2020年02月23日

論語しらずの論語よみ ~多芸の人

 達巷党の人曰わく、大なるかな孔子、博(ひろ)く学びて、名を成す所(べ)きなしと。子、これを聞き、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾何をか執(と)らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。(子罕篇)

 達巷部落の或る人がいった。
 「偉大なお方だな、孔先生は。多方面の学問をされながら、何ひとつ専門をもたれないのだから」
 先生がこの噂をきかれて、内弟子たちにいわれた。
 「いったい自分は何を専門にしようかな。御者になろうか。それとも射手になろうか。・・・自分はやはり御者になろう」(貝塚茂樹・訳注、読み下し文も)

 古来の注はみなこのエピソードを大真面目にとって、例えば朱熹の「論語集注」では、人が自分をほめたのを聞いて孔子が謙虚さで応じたのだとしています。(人の己を誉むるを聞き、之を承けるに謙を以てするなり。)そして、尹焞(彦明)の「論語精義」の注を引いています。「聖人は道を完全に会得していて、徳も具わっている。かたよった得意の技芸で評価してはならない。達巷の村の人々は、孔子の大きさを見て、その学んだ内容の広さに思いを致し、一つの優れた技芸で世に名声を得ていないのを残念がった。つまり聖人を慕っていたがその本質を理解していなかったのである。」云々。(土田健次郎訳注「論語集注」より)

 仁斎は孔子が御(馬術)を執ると言ったのは、御が六芸の中で最も卑(ひく)いものとされているため、思うにこれは反語であって、道とは専門として執るべきようなものではないことを言っているのだ、としています。(「論語古義」)

 徂徠もまた尹焞や朱熹の説を臆見とし、それならなぜ「大いなるかな」と言うだろうか、「たいてい宋儒は聖人を知るを以て自負して、しかうして人の聖人を知ることを與(ゆる)さず、必ず貶(へん)する意を見(あらは)さんと欲す」と噛みついています。
 
 徂徠によれば、芸は六芸(礼,楽,射,御,書,數)あるが、礼・楽は「道の大いなる者、君子の事なり、ゆゑに謙して敢へて」挙げなかった。また、「書・數は府史胥徒(小役人ども)の先にするところ、ゆえに君子は任ぜず」ということでこれも挙げず、御と射を挙げたのだ、と。そして、御は礼記に「大夫の子を問ふときは、長ぜるをば能く御すと曰ふ、幼なるをば未だ御すること能はずと曰ふ」と言い、また「国君の子の長幼を問ふときに、長えるをば則ち能く社稷の事に従ふと曰ふ。幼なるをば則ち能く御す、未だ御すること能はずと曰府」とあるように、古来「御を以て子弟の職とす」といったものであったから、「孔子も亦たみづから御を執りて以て子弟の師と爲ることを言ふ」としています。

 でも、私はここは孔子が自分を称賛する言葉を聞いて喜んで、じゃ何を専門にしようか、馬術をやるのがいいかな、弓をやるのがいいかな、と冗談を言ったんだ、と解釈する貝塚さんが一番いいと思います。孔子は上機嫌で軽口を飛ばしたんだと思います。

 それを傍証するような、孔子が自らの多芸について語った有名な一節がほかならぬ論語の、同じ子罕篇にあります。

 大宰、子貢に問いて曰わく、夫子は聖者、何ぞそれ多能なる。子貢曰わく、固(もと)より天の縦(ゆる)せる将聖にしてまた多能なり。子これを聞きて曰わく、大宰は我を知れる者か。吾少(わか)くして賤しかりき。故に鄙事に多能なり。君子多ならんや、多ならざるなり。

 呉の大臣が、子貢にきいた。
 「先生は聖人であられるのか。それにしてはなぜあんなに多芸なのか」
 子貢がこたえた。 
 「仰せのとおり先生は神さまにゆるされた大聖人ですが、またそのうえ多芸なのです」
 先生がこのことを聞かれていわれた。
 「大臣はよく自分のことを理解してるね。自分は若いとき身分が低かった。そのためたくさんつまらぬ仕事ができるようになったのだ。君子は多芸であっていいだろうか。いや、多芸ではいけないのだよ」(貝塚茂樹・訳注。読み下し文も)

 こういうところに孔子のあるがままの姿がふっと垣間見えるのが、論語の魅力だと私には思われます。

 牢曰わく、子云う、吾試(もちい)られず、故に芸ありと。

 琴牢がいった。
 「先生は、『自分は世間に用いられなかったため多芸になたのだ』といわれた」

 とても素直で正直な述懐だと思います。孔子を変に聖化して彼の多芸を聖人の万能とするような解釈はかえって孔子の魅力を損ねてしまうでしょう。

 子曰わく、弟子入りては即ち孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学べ。(学而篇)

 先生が言われた。
 「若い諸君たち。君らは家のなかでは父母に孝行をつくし、家の外、つまり村の寄合いでは、年寄りに従順につかえ、発言には慎重で、いったことはかならず果たし、皆の衆にはわけへだてなくつきあい、村の人格者にはとくに昵懇をねがわねばならぬ。これだけのことができたうえでまだ余力があったら、そこではじめて書物について勉強したまえ」

 「行有餘力、則以学文」・・・いいですねぇ、「文」は最後、余力があれば・・です(笑)。孔子には人が生きていく上で、日々互いに関わり合う中で人倫の道を歩むことが何より大事で、確かに時代的制約から、その人倫の道は父母に孝、年寄りに従順、ということだったかもしれませんが、生活を離脱して観念的に上昇していく「文」に、それ以上の価値を置いていないのはさすがだと思います。

 普通の人々の生活の中に価値があり、互いに慈しみあい(仁)、安らぎを保つ秩序を守って生きることの大切さを戦乱の世だからこそ熟知し、そういう民の平和な暮らしを守るために君主たちに、彼が理想とする先王たちの「礼」の道を説いたということでしょう。

    先日、岩波文庫の井筒俊彦著『コスモスとアンチコスモス』というのを買ったら、その末尾に著者と司馬遼太郎との対談が収録されていたので、小難しそうな本編は後回し(永遠に、かもしれないけど・・笑)にして、日向ぼっこしながらこの対談を読んだら、けっこう面白かった。

 とりわけ、井筒さんのイスラムに関する師であったムーサー・ジャールッラーハという人の話がとても面白い。代々木の家に来いというので行くと、下宿代が払えないものだから、押し入れの上段になら寝泊まりしてよいと大家に言われて、押し入れの上段からごそごそ這い出してくるような貧しい暮らしをしているけれども、イスラムの事なら何でも頭にはいっていて、アラビア文法学の古典で最初に習う1000ページくらいの本とその注釈本まで全部暗記していて、テキスト無しに教えてくれた、と。

 そして井筒さんが病気をして見舞いに家に来てくれた時、見まわして「おまえ、ずいぶん本を持っているな、この本、どうするんだ」「もちろん、これで勉強する」「火事になったらどうする?」「火事で全部焼けちゃったらお手上げで、自分はしばらく勉強できない」といったら、それこそ呵呵大笑するんです。「なんという情けない。火事になったら勉強できないような学者なのか」と。(笑)

 旅行のときも、行李に入れてチッキにして汽車で運んで読むんだ、と言ったら「お前みたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」・・・

 600ページくらいの本は1週間でほとんど全部暗記していたそうで、コーラン、ハディース、神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学などの主なテクストは全部頭に暗記していたそうです。

 こういうのでないと学者とは言わないんだ、ということだと、まず日本の99.999%以上の自称・他称の学者先生は学者じゃなくなってしまうでしょう。

 でも、そういう師匠に習った井筒さんという学者もたしか50ヵ国語くらい自在に読み書きできた超人みたいな人だったらしくて、この対談の冒頭でも司馬さんが「常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと」思っていたなどと語っています。

 江藤淳が学生のころに授業で感銘を受けた教授が二人だけいて、一人は西脇順三郎、もう一人がこの井筒俊彦だったというのを、比較的最近評判になった江藤淳の伝記で知って、それまで敬遠してきたイスラムについてのこの人の書いたものなど手にとってみようと思った次第。

 そういえば、もう一つ井筒×司馬対談で興味深かったのは、井筒さんが大川周明に可愛がられていたらしいという話と、大川がサンスクリットを学んでインドに同化していっただけでなく、これからの日本はイスラムをやらなきゃ話にならないと言ってオランダから「イスラミカ」や「アラビカ」というアラビア語の大叢書など基礎文献、研究文献を集めていた、そしてそれを井筒さんに任せて整理させていたという話。

 孔子の学問論の片鱗に触れたところで思い出したので、ついでに書いておいただけで、とくに論語と関係のある話ではありません。
  


saysei at 15:43│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ