、新たな次元を拓く試みは、その時代に支配的な美と機能の安定した調和を破壊する野蛮な行為に見えるかもしれない。
機能が先行するときには、私たち素人には理解しやすい。便利さや使いやすさ、快適さは誰もが肌で感じられるからだ。一方、美が先行するときには、その美を理解する人々は常に少数だろう。美は幻想の領域に属するので、ある時代の共同幻想を突き破るものを理解する者は常に少数にとどまる。
美と機能が乖離する中で美が先行して新たな次元を切り拓くためには、クリエイターの<手仕事>に導かれた感性だけが頼りの創造によるしかない。それは誰の役に立つとかどんな役に立つとか一切顧みることもなく、それ自身の行為の意味さえ問うこともなく、ただ美を更新する一種のオートマティズムな運動のようにしか見えないだろう。人間不在で、生活と接点を失った、高踏的な美の追究といった批難を受けやすいかもしれない。しかし、それ自体が創造の新しい次元を切り拓く上で決定的な役割を果たす道筋の1つであることは間違いないのではないか。
ポルシェに出会ってから、私は安藤さんの建築的挑戦を、そんなふうに勝手に解釈して遠くから眺めてきた。もちろん安藤さんは一度エレベーターに乗り合わせ、「社会的距離」圏内に居合わせたというだけの私のことなど覚えているはずもないが、私のほうでは「エライさんは苦手で」と笑って退散した彼の表情がいまだに好ましく印象に残っている。
もっとも、いま私がそんなことができる立場にあるとしても、自分の住宅を彼に設計してほしいとは思わないけれど(笑)。