2020年08月24日
「ROMA/ローマ」とそのメイキング
ローマとタイトルなので、最初はイタリア映画かと思いましたが、アルフォンソ・キュアロン監督の自伝的作品で、メキシコのローマという街の1970年代初頭の話でした。
作品は昨日書いたように、とてもいい作品でしたが、きょうそのメイキング「ROMA/ローマ完成までの道」という監督自身が語り手としてこの作品の成り立ち、手法について率直に語るもう一つの映像ドキュメンタリーを見て、監督の意図が非常によくわかり、作品の印象がもう一段深まったような感じがしました。
キュアロン監督はメキシコの中産階級の出身らしく、幼いころこの映画で描かれたそのままの街と家庭環境の中で育って来たらしく、それを徹底的に細部まで再現しようという強い意志に導かれて、台本なしで「感覚だけによって」映像を制作してきたということで、その少年の日々の細部へのこだわりは徹底しているようです。
だから彼自身が撮影していてある日自分でも確たる理由もなくイライラして不機嫌になり、現場を離れて散歩して、すべて順調だし、スタッフは良くやっていて申し分ない。何も悪いことは無い、と自分に言い聞かせて現場へ戻ったらしいのですが、実はその日に撮影したシーンは、作品の舞台になっている家族にとって一つの決定的な区切りになる日で、父親が家族を棄てて出て行ってしまう日だったのです。妻があり、4人も子供がいて、何不自由ない中産階級の家庭を営んでいた父親が、おそらくはほかに女を作って、所用で出かけると嘘をついて車で出て行き、それきり帰ってこなくなるのですが、その最後に車で出ていくとき、何かを察したように妻が夫を背後から抱きしめ、二人はキスをする。その時に、夫を演じた俳優が、息が詰まるような感じがする、と言うので、監督は君の体験で感じるとおりにやればいい、と言ったらしいのですが、その時に初めて、自分が何に苛立っていたかを覚るのです。
キュアロン監督の父親は、この作品で描かれた通り、彼が少年の頃に、家族みなを棄てて出て行ったのですね。キュアロンはずっとその父親を憎み、出て行ったその時の父親の気持ちを全く理解できなかったし、理解しようともしてこなかったわけです。ところがこのシーンを撮っているときに、俳優の言葉を聴き、その演技を見ていて、はじめてその時の父親の気持ちが分かった、と思うのです。父親を許そうとは思わなかったけれども、それまでまったく分からなかった父親のそのときの気持ちが分かった、と。
すごいなぁ、と思いましたね。映画とそれを創る人間とがこんな風に関わるのか、と思って。
こういう作品はキュアロン監督ほどの映画監督でも、多分一生に一度しか創れないでしょうね。彼自身、はじめて自分が作りたかった映画が作れた、と言っていました。
主役はキュアロンたち兄弟の子供時代の面倒をみてくれた家政婦で先住民族の女性でリボという実在の人物をモデルにした、矢張り先住民族の素人の女性を何千人ものオーディション応募者の中から見出したようで、監督にとってのリボのイメージとぴったり重なる人でなくてはならなかった、と。プロの女優とは違ったあるがままの存在感があって、非常にその起用が成功しています。キャストの中でプロの俳優は、子供たちの母親役をした女優だけで、あとはみな素人だそうです。プロの女優さんはかえってやりにくかったようだ、とのこと。
なにしろ台本無しで、すべては監督の頭の中にある記憶とその記憶の中で感じていた彼の感覚から生まれてくる世界を展開していくというのですから、周囲は訳も分からないまま振り回されることになるでしょう。けれども監督のその記憶の世界が非常に強固なゆるぎない感覚に支えられているので、そこから非常にリアルな感情が沸き起こり、出来事が展開していきます。監督自身は、1970年初頭の時代に自分の周囲にあったものを、ことごとく集めて当時のままに配置し、どうしてもないものは、そっくりそのままに細部まで徹底して作り込むことによって、自分を取り巻いていた空気を再現していったようで、それが徹底しているので、私たち観客も自然にその空気を吸って生きることになります。
門を開くと中から犬のボラスがいつも吠えながら門からでようとして駆けていく。それを出ないように抑えて、門内の狭い幅の通路に車を迎え入れるのも家政婦の役目。門内通路の幅の狭さに比べて豪華すぎるギャラクシーとかいう乗用車を運転する奥さんは、夫が出て行った苛立ちもあって、ガンガン壁にぶつけながら入ってきたりします。
このいつも登場するワン公が実にいい。父が帰ってくるとわっと門へ駆け寄って内側から迎えていた子供たち。中産階級と言っても、日本で1億みな中流なんて言われたころの日本人のいわゆる「中流」なんかとはおよそラベルが、いやレベルが違います。私などからみれば、でっかい二階建てのお屋敷で、4人も子供がいてそれぞれ子供部屋を持っていて、おばあちゃんもいて、家政婦が2人もいるわけです。
この家庭を棄てて何も言わずに父親は出て行ってしまう。一方、家政婦のクレオはこの家族に愛され、子供たちにもなつかれて幸せだったのですが、フェルミンという武術に凝っている筋骨たくましい若者と恋仲になったまでは良かったけれど、妊娠したと告げたとたんに男は消え、或る時所在をつきとめて行ってみると、おなかの中の子を男は自分の子と認めないばかりか、脅すように大声で怒鳴りつけて去ってしまいます。
次に男に会うのは1971年6月10日、メキシコで学生たちの民主化要求を権力が暴力で応えた流血の日で、学生たちを殺す権力の手先として利用された暴力殺人集団の一員としてのフェルミンだった。生まれてくる赤ん坊のためのベビーベッドを買いに街の家具店の2階に来ていて、学生を追ってきた拳銃を手にしたフェルミンに再会したあと、クレオはショックで破水し、病院に運び込まれます。そして結果的に死産。この病院のシーンは、実際に医師、看護師が演じたのだそうですから、徹底してリアリズムを追究しています。
夫が自分の荷物を取りに家に来ると聞いた夫人は、子供たちとともに、おなかの中の子を失って何をする気力もなくしたクレオも誘って、車で海辺へ遊びに行きます。食事の席で、楽しさにはしゃぐ子供たちに、夫人は、もうお父さんは帰ってこない、と告げます。つとめて明るく、子供たちを励ますように気丈に。でも子供たちはショックをうけて、みな沈んでしまいます。
翌日の浜辺で、ちょっと夫人が上の子と浜辺を離れ、下の子たちには決して波打ち際から向こうへ行かないようにと言い渡し、クレオに託して行った間に、幼い子供二人は言いつけを守らず深い方へ行っておぼれかけ、危うく泳げないクレオに助けられます。要約の思いで砂浜に倒れ込むように子供たちと共に崩れ落ちるクオ。そこへ母親たちも戻ってきて、子供たちは口々に、クレオが助けてくれたの、と言います。クオも含めてくずおれた格好のまま抱き合う夫人、子供たち、クレオの家族。このシーンは美しく、またとても感動的です。
劇的なシーンといえばそんなところで、特に何かとてつもないドラマチックなことが起きるわけでもなんでもありません。こうしたある家庭の日常が淡々と細部まで徹底的に作り込まれた1970年代初頭の時代の空気を再現する形で描き出されて行きます。監督はメイキングの中で「世界を描くストーリーでは、人物はその中を通り過ぎるだけです」というようなことを語っていましたが、その言葉どおり、主人公クレオも含めて、登場人物たちはただこの再現された濃密なリアリティを持つ世界の空気を吸い、その世界を通りすぎていくだけです。でもそれが何ともいえない愛惜の情を呼び起こす、懐かしくも美しくもある世界に思えるのです。
モノクロですが、古い時代の映画のモノクロではなくて、65ミリ、4Kのデジタル時代の技術で撮られた最新の映像で、素晴らしく美しいシーンと創り出しています。冒頭にこの門内の通路の石畳を掃除して泡立つ石鹸水か何かがザーッと流され、それが排水溝に吸い込まれていく直前に次第に泡が消えて一瞬透明になって、その青天井の路地の真上の空がそこに鏡のように映される映像がずっととらえらた映像で始まるのですが、最後もこの路地の真上の空を遠く飛行機が飛ぶ何でもない映像で終わります。
監督はメイキングで、メキシコシティはいつも空を飛行機が飛んでいるんだ、と言い、また作品の冒頭で何度も排水溝の周囲の石畳に石鹸水がぶっかけられて、その水鏡に空と建物の一部が写る、その映像を作る撮影の現場を映して解説している中で、「こうして石畳に撒かれた水に映る映像の方が現実をいっそうよく捉えることができる」と言う意味のことをちらっと述べているのが耳に残りました。直に空を見上げるよりも、こうして石畳に流される水の鏡に映してみる方が、現実の核心によりよく触れることができるんだよ、と。それは彼の映画づくりの秘密に触れる言葉のように聞こえました。
作品は昨日書いたように、とてもいい作品でしたが、きょうそのメイキング「ROMA/ローマ完成までの道」という監督自身が語り手としてこの作品の成り立ち、手法について率直に語るもう一つの映像ドキュメンタリーを見て、監督の意図が非常によくわかり、作品の印象がもう一段深まったような感じがしました。
キュアロン監督はメキシコの中産階級の出身らしく、幼いころこの映画で描かれたそのままの街と家庭環境の中で育って来たらしく、それを徹底的に細部まで再現しようという強い意志に導かれて、台本なしで「感覚だけによって」映像を制作してきたということで、その少年の日々の細部へのこだわりは徹底しているようです。
だから彼自身が撮影していてある日自分でも確たる理由もなくイライラして不機嫌になり、現場を離れて散歩して、すべて順調だし、スタッフは良くやっていて申し分ない。何も悪いことは無い、と自分に言い聞かせて現場へ戻ったらしいのですが、実はその日に撮影したシーンは、作品の舞台になっている家族にとって一つの決定的な区切りになる日で、父親が家族を棄てて出て行ってしまう日だったのです。妻があり、4人も子供がいて、何不自由ない中産階級の家庭を営んでいた父親が、おそらくはほかに女を作って、所用で出かけると嘘をついて車で出て行き、それきり帰ってこなくなるのですが、その最後に車で出ていくとき、何かを察したように妻が夫を背後から抱きしめ、二人はキスをする。その時に、夫を演じた俳優が、息が詰まるような感じがする、と言うので、監督は君の体験で感じるとおりにやればいい、と言ったらしいのですが、その時に初めて、自分が何に苛立っていたかを覚るのです。
キュアロン監督の父親は、この作品で描かれた通り、彼が少年の頃に、家族みなを棄てて出て行ったのですね。キュアロンはずっとその父親を憎み、出て行ったその時の父親の気持ちを全く理解できなかったし、理解しようともしてこなかったわけです。ところがこのシーンを撮っているときに、俳優の言葉を聴き、その演技を見ていて、はじめてその時の父親の気持ちが分かった、と思うのです。父親を許そうとは思わなかったけれども、それまでまったく分からなかった父親のそのときの気持ちが分かった、と。
すごいなぁ、と思いましたね。映画とそれを創る人間とがこんな風に関わるのか、と思って。
こういう作品はキュアロン監督ほどの映画監督でも、多分一生に一度しか創れないでしょうね。彼自身、はじめて自分が作りたかった映画が作れた、と言っていました。
主役はキュアロンたち兄弟の子供時代の面倒をみてくれた家政婦で先住民族の女性でリボという実在の人物をモデルにした、矢張り先住民族の素人の女性を何千人ものオーディション応募者の中から見出したようで、監督にとってのリボのイメージとぴったり重なる人でなくてはならなかった、と。プロの女優とは違ったあるがままの存在感があって、非常にその起用が成功しています。キャストの中でプロの俳優は、子供たちの母親役をした女優だけで、あとはみな素人だそうです。プロの女優さんはかえってやりにくかったようだ、とのこと。
なにしろ台本無しで、すべては監督の頭の中にある記憶とその記憶の中で感じていた彼の感覚から生まれてくる世界を展開していくというのですから、周囲は訳も分からないまま振り回されることになるでしょう。けれども監督のその記憶の世界が非常に強固なゆるぎない感覚に支えられているので、そこから非常にリアルな感情が沸き起こり、出来事が展開していきます。監督自身は、1970年初頭の時代に自分の周囲にあったものを、ことごとく集めて当時のままに配置し、どうしてもないものは、そっくりそのままに細部まで徹底して作り込むことによって、自分を取り巻いていた空気を再現していったようで、それが徹底しているので、私たち観客も自然にその空気を吸って生きることになります。
門を開くと中から犬のボラスがいつも吠えながら門からでようとして駆けていく。それを出ないように抑えて、門内の狭い幅の通路に車を迎え入れるのも家政婦の役目。門内通路の幅の狭さに比べて豪華すぎるギャラクシーとかいう乗用車を運転する奥さんは、夫が出て行った苛立ちもあって、ガンガン壁にぶつけながら入ってきたりします。
このいつも登場するワン公が実にいい。父が帰ってくるとわっと門へ駆け寄って内側から迎えていた子供たち。中産階級と言っても、日本で1億みな中流なんて言われたころの日本人のいわゆる「中流」なんかとはおよそラベルが、いやレベルが違います。私などからみれば、でっかい二階建てのお屋敷で、4人も子供がいてそれぞれ子供部屋を持っていて、おばあちゃんもいて、家政婦が2人もいるわけです。
この家庭を棄てて何も言わずに父親は出て行ってしまう。一方、家政婦のクレオはこの家族に愛され、子供たちにもなつかれて幸せだったのですが、フェルミンという武術に凝っている筋骨たくましい若者と恋仲になったまでは良かったけれど、妊娠したと告げたとたんに男は消え、或る時所在をつきとめて行ってみると、おなかの中の子を男は自分の子と認めないばかりか、脅すように大声で怒鳴りつけて去ってしまいます。
次に男に会うのは1971年6月10日、メキシコで学生たちの民主化要求を権力が暴力で応えた流血の日で、学生たちを殺す権力の手先として利用された暴力殺人集団の一員としてのフェルミンだった。生まれてくる赤ん坊のためのベビーベッドを買いに街の家具店の2階に来ていて、学生を追ってきた拳銃を手にしたフェルミンに再会したあと、クレオはショックで破水し、病院に運び込まれます。そして結果的に死産。この病院のシーンは、実際に医師、看護師が演じたのだそうですから、徹底してリアリズムを追究しています。
夫が自分の荷物を取りに家に来ると聞いた夫人は、子供たちとともに、おなかの中の子を失って何をする気力もなくしたクレオも誘って、車で海辺へ遊びに行きます。食事の席で、楽しさにはしゃぐ子供たちに、夫人は、もうお父さんは帰ってこない、と告げます。つとめて明るく、子供たちを励ますように気丈に。でも子供たちはショックをうけて、みな沈んでしまいます。
翌日の浜辺で、ちょっと夫人が上の子と浜辺を離れ、下の子たちには決して波打ち際から向こうへ行かないようにと言い渡し、クレオに託して行った間に、幼い子供二人は言いつけを守らず深い方へ行っておぼれかけ、危うく泳げないクレオに助けられます。要約の思いで砂浜に倒れ込むように子供たちと共に崩れ落ちるクオ。そこへ母親たちも戻ってきて、子供たちは口々に、クレオが助けてくれたの、と言います。クオも含めてくずおれた格好のまま抱き合う夫人、子供たち、クレオの家族。このシーンは美しく、またとても感動的です。
劇的なシーンといえばそんなところで、特に何かとてつもないドラマチックなことが起きるわけでもなんでもありません。こうしたある家庭の日常が淡々と細部まで徹底的に作り込まれた1970年代初頭の時代の空気を再現する形で描き出されて行きます。監督はメイキングの中で「世界を描くストーリーでは、人物はその中を通り過ぎるだけです」というようなことを語っていましたが、その言葉どおり、主人公クレオも含めて、登場人物たちはただこの再現された濃密なリアリティを持つ世界の空気を吸い、その世界を通りすぎていくだけです。でもそれが何ともいえない愛惜の情を呼び起こす、懐かしくも美しくもある世界に思えるのです。
モノクロですが、古い時代の映画のモノクロではなくて、65ミリ、4Kのデジタル時代の技術で撮られた最新の映像で、素晴らしく美しいシーンと創り出しています。冒頭にこの門内の通路の石畳を掃除して泡立つ石鹸水か何かがザーッと流され、それが排水溝に吸い込まれていく直前に次第に泡が消えて一瞬透明になって、その青天井の路地の真上の空がそこに鏡のように映される映像がずっととらえらた映像で始まるのですが、最後もこの路地の真上の空を遠く飛行機が飛ぶ何でもない映像で終わります。
監督はメイキングで、メキシコシティはいつも空を飛行機が飛んでいるんだ、と言い、また作品の冒頭で何度も排水溝の周囲の石畳に石鹸水がぶっかけられて、その水鏡に空と建物の一部が写る、その映像を作る撮影の現場を映して解説している中で、「こうして石畳に撒かれた水に映る映像の方が現実をいっそうよく捉えることができる」と言う意味のことをちらっと述べているのが耳に残りました。直に空を見上げるよりも、こうして石畳に流される水の鏡に映してみる方が、現実の核心によりよく触れることができるんだよ、と。それは彼の映画づくりの秘密に触れる言葉のように聞こえました。
saysei at 22:15│Comments(0)│