2020年02月26日
「自己表出」からみた芭蕉句、蕪村句
民俗学と俳句に詳しい友人によれば、芭蕉は京(都)を詠んだ句はわずか8句で、洛外を詠んだ鄙の句まで含めても20句だそうです。それに引き換え、典型的な鄙の句、近江で詠んだ句は102句に及び、それも円熟期の作品ばかりだそうです。友人は、芭蕉が蕎麦切と俳諧は「都の土地に応ぜず」と言っていたという門人の証言など引きながら、芭蕉は「京・江戸嫌いの鄙好き」で、郷里伊賀上野と風土の似通う近江を愛し、その鄙の自然と庶民の暮らしを愛し、鋭い観察眼でとらえて、そこに鄙の風雅を見出して句作したと考えているようです。
これに対して、蕪村はおよそ300句も京を詠み、京の路地裏に住んでこれを桃源郷としてその貧しい暮らしに自足した、芭蕉とは対照的な「よそ者の京好み」だったと、私の友人は判じています。彼は実際の二人の事跡や発句をたどって学者らしくエビデンスを挙げて論証していて、それはそれで大変刺激的で面白いのですが、まだその論文は雑誌に掲載公表されていないか、されたとしても一般の人が書店で手に取る類の雑誌でもなさそうなので、それ自体を肴にするわけにもいかないため、ここでは友人が送ってくれた原稿に登場する芭蕉、蕪村の句からひとつふたつ拾って、友人の読みは友人の読みとして、私はどう読むか、書いてみようと思います。
といっても私は文芸の中では小説や古典の物語はある程度ごく普通の比較的本好きの読者程度には読んできたけれど、俳句というのは学校の教科書で習っただけ、と言った方が早いくらいで、まぁ敬遠してきたようなところもあって、ほとんどまともに読んだり考えたりしたことがなかったのです。
小学校2,3年のころ両親が会社の若い人たちを呼んで、ある時期には割と頻繁にうちで俳句会を開いていたことがあって、参加した人がお茶を楽しみながら、割と広かった社宅の庭に植えられた梅や桜、あやめや水仙など季節ごとの花を詠んだり、時折訪れる小鳥や、池の鯉、そこらをうろつく猫や犬などを句に詠んだりして、それを集約して多くが選んだ句を朗々と読み上げたりしているのを、隣の部屋で聞くともなく聞いていたおぼえがありました。
あるとき母があんたも作ってごらん、と言うので、なにもわからぬまま、とにかく季節のものを入れて、五七五で詠めばいいんだ、と思って梅の句を2,3詠んで母に問われるままに告げたら、母は短冊にそれを清書して、どうやら私の作と言わずに座に披露するつもりだったらしく、ある親しいおじさん(父の同僚)が私に、〇〇君も句をつくったんか?どれどんな句か、おじちゃんが見てやろう、というので、うぶな私は全部白状してしまったので、すぐ後でそれを知った母が、なぁんだ、言ってしまったの・・とひどくがっかりしていたのを覚えています。そんなこと言うなら作れなんて言わなきゃいいのに、とちょっと反発もして、もう俳句にはすっかり興味をなくしてしまったので、その句を母が披露したのかどうか、どうなったのかも知らぬままですが・・。
小学校2,3年のころ両親が会社の若い人たちを呼んで、ある時期には割と頻繁にうちで俳句会を開いていたことがあって、参加した人がお茶を楽しみながら、割と広かった社宅の庭に植えられた梅や桜、あやめや水仙など季節ごとの花を詠んだり、時折訪れる小鳥や、池の鯉、そこらをうろつく猫や犬などを句に詠んだりして、それを集約して多くが選んだ句を朗々と読み上げたりしているのを、隣の部屋で聞くともなく聞いていたおぼえがありました。
あるとき母があんたも作ってごらん、と言うので、なにもわからぬまま、とにかく季節のものを入れて、五七五で詠めばいいんだ、と思って梅の句を2,3詠んで母に問われるままに告げたら、母は短冊にそれを清書して、どうやら私の作と言わずに座に披露するつもりだったらしく、ある親しいおじさん(父の同僚)が私に、〇〇君も句をつくったんか?どれどんな句か、おじちゃんが見てやろう、というので、うぶな私は全部白状してしまったので、すぐ後でそれを知った母が、なぁんだ、言ってしまったの・・とひどくがっかりしていたのを覚えています。そんなこと言うなら作れなんて言わなきゃいいのに、とちょっと反発もして、もう俳句にはすっかり興味をなくしてしまったので、その句を母が披露したのかどうか、どうなったのかも知らぬままですが・・。
まぁ俳句との縁と言えばそんな程度で、私にはまるで俳句など分からないのですが、民俗学者の友人はその専門的な関心から俳句を民俗史料として読む柳田国男がよくやっていた手法で俳句に詠まれた各地の民俗を論じると同時に、もともと俳句自体に関心があったのか、割と本格的に俳句を考察するようになって、プロの俳誌への執筆も依頼されるようになったらしく、そういうところには民俗学者の目から見た俳句論やエッセイの類を書くようになって、既に何冊かその種の文章をまとめた単行本も出しているのです。おまけに自分でも俳句を詠むようです。それはさすがに、ときどき気恥ずかしそうにちらっと書き添えてあるだけですが(笑)
彼の俳句論は民俗学的な知識、経験に裏付けられて、俳句に詠まれた自然や生活の一コマが、どのようにとらえられているか、そこに対象的自然や生活がどれだけ正確な観察眼でとらえられているか、またそれが芭蕉や蕪村の俳人としての姿勢、嗜好にどうかかわっているか、間断するところなく論証して説得力のある論考になっているのですが、なんといっても俳句を民俗史料としてとらえる、という視点がベースになっているので、具体的な句を論じるにあたって、私の目から見れば時にそれは俳句の評価としては外れではないか、と疑問を感じる所があります。
霰(あられ)せば網代(あじろ)の氷魚(ひうお)煮て出さん
霰が降ったら網代でとった氷魚(琵琶湖の鮎の稚魚)を(やってくるお客に)煮て出そうよ、というのでしょう。芭蕉の句ですが、「網代の氷魚」というのは近江の人にとっては、琵琶湖から瀬田川として流れ出るところから数キロ下流の田上での網代での漁でとった鮎の稚魚(友人によれば実際は稚魚は小さすぎて田上の網代でかかるはずがなく、漁師は琵琶湖で漁ったはずだというのですが)ときまっていて、「田上の網代」の氷魚としてよく知られているそうです。
そして霰が降るころ、そろそろ鮎の稚魚が田上の網代でとれるころだな、というのは、土地の人にしか分からない、そして土地の人ならだれでも常識として知っている、定住者にしか作れない「自然暦」的な認識であって、芭蕉が「よそ者」として近江を旅する人であったにもかかわらず、いかに近江の漁民や農民の暮らしに愛情を持ち、鋭い観察力をもって見ていたかを証すものだ、というのが友人の読みです。
そして霰が降るころ、そろそろ鮎の稚魚が田上の網代でとれるころだな、というのは、土地の人にしか分からない、そして土地の人ならだれでも常識として知っている、定住者にしか作れない「自然暦」的な認識であって、芭蕉が「よそ者」として近江を旅する人であったにもかかわらず、いかに近江の漁民や農民の暮らしに愛情を持ち、鋭い観察力をもって見ていたかを証すものだ、というのが友人の読みです。
そこまでは芭蕉の自然や庶民の生活に対する鋭い観察力、認識力を賞揚するだけで、そこにしかこうした句の価値を認めないとすれば、いくら褒め讃えても、芭蕉を民俗学者である彼自身に引き寄せて一介の優れた民俗学者にしてしまうだけですが、友人の直観的な詩人的資質の優れたところはこの先に発揮されます。
この句は、考えてみれば、旅人、よそ者としての芭蕉の視点から表現された、というよりは、まるで近江の地の漁師の一人が、もうそろそろ霰が降るころだなぁ、と思い、霰が降るころになれば実の田上の網代で小鮎の稚魚がたくさんとれるなぁ、と連想して、霰が降ったら、やってくる客にその氷魚を煮て出してあげようよ、と考えて詠んだ句のようになっています。つまり、句を詠むときの意識の主体、表出意識が、旅人のものではなく、地の人のものになっています。
これを友人は、芭蕉が土地の人に成りきって、客をもてなすという視点で詠んだ句だと言っているのですが、これは大変鋭い指摘だと思います。そして、そこにこの句の表現価値、表現としての付加価値の源があるのだと思います。つまり句を民俗史料としてではなく、あくまでも「表現」として見るなら、このような表出主体の位置を見出したところに、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」の用語でいえば、「自己表出」の飛躍があったのだと思います。
改めてこの句を、自己表出と指示表出の構造体としての言語表現という観点でたどってみると、「網代」や「氷魚」は名詞で物の名をあらわすので、ときどき自己表出、指示表出という概念を誤解している人は、これらの言葉は指示表出、と考える人があるのですが、この概念はそんなふうに語によって分離できるものではなく、「網代」という表現も「氷魚」という表現も、ともに表現としての言語として見れば、自己表出の面からも見ることができるし、指示表出の面から見ることもできます。
指示表出からみた「霰」は、あの空から降ってくる自然現象としての「霰」という物体を指しているわけで、ほかの名詞と同様に指示性100%に近い言葉だとみえるけれど、そもそも表現として、この言葉を選んだということ自体に、表現主体の主体的行為があるわけで、そこにこの言葉もまた「自己表出」の面からみられる根拠があります。
他の類似の言葉ではなく、排他的にこの「霰」という言葉を選んだところに、この対象を指示する指示性とともに、それを主体的に選択した表現する側の主体意識、表出意識、表出する視点、視角、思いがあるわけで、それを「自己表出」と呼んでいるわけです。
指示表出からみた「霰」は、あの空から降ってくる自然現象としての「霰」という物体を指しているわけで、ほかの名詞と同様に指示性100%に近い言葉だとみえるけれど、そもそも表現として、この言葉を選んだということ自体に、表現主体の主体的行為があるわけで、そこにこの言葉もまた「自己表出」の面からみられる根拠があります。
他の類似の言葉ではなく、排他的にこの「霰」という言葉を選んだところに、この対象を指示する指示性とともに、それを主体的に選択した表現する側の主体意識、表出意識、表出する視点、視角、思いがあるわけで、それを「自己表出」と呼んでいるわけです。
「煮てだす」は「煮る」「出す」という二つの動詞から成る言葉ですが、動詞は表現としては名詞に比べれば指示表出性の度合いがより小さく、逆に自己表出性の度合いがやや大きい言葉だということになるでしょう。それは、「煮る」という誰もが知っているあの調理行為を指し示すと同時に、それを表現する主体が、みずから氷魚を煮る動作をする視点位置に立って、氷魚を煮る、という主体的な意識自体の表現にもなっている言葉であり、それがこの句を動的なものしている理由だと考えられます。
それは逆に、この動作を示す言葉を「氷魚の煮物」というふうな名詞化した表現に変えていたとすれば、あぁ煮られた氷魚があるんだな、とは分かっても、みずから氷魚を煮てもてなそう、という主体的、動的な印象をこの句から受けることはないだろう、ということからも理解できます。そこに、この言葉の「自己表出」の面から見られた働きがあるのだと思います。
同様に、この「煮てださん」の部分を、「煮る漁師」とか、「くらいけり」とか、「食う女」とか、「氷魚に舌鼓」などという言葉に置き換えてみれば、どう印象が違ってくるかを考えれば、この「煮てださん」という主体的表現に属する言葉の働きがはっきりすると思います。
「霰」という表現は、客観的物理的気象学的実体を指しているだけではなく、現に目の前に降る霰にせよ、あるいはいまにも降りそうな霰にせよ、仮想的に考えられた霰にせよ、空から降ってくる霰を見る視点の位置を同時に含んでいる表現であって、それを「霰せば」というのは、「霰が降るならば」とあえてペンディング状態に置いて、末尾の「煮てださん」という判断と行動の劇的な表現に集約する効果を高めているのでしょう。
その「霰」への視線を今度は「網代」に転換する、そこには友人が指摘するような自然暦の認識があるのかもしれません。あるいは土地の人には慣用句化された付け合いの言葉だから使っただけかもしれません。それは表現としての俳句を読む立場からはどうでもいいことです。芭蕉の句として表現された言葉が、句の中で有効に機能していればよいので、その言葉を用いた背景としての認識が芭蕉自らの鋭い観察眼で得られたものであるか、さんざん歌や句に詠まれた慣用表現を拝借したものであるかは問題になりません。
さて「霰」から「網代の氷魚」への視線の転換は、気象から生活風物詩の一コマへの転換であり、「網代」から「氷魚」への転換はさらにより小さな対象への視線の転換でもあって、短い言葉のつなぎの中に、結構視線の変化、飛躍の印象を与える自己表出の起伏が隠されているようです。
さらにそこから「煮てださん」への転換は、「氷魚」という対象を手元へ引き寄せて、自分が調理するものとして、これまで「氷魚」を見ていた視線を「煮る」という行為の上に移し、しかもそれは自らの行為なので、ここで表出位置を転換して、その行為を行う主体と表出主体の位置を重ねた表現になっています。
つまりこの第三句で劇的な表出位置の変化が起きているわけで、自己表出の流れのクライマックスに当たり、ここでこの句の付加価値をぐっと高めているのだと考えられます。
先に述べたように、ここを「煮る漁師」「くらいけり」「食う女」「氷魚に舌鼓」などとした場合と芭蕉の句を比べてみれば、この「煮てださん」の働きが理解できるし、これが無ければ、いくら芭蕉が「霞」と「網代の氷魚」の自然暦的認識を理解していたとしても、この句の価値は民俗学的史料としての価値を出なかったでしょう。俳句の価値はやはり「認識」に還元できるものではなく、あくまでもそれは「表現」として読むことによって見出されるものだと思います。
芭蕉が近江の漁師や農民の生活を愛し、彼らの生活をつぶさに観察し、句を詠むにあたって、彼らに成りきって、その視点で詠むことによって、あらたな表現(自己表出)の高みへの飛躍をなしとげたように、蕪村もまた、「よそ者の京好み」として、あたかも自らを根生いの京都人であるかのように見立てて、こんな句を詠んでいることを、友人が指摘しています。
春の暮我住む京に帰らめや
秋の暮京を出て行く人見ゆる
なには女や京を寒がる御忌詣
確かにこうした句で蕪村は「よそ者」意識ではなく、自分を「根生いの都人」に擬して、そういう表出位置から「京に帰ろうよ」と詠み、「京を出て行く人」を見、京を寒がる「なには女」を眺め、表現しています。
このように旅人の自分を近江の地の漁師であるかのように見立て(芭蕉)、よそ者のくせに根生いの都人であるかのように自らを擬して(蕪村)句を詠むとき、かれらはその表現の内で、それぞれお気に入りの土地の根生いの者の視点、視角を見出し、その表現主体としての表出位置、角度から「表出」しているわけで、そのことが従来のただ自然や暮らしの風物を詠んだ句にはなかったそれらの新しい見えかたを示し、新しい表現を生み出したわけで、こうした「自己表出」に沿って句を読むことが、その句の表現としての「価値」に触れることになるのだと思います。
こうした自己表出の飛躍が、言語の指示性をも飛躍的に強め、従来の句では切り込めなかった庶民の生活や庶民の思いに深く切り込む表現を可能にしたことは疑いないでしょう。
それは以前に触れたように、三浦つとむが「日本語はどういう言語か」の中で例示していた子供の絵を例にとれば、机の前に座って何か描いている子供を正面から同じ高さでとらえた絵では、ただそうしたことをする子供の姿と机の前面のイメージしかわからなかったのが、視角を変えて斜め上方からこの少年と机をとらえた絵では、机の上が全部見えて、子供が何を描いているのか、机の上に他に何があるかまで、全てわかるようになったのと同じことでしょう。指示表出と自己表出の関係はこのように不可分離の一体的な構造として表現のうちに実現されているわけです。
それは以前に触れたように、三浦つとむが「日本語はどういう言語か」の中で例示していた子供の絵を例にとれば、机の前に座って何か描いている子供を正面から同じ高さでとらえた絵では、ただそうしたことをする子供の姿と机の前面のイメージしかわからなかったのが、視角を変えて斜め上方からこの少年と机をとらえた絵では、机の上が全部見えて、子供が何を描いているのか、机の上に他に何があるかまで、全てわかるようになったのと同じことでしょう。指示表出と自己表出の関係はこのように不可分離の一体的な構造として表現のうちに実現されているわけです。
芭蕉や蕪村の上に例挙したような見立ての句の技法は、映画撮影の技法でいう「POVショット」(point of view shot)になぞらえることもできるでしょう。登場人物の視点で撮り、その人物が見ているものを見せる手法で、例えば旅人である自分とは別の近江の地に暮らす漁師が氷魚を調理して客人をもてなそうとする様子を、そうした光景を見ている句の詠み手である芭蕉の目でとらえるのでもなく、また芭蕉をも客体化して漁師とともに対象的にとらえるのでもなく、「霰せば…」の句では、調理する漁師の目にカメラを重ねて、その漁師の目がとらえるものを撮っていくことになります。
たとえば手前から向こうへ自分の手をニュッと差し出すところや、その自分の手がつかむ氷魚の入った器を、火に掛けた隣の煮鍋へと移す自分の動作を像としてとらえていく目そのものがカメラと化して、そうした自ら動いていく主体的、動的な映像を創り出していく、調理する漁師自身の目が見ている通りにフォローしていくカメラワークになるでしょう。
たとえば手前から向こうへ自分の手をニュッと差し出すところや、その自分の手がつかむ氷魚の入った器を、火に掛けた隣の煮鍋へと移す自分の動作を像としてとらえていく目そのものがカメラと化して、そうした自ら動いていく主体的、動的な映像を創り出していく、調理する漁師自身の目が見ている通りにフォローしていくカメラワークになるでしょう。
こういうカメラ位置を取れば、当然、その手がどういう器を使い、どのように氷魚を扱い、どう料理するか、という漁師の生活の細部を形作る生活知や技術が、その像によって、その視点の取り方によって、否応なくとらえられることになるでしょう。そうしたカメラの位置や角度が必然的に撮られる映像のありよう、そこに描き出される対象の姿を変えていくことになります。
調理する漁師の目でとらえた映像は、彼から距離を置いて第三者的な位置に据えたカメラではとらえられない映像であり、対象のありようを見せてくれるはずです。このように表現された作品(ここではカメラでとらえられた映像)における「表現」と「認識」は一体であり、分離することができないし、表現における「指示表出」(対象のあり方、対象の像として客観化される)と「自己表出」(その対象をとらえる主体意識の位置、視角等として客観化される)とは分離することができません。
調理する漁師の目でとらえた映像は、彼から距離を置いて第三者的な位置に据えたカメラではとらえられない映像であり、対象のありようを見せてくれるはずです。このように表現された作品(ここではカメラでとらえられた映像)における「表現」と「認識」は一体であり、分離することができないし、表現における「指示表出」(対象のあり方、対象の像として客観化される)と「自己表出」(その対象をとらえる主体意識の位置、視角等として客観化される)とは分離することができません。
「霰せば‥」の句は、たしかに友人が指摘したように、芭蕉が近江の自然暦的な認識を持っていたことを示し、それはまた彼の庶民生活への観察力の鋭さ、認識の深さをあらわしているかもしれませんが、この句の表現としての価値がそういう認識自体にあるわけではなく、自分をもてなす根生いの漁師に擬した表現を可能にした表出位置、視角などを見出し、従来のありふれた視点・視角から自己表出の転移を成し遂げることによって、氷魚を調理する漁師の目と化したカメラがとびはねる氷魚の姿やそれを扱う漁師の手際のよさを必然的にとらえるように言語の指示表出の領域を広げ、また指示性を強めたことが、この句の文芸的価値を高めていると言えるでしょう。
蕎麦も見てけなりがらせよ野良の萩
芭蕉が近江粟津の龍が岡の丈草ゆかりの俳人らしい山姿という人の家に赴いたときの挨拶句らしいのですが、友人は「京・江戸嫌い、鄙好みの芭蕉」という立論をもとに、萩は京の伝統的な和歌の世界を表し、蕎麦は芭蕉がそうした貴顕の伝統的な雅の世界から脱却して庶民の中に新たな風雅、都の雅に対抗できるものとして芭蕉が鄙に見出した風雅を表している、と解釈しています。
伝統にこだわり革新できない萩に対して、誰も美しさを詠まないが、萩に劣らず美しい蕎麦の花を対比させたもので、芭蕉の京の伝統的俳壇への批判を蕎麦に仮託したもの、というのです。
それは独創的で魅力的な読みではありますが、やっぱり私には深読みに思われ、彼の推論は芭蕉の「京・江戸嫌い、鄙好み」という彼のそれ自体は正当かもしれない立論を状況証拠とした読みですが、この句の言葉自体に直接のエビデンスが見いだせるとは思えないので、そこには同意しがたい論理の飛躍があると思います。
伝統にこだわり革新できない萩に対して、誰も美しさを詠まないが、萩に劣らず美しい蕎麦の花を対比させたもので、芭蕉の京の伝統的俳壇への批判を蕎麦に仮託したもの、というのです。
それは独創的で魅力的な読みではありますが、やっぱり私には深読みに思われ、彼の推論は芭蕉の「京・江戸嫌い、鄙好み」という彼のそれ自体は正当かもしれない立論を状況証拠とした読みですが、この句の言葉自体に直接のエビデンスが見いだせるとは思えないので、そこには同意しがたい論理の飛躍があると思います。
「けなりがらせる」(羨ましがらせる)というとき、羨ましがるのは「野良の萩」ですから、一種の擬人法を前提とした言い方で、「野良の萩」をひとに見立てて、羨ましがらせてやれ、というのでしょう。
龍が岡のあたりは蕎麦の産地で、当時周辺には蕎麦畑がひろがり、その小さく可憐な白い花が一面に咲いていただろうということです。でも土地の人にとっては当たり前の日常風景で、蕎麦の花など珍しくもなんともないし、そんなに派手な花ではありませんから、見ていて見過ごしているようなもので、歌などに歌われることもほとんどなかったのではないでしょうか。
他方、萩のほうは万葉集で確か一番多く登場する花が萩だったのではないかと思いますが、それほど古来から歌にも歌われてきました。だからこれを対照的にとりあげていることは友人の指摘のとおりでしょう。
龍が岡のあたりは蕎麦の産地で、当時周辺には蕎麦畑がひろがり、その小さく可憐な白い花が一面に咲いていただろうということです。でも土地の人にとっては当たり前の日常風景で、蕎麦の花など珍しくもなんともないし、そんなに派手な花ではありませんから、見ていて見過ごしているようなもので、歌などに歌われることもほとんどなかったのではないでしょうか。
他方、萩のほうは万葉集で確か一番多く登場する花が萩だったのではないかと思いますが、それほど古来から歌にも歌われてきました。だからこれを対照的にとりあげていることは友人の指摘のとおりでしょう。
そうした目の前の蕎麦の花や萩の花を見て、万葉以来歌にもよく歌われ、愛でられてきた萩の花もいいけれど、この辺りで皆さんは見慣れていてその可憐な美しさにかえって気付かれないかもしれないけれど、蕎麦の花もまたいいものですよ、というのを、萩の花と対照させ、しかも両者を美しい女性のように擬人化して「蕎麦の花も見て、野良の萩をうらやませてやりなさいよ」と詠んだところに、軽みのある面白さがあるのだろうと思います。
これを、今日の伝統的歌壇への批判を託した、と深読みしてしまうと、「かるみ」というより、ちょっと芭蕉もあざといな、という印象になってしまうような気がします。
これを、今日の伝統的歌壇への批判を託した、と深読みしてしまうと、「かるみ」というより、ちょっと芭蕉もあざといな、という印象になってしまうような気がします。
そして、友人のような意図が芭蕉にあったなら、彼は「蕎麦も」とは詠まず、また「野良の」とも詠まず、たんに「蕎麦を見よ」とか、「京の萩」とか何とか、別の表現にしただろうと思います。
萩の花に自分が否定する京都俳壇を仮託するとすれば、萩の花にあまり良いイメージをもっていそうもありませんが、芭蕉が萩を詠んだほかの句には、萩を彼が否定的にとらえる伝統的な都の美意識や都の俳壇の旧弊さを象徴するような意味合いでとらえた句はありませんし、「萩の露米つく宿の隣かな」のように、むしろ鄙の感覚に近いところで萩の花をとらえているように思います。やっぱり「京の萩」でも「都の萩」でもなく「野良の萩」なのですね。
萩の花に自分が否定する京都俳壇を仮託するとすれば、萩の花にあまり良いイメージをもっていそうもありませんが、芭蕉が萩を詠んだほかの句には、萩を彼が否定的にとらえる伝統的な都の美意識や都の俳壇の旧弊さを象徴するような意味合いでとらえた句はありませんし、「萩の露米つく宿の隣かな」のように、むしろ鄙の感覚に近いところで萩の花をとらえているように思います。やっぱり「京の萩」でも「都の萩」でもなく「野良の萩」なのですね。
蕪村には、藤田真一という蕪村研究者の言葉を引いて友人が、時空を「想像力で翔けめぐる創意」と呼ぶこんな句があります。
揚州の津を見へそめて雲の峰
高麗舟(こまぶね)のよらで過行(すぎゆく)霞かな
私が探したところでは似たようなぶっとんだ視点から表出された句がほかにもあります。
南蛮に雲たつ日やせみの声
指南車を胡地に引去ル霞哉
半江の斜日片雲の時雨哉
雲の峰に肘する酒呑童子かな
この種の「無限距離からの視点」で表現したような句をどう読むか、ですが、普通の評釈では、想像の句、とか詩的イメージの表現と解されているようです。
表出の概念から考えると、これは先のPOV的な見立ての表現、鄙の漁民や農夫の、あるいは京の根生いの者に己を擬した句の延長上に考えられるものではないでしょうか。あたかも自分が船上から異国の港の背後に湧き上がる雲の峰を眺めているかのような、また目の前をいくはずのない高麗舟がこちらの港へ寄らずに霞の立つ中を去っていくなぁと眺めているかのような視点を仮構して、その位置から表現しています。
表出の概念から考えると、これは先のPOV的な見立ての表現、鄙の漁民や農夫の、あるいは京の根生いの者に己を擬した句の延長上に考えられるものではないでしょうか。あたかも自分が船上から異国の港の背後に湧き上がる雲の峰を眺めているかのような、また目の前をいくはずのない高麗舟がこちらの港へ寄らずに霞の立つ中を去っていくなぁと眺めているかのような視点を仮構して、その位置から表現しています。
いずれにせよ俳句は十七文字で表現するわけですから、それでいて豊かな、しかもインテグレートされた感情を伝えるためには、その十七文字を構成する言葉が適切に選択され、その言葉が密接に関わり合い、共鳴し、反響しあって、相乗的な、そして統一的な効果を発揮しなければならないのは明らかです。
それを可能にするのは、友人が芭蕉の観察眼とか自然や生活誌に対する豊富な知識と言っているような外在的認識、つまり自然知や生活知などではなくて、むしろ五七五という俳句の限られた文字、音数の組み合わせであって、そのフレームがいわばコンサートホールの反響板のように音数律のリズムを反響させ、また響の波を幾重にも重層させて谺すことで、表現を励起させ、強めているに違いありません。
それを可能にするのは、友人が芭蕉の観察眼とか自然や生活誌に対する豊富な知識と言っているような外在的認識、つまり自然知や生活知などではなくて、むしろ五七五という俳句の限られた文字、音数の組み合わせであって、そのフレームがいわばコンサートホールの反響板のように音数律のリズムを反響させ、また響の波を幾重にも重層させて谺すことで、表現を励起させ、強めているに違いありません。
こんなふうに俳句をあらためて「自己表出」「指示表出」という、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で創りだした概念を借りてその表現の価値を考えてみたいと思ったのは、友人の俳句論に刺激されたのが直接のきっかけではあるのですが、吉本さんが自分がこの最初の主著で述べたように日本の文芸における表現の取りうる方法は、現在までのところ、「韻律・選択・転換・喩」の4つがすべてだ、と述べているのが正しいとすれば、たった十七文字の俳句だって、この4つの方法で表現の価値を創り出しているはずなので、それを具体的な作品について確かめてみたいと、かねてから考えていたからです。
吉本さん自身は、歌については記紀の初期歌謡から現代歌人による短歌まで取り上げたおびただしい論考を残していますが、俳句については私が今思い浮かぶ限りでは、まとまったものとしては、「言語にとって美とは何か」以前のごく初期に比較的短い「宗祇論」があるだけで、「言語美」の中でも歌は俎上に載せているけれど、俳句については同様に考えられるはずだ、と述べて省略していますし、ほかに正面から俳句を論じたものは思い当たりません。だから余計に、機会があればやってみてもいいな、と思っていたのです。
吉本さん自身は、歌については記紀の初期歌謡から現代歌人による短歌まで取り上げたおびただしい論考を残していますが、俳句については私が今思い浮かぶ限りでは、まとまったものとしては、「言語にとって美とは何か」以前のごく初期に比較的短い「宗祇論」があるだけで、「言語美」の中でも歌は俎上に載せているけれど、俳句については同様に考えられるはずだ、と述べて省略していますし、ほかに正面から俳句を論じたものは思い当たりません。だから余計に、機会があればやってみてもいいな、と思っていたのです。
もっとも本格的にやれば、連歌からの岐れから辿りなおし、代表的な俳人のものだけでもおびただしい数の句にあたり、芭蕉関連だけでも何冊も積みあがる連句集などに当たる必要が出てくるでしょうから、もう一回、二十歳くらいから生きなおさないと無理(笑)。
というわけで、きょうは友人の原稿が取り上げていて、その句も彼の解釈も面白いな、と思った一、二の句だけ取り上げて自分の学んできた吉本理論(と私が理解している限りので)の観点で読めばどうなるかな、というのをやってみただけです。
というわけで、きょうは友人の原稿が取り上げていて、その句も彼の解釈も面白いな、と思った一、二の句だけ取り上げて自分の学んできた吉本理論(と私が理解している限りので)の観点で読めばどうなるかな、というのをやってみただけです。
友人の原稿を読む際に、何人かの芭蕉や蕪村を論じた研究者や文芸評論家の本も覗いてみましたが、ほとんど何の参考にもなりませんでした。
なぜなら、彼らは、「わび」と「さび」とか「かるみ」とか、芭蕉自身の創り出した概念、言葉を使って芭蕉の句を読もうとしているだけで、それはそれで芭蕉の心を多面的に理解し、深く降りていくための助けにはなるでしょうが、表現としての芭蕉の句、その価値をほかの文芸的表現にも通用するような客観性のある尺度で明らかにする上では何の役にも立たない、つまり表現の理論としての普遍性を全く持たない、俳句業界と言って悪ければ俳句研究業界の内輪の言葉にすぎない、という気がしました。
そんなことを言うと、いや英語に翻訳して海外へ出せばいい、なんていうおバカなことを言う人があるので困りますが、そういう人は英語に翻訳することが普遍性を獲得することだと思っているらしくて、自著が英語版で出たとか、海外のどこやら大学の教授が読んでほめてくれたとか(笑)、自慢にしている御仁があったりして、その無邪気さに微笑ましい気分になったおぼえがありますが、ここでいう普遍性はもちろんそんなことではなくて、「理論」と呼べるような普遍性です。
なぜなら、彼らは、「わび」と「さび」とか「かるみ」とか、芭蕉自身の創り出した概念、言葉を使って芭蕉の句を読もうとしているだけで、それはそれで芭蕉の心を多面的に理解し、深く降りていくための助けにはなるでしょうが、表現としての芭蕉の句、その価値をほかの文芸的表現にも通用するような客観性のある尺度で明らかにする上では何の役にも立たない、つまり表現の理論としての普遍性を全く持たない、俳句業界と言って悪ければ俳句研究業界の内輪の言葉にすぎない、という気がしました。
そんなことを言うと、いや英語に翻訳して海外へ出せばいい、なんていうおバカなことを言う人があるので困りますが、そういう人は英語に翻訳することが普遍性を獲得することだと思っているらしくて、自著が英語版で出たとか、海外のどこやら大学の教授が読んでほめてくれたとか(笑)、自慢にしている御仁があったりして、その無邪気さに微笑ましい気分になったおぼえがありますが、ここでいう普遍性はもちろんそんなことではなくて、「理論」と呼べるような普遍性です。
芭蕉の「わび・さび」の解説だって、そりゃ翻訳すれば英語で読めるでしょう。日本の文芸批評家だって、たいていはドストエフスキーの小説に関するバフチンの翻訳評論などから、「ポリフォニー」なんて概念を借りてけっこうよろしくやっているわけです。
「わび・さび」だから翻訳で外人にはわからない、なんてことはないわけです。けれども、芭蕉自身の創りだしたその概念で、じゃ他の世界中の文学表現を解いてごらん、と言えば、とうていできないでしょう。それが理論としての普遍性がない、ということではないか。
その証拠に、そういう解きかたは、つねに、おまえのいう「わび・さび」ってどういう意味だ?という問いを誘発せずには済みません。結局ひとそれぞれ、恣意的な解釈を、ああでもない、こうでもない、とやっているだけです。そういう芭蕉論や蕪村論を読んでも、彼らの句の表現価値の秘密に迫ることは永遠にできそうもありません。
「わび・さび」だから翻訳で外人にはわからない、なんてことはないわけです。けれども、芭蕉自身の創りだしたその概念で、じゃ他の世界中の文学表現を解いてごらん、と言えば、とうていできないでしょう。それが理論としての普遍性がない、ということではないか。
その証拠に、そういう解きかたは、つねに、おまえのいう「わび・さび」ってどういう意味だ?という問いを誘発せずには済みません。結局ひとそれぞれ、恣意的な解釈を、ああでもない、こうでもない、とやっているだけです。そういう芭蕉論や蕪村論を読んでも、彼らの句の表現価値の秘密に迫ることは永遠にできそうもありません。
多分吉本さんが、プロレタリア文学批評などやっていて、見切りをつけたのは、そういう文芸理論めかした恣意的な議論にうんざりして、普遍的な表現の理論を打ち立てたいと思ったからでしょう。
その意気込みと趣旨は「言語にとって美とはなにか」の序文に明確に書かれていて、いまでも颯爽としています。
今も単なる感想や印象批評の類をもったいぶった言い回しでひねくり回したり、研究論文風の体裁を装うことによって論じたふりをしているような、結局は自分の好みを理屈づけたいだけの恣意的な議論が堂々と「批評」と称して業界をまかり通っているように、私には見えます。
半世紀ほど前の吉本さんの打ち立てた普遍的な表現の理論の基礎は、まだ全然古びても朽ちてもいないで、その基礎の上に、将来の世代の構築が始まるのを待っているんだと思います。ほかには拠るべき普遍的な表現の理論など、少なくとも日本ではどこにもなさそうですから。
その意気込みと趣旨は「言語にとって美とはなにか」の序文に明確に書かれていて、いまでも颯爽としています。
今も単なる感想や印象批評の類をもったいぶった言い回しでひねくり回したり、研究論文風の体裁を装うことによって論じたふりをしているような、結局は自分の好みを理屈づけたいだけの恣意的な議論が堂々と「批評」と称して業界をまかり通っているように、私には見えます。
半世紀ほど前の吉本さんの打ち立てた普遍的な表現の理論の基礎は、まだ全然古びても朽ちてもいないで、その基礎の上に、将来の世代の構築が始まるのを待っているんだと思います。ほかには拠るべき普遍的な表現の理論など、少なくとも日本ではどこにもなさそうですから。
saysei at 23:05│Comments(0)│