2020年07月21日
『言葉と物』第二部第十章 二 人文諸科学の形態 ~私的メモ
フーコーはキーワード的な言葉を定義せず、その言葉が呼び起こし、彼自身書きながら頭に浮かべているはずのイメージや、具体的な例を明示しないまま、抽象的な独自の用語を使ってどんどん強引に論理を引っ張っていく癖があるようなので、たとえばここでいう「人文諸科学」と言って私たちが普段、人文科学、社会科学、自然科学などと言っている中の1つである「人文科学」であるはずのものの中に、彼が絶対に「人文諸科学」と認めない領域のものが含まれていたりするわけで、読んでいくと、「俺のいう人文諸科学ってのはな」と長ったらしい抽象的な論理で、排除すべきものを説いた記述があることはあるのですが、それならそうと早く言えよ、みたいなところがあります。
それで、先に忘れないうちに書いておくことにしますが、彼が「人文諸科学」の例として具体的に思い浮かべているのは、心理学、社会学、文化史、思想史、科学史のような領域です。(p375の「人文諸科学」に付された括弧書きによれば。)
そして、彼がこれまでカントの開いた先験的領域と対で、対立的に扱ってきた「経験的諸領域」、別のところでは「専門学」(p370)と呼んでいる、生物学、経済学、言語学は彼の言う「人文諸科学」には入りません。
この第十章第二節は、殆どこの経験的諸領域がなぜ彼のいう人文諸科学に含まれないのか、まるで異なる位相に属する概念なんだ、ということを説くことに、その大半の紙数を費やしています。
それはある意味で当然で、ふつう自然科学に入れられる生物学は別としても、経済学は社会科学と言われているけれども、人文科学というのを自然科学に対して学問的認識の領域を二分する概念として人文科学というときにはそこに入れてしまうでしょうし、言語学に至っては、当然人文科学とみなされているでしょうし、生物学は自然科学であっても、人間を構成する心理とか社会行動とか知的活動等々もまた、自然科学の対象としての人間の生物学的な組織や法則の延長上に思い描くのが私たちの一般的な通念だろうからです。
しかしフーコーはそれは全然違うものなんだ、と言うわけです。
この節の冒頭を、彼は「いまやその実定性の形態を素描しなければなるまい。」と始めています。またあの「実定性」です。なぜこういう曖昧で多義的な言葉をわざわざ使うのか私にはよくわかりません。しかもここではあってもなくてもいいような、「例のさ」とかせいぜい、「それ自身の積極的なありようとしての」くらいの軽い形容的な使い方であって、実際節の見出しは単に「人文諸科学の形態」であって、「人文諸科学の実定性の形態」とはなっていません。
「実定性」は「positiveであること」のようですから、多かれ少なかれもとは積極的な、という風なニュアンスを持っている言葉なのでしょう。また、positivismというとコントの実証主義を指すのでしょうから、フーコーはそういう意味で使ってはいないそうですが(巻末の事項索引の「実定性」「実定的領域」の解説によれば)「実証的な」という意味合いも持ちうるのでしょう。
実際この冒頭の部分に続けて、人々はこの人文諸科学の形態を数学との関係で規定したがる、つまり数学化できるすべてのものの目録を作って、「そのような形式化の可能でないすべてのものは科学的実定性をまだ受け入れてはいないと想定」して、実定的領域を数学にもっと引き寄せようとするか、逆に数学化できる領域と数学に還元できない解釈都理解の領域に区分するかだ、と述べているところで使っている「科学的実定性」などは、「科学的実証性」と言ってもほとんどいいような使い方です。
しかし、この場合は、対象的認識を数学化できるか、数式に置換できるか、というほどの意味であって、通常のより包括的な「実証性」の意味合いはないでしょう。
それはともかく、先のように、実定的領域を数学に近づけようとするか、数学化しえない解釈の領域をそれとは別に立てようとするか、ひとびとはそういうことをしたがるけれど、そういう分析は「退屈きわまりない」、それは単に使い古された分析方法であるばかりではなく、「関与性を欠く」ためだ、というのがフーコーの考えです。
またまた「関与性」という無定義の、彼独自の用語法が登場しましたが、これは単にここで述べている「数学との関係」に過ぎないでしょう。それなら単純に分かりやすくそういえばいいのに、なぜわざわざ「関与性を欠くためなのだ」なんていう、もったいぶった言い方をしなくちゃいけないのか、私には哲学者連中のこういう性癖は単になにかするたびに鼻くそをほじくらずにいられない人の癖となんらかわるところはない、と思うのですが、どうでしょうか。
彼は続いて、コンドルセが確率論を政治に応用したとか、フェヒナーが感覚量の増大と刺激のそれとのあいだの対数関係を規定したかとか、現代の心理学者が情報理論を応用して学習の諸現象を理解しようとしているか、といった数学の人文諸科学への応用例を挙げながら、そうした多くの事例ににもかかわらず、「数学との関係が、人文諸科学をみずからの独異の実定性において成立せしめるということは、ほとんどありそうもないこと」(p370)だと述べています。
そう彼が言う理由は二つある、として次の二つを挙げています。ひとつは、数学との関係ってのは人文諸科学と他の多くの専門学とに共通する問題であって、それによって人文諸科学のありようを定義できるようなもんじゃない、ってことです。
もうひとつは、フーコーの言う考古学的分析があきらかにしたところによれば、人間諸科学の領域に数学が突然侵入したから、それとの関係で人文諸科学がそれとの関係で考えられるようになったっていうんじゃなくて、むしろ「<マテシス>が後退」して、生命、言語、労働という経験諸領域が解放され、それぞれの領域が固有の自律性を獲得したのと同様、<マテシス>の後退によって、知の対象としての人間が成立したのだ、決して数学の進出によるのじゃない、ということです。
(生物学は数学を利用したけれども)生物学がその自律性を獲得し、その実定性を規定したのは、数学との関係においてではない。人文諸科学についても同様である。知の対象としての人間の成立を可能にしたのは、<マテシス>の後退であって、数学の進出ではない。この新しい領域の出現を外から規定したのは、それぞれみずからに固く巻きついている労働、生命、言語なのである。そして、あの経験的=先験的存在、その思考が思考されぬものと無際限に織りあわされているあの存在、間もなく回帰する者として約束される起源からつねに引きはなされているあの存在─そうしたものの出現こそ、人文諸科学に独異の姿勢をあたえるものにほかならない。(p371)
「<マテシス>の後退」という言い方は難しいですね。これも何の説明もなく使われています。もっとも、<マテシス>については、前に<タクシノミア>とセットで論じられていましたから、そこを参照すればわかるはずですが、でもたしか<マテシス>は「計算可能な秩序の学」(p98)だったはずで、もちろん<数学化>そのものではないけれども、質的なものをき基本的な物から順次辿って全体の秩序を構成していくタイプの秩序の学<タクシノミア>と対照的に見られた場合は、ほとんど<数学化>をイメージして読んでいって支障ない概念だったように記憶しています。
しかし、ここでは<マテシス>が<数学化>と対立する概念のように対照的に扱われて、<数学化>は進出する一方だったけれど、<マテシス>のほうは「後退」したんだ、と。そして生物学、経済学、言語学が自律的な諸領域として成立したのは<数学化>の進展によってではなく<マテウス>が後退すなわち「その統一的な場の分裂、そして、ありうべき最小の相違からなる線状の秩序からの、生命、言語、労働といった経験的諸組織体の解放」(p370)によってなのであり、同時にそれによって知の対象としての<人間>が成立することによって人文諸科学が生まれてきたのだ、というふうに語られています。
したがって、ここでの<マテウス>という言葉で安易に<数学化>のイメージを思い浮かべてはいけないのであって、生命、言語、労働の認識においても貫かれていた表象的な世界における知の形式化(同一性と相違性の原理による分節と秩序化)という本来の包括的な知の様態を指すものと考えなくてはならないでしょう。そのような分析の視点が「後退」して、もはや生命、言語、労働はそのような秩序に属さない、それぞれ自律的な組織と法則を備え、<歴史>を持った要素、領域として<マテウス>的統一秩序から解き放たれた、と。そのことがこれらの経験的諸領域(専門学)を成立させたのだし、またそれらが「知の対象としての人間の成立を可能にした」(p371)ということになります。
ここは前回、前々回の疑問の蒸し返しになりますが、<人間>を成立させたのは、これら経験的諸領域なのか、それともカントがそれらと同時に拓いた先験的領域によってア・プリオリに与えられたのか、ということについての疑問が、またここで後者を採った前回の納得から逆転するように、「知の対象としての人間の成立を可能にしたのは、<マテシス>の後退であって、数学の進出ではない」と明記されています。つまり<マテシス>の後退によって<人間>という概念が成立した、と。ということは<マテシス>の後退によって、生物学、経済学、言語学の経験的諸領域が成立したからこそ、<人間>という概念が生まれて来たんだ、ということになりませんか?
或るところでは、こういう言い方ではなくて、<人間>という概念のほうが、むしろこれら経験的諸領域を基礎づけるものだというふうな言い方がされていて、じゃその<人間>はどこからやってきたんだ?というと、経験的諸領域からでないとすれば、ほかにないから先験的領域からきたんだ、つまりア・プリオリに与えられたものだ、ということになるのではないでしょうか。そう思っていたら、ここでの言い方だと、<人間>の外部にあり、<人間>に先立って存在する経験的諸領域が<人間>を生み出したのであって、それがさらに<人文諸科学>を生み出す、ということになりませんかね。
少し頭がこんがらがってきましたが、ほんとはすごく大事なところで、この<人間>という概念の成立が、一体どこに由来するのか、それによってフーコーさんの考える知の世界がガラッと違ってみえてしまいますね。何もわかってなかったね、ということになりそうです(笑)。
とりあえずそこは仕方ないのでカッコに入れておいて、いちおうは、<マテシス>の統一的な場が分裂することによって、経験的諸領域がそれぞれ固有の自律的根拠をもって成立するに至ったが、これらを基礎づけるもの(そうした組織や法則を認識するのは主観としての人間以外にないわけだからね)として<人間>という概念が要請されて生まれてきた、と。これはしかし経験的諸領域の内部〈の組織や法則〉に属することはできないから、ア・プリオリに与えられた先験的なものと考えるほかはないわな。・・・と、まあそんなふうに考えてやりすごしておきましょう。またいずれあの世で、もう一回この本を再読する日があれば、その時はもう少しはマシな理解ができるかもしれません(笑)。
ところで先ほどのp371からの引用の後半にあった「あの経験的=先験的存在、その思考が思考されぬものと無際限に織りあわされているあの存在」ってのは、もちろん<人間>以外のなにものでもないでしょう。どうしてこういうもったいぶった言い方をするんでしょうね(笑)。
つぎの「間もなく回帰するものとして約束される起源からつねに引きはなされているあの存在」なんて、もっとわかりにくい、まわりくどくて、もったいぶった言い回しですね。回帰なんて言葉をちらつかせて、ね、ニーチェの愛読者である君にはわかるでしょ、と目くばせするような厭らしい文章(笑)。
本を書くならその記述だけで自立した文章を書くべきだと思うけれど、哲学者だの評論家だのというのは、こういうわざとらしい隠蔽と共犯者的目くばせが大好きですね。彼らの基本的な精神の姿勢が、私のような何でもない一庶民に向き合って語り掛けようという、ソクラテスのような姿勢ではなく、この種の本に入り浸りになった同業者たちに向けて喋るような姿勢にあるからで、当然私のような「手ブラ読み」を想定していないからでしょう。
さてフーコーさんが次に強調するのは、生物学や経済学、言語学などが人文諸科学じゃないんだ、ということです。
生物学も、経済学も、文献学も、人文諸科学の最初のものとも、もっとも基本的なものとも、見なされてはならない。(p372)
人間についての生物学、生理学、言語中枢の解剖、みな人間諸科学とはみなし得ないのだ、と彼は言います。
なぜなら例えば生物学をとってみると、「これら人間諸科学の対象が,決して生物学的働きの存在様態にもとづいてあたえられることはないから」、というよりむしろ「人間諸科学の対象は、この生物学的働きの裏面であって、その窪みによって示されるもの」にほかならず、「人間科学の対象は、この生物学的働きの作用もしくは結果ではなく、生物学的働き固有の存在そのものおわるところ─(中略)ともかくも諸表象が解放されるところ─に、はじまる」からです。
同様に、「言語中枢に結合される諸中枢(聴覚中枢、視覚中枢、運動中枢)のあいだに見られる大脳皮質内部の関係の探究は、人文諸科学には即さない」のです。
人文諸科学がみずからの作用空間を見いだすのは、主体がおそらくは意識しないにもかかわらず、そのおなじ主体が表象を所有しなければ指示されるべきいかなる様態をも持たぬにちがいない、語のあの空間、語の意味のあの現前もしくは忘却、人が語ろうと望むものと、語るべく目指したものがそこに投下される分節化とのあいだの偏差、そうしたものについて人が問いかける直後のことだ。(p373)
わざわざややこしい言い方をしているけれど、要は表象化の働きによって成立する世界が人文諸科学の世界なのでしょう。まずは生物学について:
人文諸科学にとっての人間は、独異な形態(かなり特別な生理とほとんど他に例を見ぬ自律性)をもつあの生物ではない。それは、みずからがことごとくそれに属し、それによってみずからの全存在がつらぬかれている生命の内部から、諸表象を成立させる生物であって、その表象のおかげで人間は生き、そこから出発して、まさしく生命をみずからにたいして表象することのできる、あの奇妙な能力を保持しているものである。(p373)
同様に経済学について:
経済学が人文科学であるわけではない。おそらく、経済学は、ともかくも生産のメカニズムの内部にある諸法則(資本の蓄積や賃金レートと原価との間の諸関係のような)を規定するため、人間の諸行動、およびそれらを基礎づけるひとつの表象(利益、最大利潤の追求、節約の傾向)に依拠すると人は言うだろう。しかしそうはいっても、経済学は、諸表象をある働きの必要条件として利用しているにすぎない。これに反して、人間科学があるとすれば、それは、生産や交換において個人やグループがその相手をみずからにたいして表象するやり方、彼らがそれにもとづいてこの働きおよびそこで自分の占める位置を明確化し、或いは無視し、もしくは隠蔽する様態、この働きのおこなわれる社会をみずからに対して表象する仕方、自分自身が社会にくわわっている、あるいは社会から孤立している、もしくはそれに依存するか、従属するか、それから自由である、と感じるやり方、そういったものを対象とするときだけにちがいない。(p374-375)
まったく同様に言語学について:
人間は世界において話す唯一の存在だとはいえ、音声学的転化、諸言語の近縁関係、意味の変位の法則を認識することは、まったく人文科学ではない。そのかわり、個人やグループが語をみずからにたいして表象し、語の形態と意味を利用し、実際の言説を合成し、そのなかに自身の思考するところを示し、かつ隠し、おそらくはみずから知らぬうちに望むこと以上か以下かを語り、それらの思考について、判読してその表象としての活発さを可能な限り復元しなければならぬ言葉の痕跡の全体をともかくも残していく、そのやり方を規定しようとこころみてはじめて、人々は人文科学について語ることがきるようになるのだ。(p374)
人文諸科学の対象は、したがって言語ではない(それが人間だけによって話されるにせよ)。人文科学の対象は、それによって彼が取りかこまれている言語の内部から、話しつつ、みずからの言表する語、もしくは命題の意味をみずからにたいして表象し、最終的には、言語それ自体の表象をみずからにあたえる、あの人間という存在にほかならない。(p374)
したがって、「人間諸科学を、人間という種のなかに、その複雑な有機体のなかに、その行為と意識のなかに内在化された、生物学的メカニズムの延長とすることは誤り」であり、同様に「人文諸科学の内部に、経済と言語の科学をおくことも誤り」ということになります。